明治政府が制定した『集会条例』。
今回はこの条約がどんな内容だったのか、どんな目的があったのか、その後の歴史にどんな影響を与えたのかについて簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
集会条例とは
集会条例とは、1880年(明治13年)に太政官布告として公布された法令です。
集会や結社の自由を規制する法律として制定されました。
同じように自由を圧迫する目的として、新聞紙条例改正、出版条例も制定されています。
(新聞紙条例は1875年、出版条例は1869年に公布)
集会条例は、1877年に起こった西南戦争の後に、立志社により国会設立の建白が提出されたり、国会期成同盟が結成されたりという動きがあったことから、集会や結社を取り締まるために制定されました。
集会条例はなぜ制定されたのか?背景・目的
それでは、集会条例が制定された背景には、どのような政治状況があったのでしょうか。
そこには士族の反乱と自由民権運動が大きく関わっています。
①士族の反乱と集会条例の制定!
自由民権運動は、板垣退助が1874年に愛国公党を結成し、民選議員設立建白書を提出して、全国へと広がります。
板垣は、明治政府の要職に就いていましたが、朝鮮を巡る征韓論争を巡って岩倉具視と対立して下野します。
その際には、西郷隆盛を始め土佐派の官僚が600名余りも辞職するということになりました。
明治政府と対抗したグループが土佐で自由民権を唱え始めます。
元武士である士族の明治政府への反乱は続き、1874年には元佐賀藩士である江藤新平が起こした佐賀の乱、1876年には神風連の乱、萩の乱、秋月の乱が起こります。
そして、1877年には西郷隆盛が中心になった西南戦争が起こります。
その一方で、板垣を中心とした国会開設などを求める動きも広まり、1880年に国会期成同盟が結成されます。
こうした状況に対して、集会条例が出され集会や結社の自由を規制されました。
集会条例が制定された背景には、このような激しい士族の反乱がまずありました。
そしてその後、集会条例を制定した政府への対抗として、自由民権運動が高まっておくことになります。
②自由民権運動の高まり
士族の反乱は西南戦争を最後に収まりを見せますが、板垣により広まった自由民権運動は全国的に広まりを見せ始めます。
1881年には、板垣退助や後藤象二郎などが中心となって自由党が結成されます。
自由党は、主権在民や普通選挙などの思想を掲げており、自由党結成は各地方にも組織と運動を広める役割を果たしました。
また、1882年には大隈重信も立憲改進党を結成します。
自由党も立憲改進党も、西洋の影響を受けた思想を掲げた党であり、日本の近代政党の始まりでした。
その後、自由民権運動は地方の豪農や活動家たちも巻き込んでいきます。
その背景には、地方で強権的な政策を行う政府の要人や役人たちがいました。
③集会条例の改正
自由党・改進党の結成により、全国で政治的集会が活発に行われるようになり、政府は1882年に集会条例の改正を行います。
それは、取り締まりを一層厳しくするものであり、政治というテーマ以外にも集会や結社の取り締まりを広げました。
さらには、支部を設置することも取り締まりの対象になったのです。
政府の弾圧が苛烈になるにつれ、自由民権運動の動きも過激になっていきました。
1882年以降、自由民権運動の「激化事件」と呼ばれる、弾圧事件や農民と自由党急進派などによる反乱・襲撃事件が相次ぐことになります。
「激化事件」の代表的なものとして、1884年の加波山事件と秩父事件があげられます。
加波山事件は、自由党を解党に追い込むほどの大きな事件でした。
集会条例の内容
国民の運動、権利を弾圧する集会条例とは、どのような内容だったのでしょうか。
集会条例は16条からなっており、主な内容は以下のようになります。
第1条から第3条
政治に関する話をするために集会をする時は、集会の3日前に演説者の名前、集会の場所と日時を詳しく記し、管轄の警察署に届けて認可を受けなければいけない。
第4条
管轄警察署が第1条から第3条によって届け出を受け、それが国安に妨害を加えるようであれば、集会を禁止し解散することができる。
第5条
管轄警察署は正規の警察官にその認可書や免許状を検査させ、会場を監視させることができる。
第6条
派出された警察官が認可書の提示を拒まれた時や集会の講義が認可書に書かれた以外になった時、公衆の安寧を乱すと認められた時は、集会を解散することができる。
