【太平天国の乱とは】簡単にわかりやすく解説!!原因や結果(死者数)・影響など

 

日本史を習う上ではお隣の国である韓国や中国のことも知らなければいけません。

 

太平天国の乱という内乱も日本にも大きな影響を受けました。

 

今回はそんな中国を揺るがした大反乱『太平天国の乱』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

太平天国の乱とは?

(太平天国の乱 出典:Wikipedia

 

 

太平天国の乱とは、1851年(嘉永4年)に今の中国にあった王朝であるを倒すために中国のキリスト教徒が起こした大反乱です。

 

(※この太平天国の乱は、別名「長髪賊の乱」とも言われています)

 

この内乱は洪秀全が起こし、最大時では南京を含む中国の南半分を占領するほどの勢いを持っていました。

 

太平天国の乱が起こった原因

(洪秀全 出典:Wikipedia

①キリスト教の出会い

太平天国の乱の指導者となった洪秀全は中国の南の端にあった広東省で生まれました。

 

洪秀全は清のエリート官僚になるために、当時中国で行われる官僚試験であった科挙という試験を受けますが、失敗。そのショックからか洪秀全は40日の間寝込むようになりました。

 

しかし、洪秀全はその寝込んだ時にある不思議な夢を見ます。

 

その内容はどこかユダヤ教の唯一神であるヤハウェぽい感じの老人から魔物を倒す剣である破邪の剣を与えられ、またイエスキリストのような男から魔物を斬る手助けをされたというものでした。

 

洪秀全はこの夢を不思議がりながら気を取り直して広州というところで受験をする時、とある宣教師から『勧世良言』というキリスト教についてのパンフレットをもらいました。

 

洪秀全はこのパンフレットを見て「夢で見たあの老人は唯一神で、さらにあの男はイエス・キリスト様だったのか!」とヘンテコな思い込みをしてしまい、そして「こんな夢を見た私は、きっと特別な男に違いない」と考え始め、儒教や仏教などの偶像を破壊し始めるということをし始めました。

 

②拝上帝会と内乱の開始

1847年、洪秀全はまず『拝上帝会』という宗教団体を作ります。

 

この宗教はキリスト教を中国風にアレンジしたもので西洋諸国の人から見たら鼻で笑われるようなものでした。

 

さらに『神様のことを拝もうの会』というものなのに「イエスキリストの弟である洪秀全のことを信じろ」という無茶苦茶なものでもありました。

 

普通に考えばこんなカルト宗教信じる人なんているはずありませんが、この当時の中国は列強諸国に攻められてボロボロ。

 

さらに当時の民衆は政府からの税金に苦しんでいたので、こんな馬鹿みたいな宗教にすがるしかなかった人もいたのでした。

 

しかし清はこんな宗教を見逃すことはできず、拝上帝会は政府から弾圧されます。

 

こうして結成から三年経った1850年、洪秀全は女真族が作った国である清を倒して漢民族中心の素晴らしい国を作るために内乱を起こすことを決定しました。

 

太平天国の乱の経過

(赤部分が太平天国の支配地域 出典:Wikipedia

①太平天国の誕生

1851年、洪秀全は金田村という地域で拝上帝会を太平天国と変えて、さらに洪秀全自身を天王と名乗りました。

 

太平天国は最初の頃は3000人ほどの小さな軍でしたが、清はこれを倒すことができません。

 

なぜならこの頃の清はアヘン戦争などで疲弊しており、さらに同じ時期に起こっていたアロー戦争も対応しなければいけなかったのです。

 

 

そのおかげで太平天国の勢いはどんどん増していきました。

 

(太平天国の国章)

 

ちなみにこの時、官職制度を作り・・・

  • 「東王」楊秀清
  • 「西王」蕭朝貴
  • 「南王」馮雲山
  • 「北王」韋昌輝
  • 「翼王」石達開

という形で勢力を分担させることにしました。

 

