“何か行動するとき、その行動を正当化するための根拠”という意味で使われる大義名分。
朱子学の大義名分論を由来とする言葉です。
今回はそんな『大義名分論』の意味や朱子学との関係などについてわかりやすく解説していきます。
大義名分論とは
①朱子学との関係
中国、南宋時代の朱熹(しゅき)が始めた儒教がルーツの朱子学。その朱子学の特徴的な考え方のひとつが大義名分論です。
②大義名分論の意味
大義名分論とは、君主と臣下の分別をわきまえ、常に上下の身分秩序や礼節を重んじるという考え方です。
上下関係を重視する大義名分論の考え方は、鎌倉時代末期の後醍醐天皇による討幕運動、江戸幕府の封建的支配体制、18世紀後半から幕末にかけての天皇を尊ぶ尊王論、さらには天皇を尊び、諸外国を打払う尊王攘夷論へと広がっていきました。
大義名分論の影響
(後醍醐天皇 出典:Wikipedia)
①後醍醐天皇と大義名分論
日本に朱子学がもたらされたのは、鎌倉時代。この頃、大義名分論の影響を特に受けたのが後醍醐天皇でした。
後醍醐天皇は学問に熱心で、特に朱子学に傾倒していました。
当時、朝廷は天皇の臣下であるはずの鎌倉幕府に政治の実権を握られている状態。そこに朱子学が示す身分を重んじる大義名分論が重なると…後醍醐天皇はどう考えるでしょう。
そうです。後醍醐天皇の現状に対する不満は、鎌倉幕府を倒して天皇に政治の主導権を取り戻すという討幕への意欲に変わるのです。
とはいえ、朝廷には武力をもつ鎌倉幕府を倒すほどの兵力はありません。
そこで、後醍醐天皇は全国各地から幕府に批判的な武士たちを集め、討幕計画を企てました。しかし、2度にわたって失敗。後醍醐天皇は隠岐(島根)に島流しにされました。
これで万事休すかと思われましたが、荘園領主や幕府に反抗していた楠木正成(くすのきまさしげ)、後醍醐天皇の子護良親王(もりよししんのう)が再び挙兵し、幕府軍と戦いました。
この知らせは各地に届き、播磨の赤松則村などが兵を挙げ、後醍醐天皇も隠岐から脱出して挙兵。
さらに幕府側についていた御家人足利尊氏が反旗を翻し六波羅探題を撃破、関東では御家人の新田義貞が鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府は減亡しました。
鎌倉幕府を倒して、後醍醐天皇は念願の建武の新政を始めましたが、行き過ぎた大義名分論が災いして、せっかく手に入れた実権を手放すことになります。
朱子学に傾倒し大義名分論を重視する後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒したのは自分が正しかったからで、武士のおかげではないと思っていました。
そのため、討幕の実際の功労者である武士たちを取り立てるどころか、冷遇。さらに、「すべての土地は天皇のものである」と宣言までしました。
こんな天皇についていく武士などおらず、最大の勢力をもっていた足利尊氏は京都で光明天皇を即位させ、室町幕府を開きました。
後醍醐天皇は奈良の吉野に追いやられても政権奪取をあきらめませんでしたが、その願いはかなわず崩御しました。
②大義名分論から尊王論へ
江戸幕府が朱子学を幕府公認の学問としたことで、大義名分論は武士社会へと浸透し、江戸幕府を支える思想のひとつとなりました。
しかし、諸藩で朱子学が深く学ばれていく中で、幕府にとって都合の悪い尊王論という思想が広がっていきました。
尊王論は儒教から生まれた思想で、「徳をもっておさめる王(王者)は、武力によって支配する覇(覇者)にまさる」という考え方。
この思想が中国から日本に伝わると、王は天皇に置きかえられるようになりました。
つまり、徳をもっておさめる天皇は武力によって支配する将軍にまさる…というように。