第7条
陸海軍に籍を置くものや警察学校、官立公立学校の教員と生徒、工芸の見習生、婦女子は集会に参加できない。
第8条
政治に関する講義をするものは、他の結社と連絡を取ったり、通信することもできない。
第9条と第10条
政治に関する講義をするものは、新聞紙上に広告を出すことも檄文を出すことも許されず、屋外での集会は禁じる。
第11条から第16条
以上の規則に反したものへの罰則が記されています。
集会条例の史料と風刺画
(自由民権運動の演説会 画像引用元)
集会条例の史料は国立公文書館に今でも保存されています。
国立公文書館のホームページにある「公文書に見る日本のあゆみ」で、集会条例の史料が閲覧できるようになっています。
100年以上も前の文書ですので読みづらいですが、伊藤博文・山縣有朋・井上馨など当時の政府要人の名前が書かれており、当時の雰囲気を感じ取ることができます。
また、政府の弾圧の様子を描いた風刺画も残されています。
集会が行なわれている中、警官が演説者を止めに入ると、聴衆から急須や茶碗などが投げられているという風刺画です。
庶民が権力に抗議する姿が克明に描かれており、こちらも当時の雰囲気を感じ取れる貴重な史料です。
集会条例が与えた影響
集会条例は改正が加えられるほど、この時期は集会や演説会などが活発に組織されました。
それでは、集会条例がその後の歴史に与えたものとは何だったのでしょう。
①保安条例
集会条例が制定され、改正された後も自由民権運動が鎮まることはありませんでした。
「激化事件」のような過激な事件は、秩父事件を最後に収まりを見せていましたが、1887年には自由党と立憲改進党などの各派が統一して運動をしようという動きが出ます。
同年元土佐藩士の片岡健吉が三大事件建白を政府に提出する運動も起こります。
これは、言論の自由、地租軽減、不平等条約改正の3つを掲げる運動でした。
政府は、こうした運動に対して保安条例を制定して、さらに弾圧を強化していきます。
保安条例は集会条例と同様、秘密の集会や結社を禁止する条例です。
さらには、内乱の陰謀と教唆、治安妨害の恐れがあるものは皇居から約12キロ以外に退去させられるという規定が設けられました。
この条例により、東京を退去させられた人物の中には尾崎行雄・中江兆民・片岡健吉などがいました。
また、保安条例の拡大解釈により、民間で憲法の案を検討することが禁じられました。そのため、1889年に公布された大日本帝国憲法には、民間からの意見は全く反映されませんでした。
この保安条例が適用された例として、1892年に行われた第二回衆議院議員総選挙時の高知県があります。
総選挙時に各地で民党候補と支持者、警官の間で衝突があり、自由党の影響が大きかった高知県では、死者10名、負傷者66名という惨事を招きました。
②治安警察法
その後、1890年には衆議院議員総選挙が行われ、国会が開設されます。
こうして自由民権運動は議会にその場を移し替えていきます。
しかし、集会条例を改正したことで、結社については支社を設けることもできず、さらに集会や結社は政治以外の目的でも取り締まりを受けました。
そのため、新たな政党活動は厳しく制限されていたのです。
1894年に勃発した日清戦争の頃には、労働運動が盛んになっていました。
その取り締まりをするために、1900年には治安警察法が制定されます。
治安警察法は集会条例の内容を継承しつつ、労働運動取り締まりという新たな役割を付け加えて制定されました。
この法律により、言論の自由・集会や結社の自由・出版や表現の自由は法律の範囲内として制限されました。
労働条件や報酬などに関するストライキを規制する条項もありました。
こうして集会条例は、日本史において治安を維持するという目的で民衆の自由を制限する法律の土台となった条例だったのです。
まとめ
・集会条例は、1880年に明治政府に反対する士族の乱や自由民権運動を取り締まるために制定された。
・集会条例は、1882年にさらなる取り締まり強化のために改正された。
・集会条例は16条から成っており、この条例により政治に関する集会・結社をする際には、警察に届けて認可を受けなければならず、集会の自由・言論の自由が制限されていた。
・この条例により、軍人や警察学校の生徒、女子の政治参加が禁止されていた。
・集会条例は後の治安警察法の土台となり、それはさらに治安維持法にもつながっていく。