しかし、これが地獄の始まりとも言える悲劇に繋がるのです。

 

②南京陥落

太平天国の軍は湖北省の漢口を陥落させてから一気に南京を陥落させました。

 

しかし、この時上に書いた王の内2人が戦死してしまいます。

 

洪秀全は南京を首都にして名前を天京と改めました。

 

清は南京を落とされた時に何を血迷ったのかいきなり増税をし始め、そのせいで中国の農民の生活は破綻してしまい、困った人たちは太平天国の乱に参加するようになりました。

 

その結果、最初の頃は6000人だったのが、南京を陥落させた時には20万人の大軍となっていました。

 

太平天国の乱の衰退

(長江での太平天国軍と清軍との戦い)

①太平天国の乱による粛清

清の軍は非常に弱かったのですが、有能な人はたくさんいました。

 

例えば、モンゴル人の将軍センゲリンチンは北京を攻めようとする太平天国軍が全滅させるという功績をあげています。

 

一方太平天国の方にも楊秀清という有能な人はいましたが、洪秀全はいつの間にかこの人の方が偉い存在になっていたため、気にくわない状態でした。

 

最初の頃は、洪秀全も実際に楊秀清の方が有能なため目をつぶっていましたが、徐々に調子に乗り始めた頃から洪秀全も激怒してしまい、楊秀清を含む4万人が粛清されてしまいます。

 

②清の洋務運動。太平天国の乱のおわり

清は太平天国の乱を鎮めるために軍の近代化を進めていきました。この近代化のことを洋務運動と言います。

 

この頃から一時は日和見していた欧米列強も清の援助をし始めました。

 

このことが決定打となり太平天国の乱は崩壊へと進んでいきます。

 

1864年天帝となっていた洪秀全は天京にて死去。その後天京が陥落して太平天国の乱は鎮圧されました。

 

一説にはこの時太平天国の乱に参加した兵20万人が殺害され、この乱による総死者は2000万人とも言われています。

 

太平天国の乱の各国への影響

①中国の影響

太平天国の乱は鎮圧されましたが、この思想はとある人に影響を与えました。

 

その人の名は孫文。のちに辛亥革命を起こして清を倒すことに成功しました。

 

 

もしかしたら太平天国の乱の理念が中華民国へと引き継がれたのかもしれませんね。

 

②日本の影響

太平天国の乱は日本にも伝えられましたが、日本人はこの内乱は漢民族が女真族の清に反乱を起こしたものだと思われていました。

 

しかし、吉田松陰はこのことをきっかけにして日本の防備を強くしていこうという意見も出てきました。

 

 

まとめ

 太平天国の乱とは、洪秀全がキリスト教の影響を受けて起こした漢民族による反乱のこと。

 太平天国の乱は南京を含む中国の南半分を占領した。

 太平天国の乱の理念はのちに辛亥革命を起こした孫文に影響を与えた。

 日本は太平天国の乱を受けて日本の防備を強めるべきだという意見が出てきた。

 

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【読者の感想】

中国の新王朝末期に、中国を混乱に陥れた、太平天国の始まりと終焉を、コンパクトに紹介している。
従来の定説に合わせて、最新の研究の動向なども取り入れている。
洪秀全は、当初は、純粋な宗教的な活動を意図していたが、やがて、貧しい農民を中心とした社会運動へと変わっていった。
南京に太平天国が定住してからは、その暮らしは、歴代の皇帝のように変化してしまった。
孫文や毛沢東が、自らの革命にあたり大いに参考したという太平天国の実態は、意外にも、中国の歴代の乱と、あまり違っていないのではないか?と思えた。

日本では幕末の時代に中国でこのような大乱があった事はもって知られていいはず。

吉田松陰も言及していて高杉晋作が上海に行った時にちょうど太平天国側に上海が攻略されようとしていたという日本にも決して無関係でない乱の話です。