この尊王論が広まるきっかけは、水戸藩2代藩主徳川光圀が1657年に開始した歴史書『大日本史』の作成でした。
(徳川光圀 出典:Wikipedia)
当時の水戸藩は中国の明出身の儒学者朱舜水(しゅしゅんすい)を招き、儒学や朱子学を積極的に学ぶ勉強熱心な藩でした。
そんな水戸藩がつくりはじめた『大日本史』では、古代からの日本の歴史を紐解き、日本の初代天皇とされる神武天皇から室町時代北朝最後の天皇、第100代の後小松天皇(ごこまつてんのう)までの歴史を記しました。
『大日本史』は約400巻にもおよび、完成するのは1657年に光圀が開始してからおよそ250年後の1906年。超大作です。
『大日本史』を作るうえでベースになった考え方は幕府公認の朱子学。歴史の解釈は、編集者の考え方や見る角度によって変わるものですが、歴史上の人物を評価する際、朱子学的な価値観で行ったわけです。
歴代天皇たちの歴史を紐解き、多くの学者が議論をかわし、編集作業が進められていきました。
もともと学ぶことが好きな人たちですから、議論は白熱し、新しい考え方や解釈が次々生まれたはずです。
その過程の中で、水戸藩独自の水戸学という政治思想も生まれました。
大義名分論など朱子学の思想を軸に国学や神道がミックスされ、天皇を敬う尊王論を主体とした考え方です。
『大日本史』の編纂を通じて、日本の歴史をつくってきた100代にわたる天皇の治世にふれたことで、“将軍の上に天皇がいる”、“徳をもっておさめる天皇は武力によって支配する将軍にまさる”…こんな風に考えるようになったのも理解できますよね。
ただ、光圀は自分も属している江戸幕府を批判したわけではなく、天皇を尊び、幕府も敬うというスタンスでした。
この尊王論を主体とした光圀の時代の水戸学を前期水戸学というのに対し、第9代水戸藩主・斉昭(なりあき)の時代の水戸学を後期水戸学といいます。
③尊王論から尊王攘夷論へ
(徳川斉昭 出典:Wikipedia)
第9代水戸藩主・徳川斉昭の時代になると、尊王論から尊王攘夷論が生まれました。
尊王とは、幕府の将軍は天皇を尊ぶこと、攘夷は諸外国を打払うことを示します。
水戸藩の儒学者で、『大日本史』の編纂にも加わった会沢安(あいざわやすし)は『新論』で、“外国からの脅威に対抗するためには、天皇を尊び、幕府を敬い、心を一つにして攘夷を目指すべき”と説きました。
この中の尊皇と攘夷が結びついて尊皇攘夷という言葉が生まれました。
また、斉昭の側近、藤田東湖(ふじたとうこ)も尊王攘夷論を説き、西郷隆盛、吉田松陰、橋本佐内、横井小楠といった多くの幕末の志士たちに影響を与えました。
外国からの圧力を受け始める幕末という時代を迎え、朱子学の大義名分論は、時代の“ご都合”に合わせながら、尊王論、さらには尊王攘夷論へと広がっていきました。
尊王攘夷論を説いた水戸学を学んだ水戸藩主からは、多くの過激な尊皇攘夷派が生まれ、老中井伊直弼を暗殺した桜田門外の変などを起こしました。
桜田門外の変の後、ますます尊王攘夷運動は活発化していきました。
まとめ
・大義名分論とは、南宋時代の朱熹が始めた朱子学の特徴的な考え方のひとつ。
・君主と臣下の分別をわきまえ、常に上下の身分秩序や礼節を重んじる考え方。
・鎌倉時代末期、後醍醐天皇は大義名分論に影響され討幕を決意。
・後醍醐天皇は大義名分論にこだわり武士を冷遇したため、建武の新政は失敗に終わった。
・江戸幕府は上下関係を重んじる朱子学の大義名分論を用い封建支配体制を築いた。
・水戸藩2代藩主光圀は朱子学の大義名分論をベースに歴史書『大日本史』を編纂。
・『大日本史』を編纂する中で水戸学が生まれ、尊王論が広がっていった。
・9代水戸藩主斉昭の時代、尊王論に攘夷論が加わった尊王攘夷論が生まれ、幕末の思想に影響を与えた。