“江戸時代の外交”というと、特定の国としか交流を持たなかった鎖国のイメージが強いです。
しかし、江戸時代初期は、多くの日本人が東南アジア諸国と貿易をしようと積極的に海を渡ったグローバルな時代でした。
今回は、戦国時代末から江戸時代初期に行われていた『朱印船貿易』についてわかりやすく解説していきます。
目次
朱印船貿易とは
(朱印船 出典:Wikipedia)
戦国時代末から江戸時代初期(16世紀末~17世紀初め)、日本人が東南アジア諸国に出向いて行った貿易のこと。
その際、貿易をしたい人は、幕府から貿易を許可する貿易許可証朱印状をもらわなければなりませんでした。
その朱印状にちなんで、この貿易を朱印船貿易と呼んでいます。
朱印船貿易の背景・目的
①はじまりは家康ではなく秀吉
徳川家康の政策として紹介されがちですが、実は、朱印船貿易を始めたのは豊臣秀吉だといわれています。
家康は秀吉のアイデアを拝借したわけです。
家康が朱印船貿易を始めたのは、征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いた1603年の翌年1604年からです。
②朱印船貿易の目的
江戸幕府にとって朱印船貿易はとても魅力的なものでした。
なぜなら、朱印状を発行するだけでお金が儲かるから。出来立てホヤホヤで何かとお金が必要な江戸幕府にはもってこいの政策でした。
家康は、大名や商人たちに東南アジア諸国での貿易を許すかわりに、その貿易で得た利益の一部を幕府に納めさせました。
大名や商人が東南アジアで貿易をすればするほど、その利益が幕府に入ってくる、とっても“おいしい”システムです。
1604年から朱印船貿易を廃止する1635年までの約30年間に幕府は350通以上の朱印状を発行しました。
朱印船貿易の詳細な内容
(徳川家康の出した朱印状 出典:Wikipedia)
①朱印状の役割
朱印状を発行することは幕府が貿易を独占し、利益や貿易状況を管理できるだけでなく、実際に貿易を行う大名や商人にとってもメリットがありました。
それは、貿易の安全を保障してくれること。
江戸幕府公認の正当な貿易船であることを証明する朱印状は、貿易相手国から保護され、海賊(倭寇)や密貿易船に間違えられて他国から攻撃されるというリスクを減らしてくれました。
②取引していた貿易品
朱印船貿易を行っていた大名や商人たちの一番のお目当ては中国産の生糸でした。
中国産の生糸は真っ白で美しく、“白糸”とも呼ばれ、とても良質。日本国内では絹織物の原料として重要がありました。
ここでひとつ疑問が・・・中国産の生糸が欲しければ、中国に直接行く方が東南アジアより近いのでは?そう思った方がいるかもしれません。
実は、中国(明)に行かなかったのではなく、中国(明)に行けなかったのです。
当時、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年文禄の役・1597年慶長の役)が原因で、中国(明)との国交は断絶していました。
そこで東南アジア諸国という第三国で、中国の商人と生糸を取引することになったのです。
日本から輸出されたのは、銀・銅・硫黄・刀剣など。中でも銀の輸出額は当時の世界の銀産出額の約3分の1を占めていました。
③貿易相手国
(17世紀初頭の貿易ルート 出典:Wikipedia)
朱印船貿易の主な相手国は、ルソン(フィリピン)、安南(ベトナム)、カンボジア、シャム(タイ)、ビルマ(現在のミャンマー)などでした。
④朱印船貿易をした日本人
大名では・・・薩摩:島津家久(しまづ いえひさ)、肥前平戸:松浦鎮信(まつら しげのぶ)、肥前有馬:有馬晴信(ありま はるのぶ)など。
商人では・・・長崎:末次平蔵(すえつぐ へいぞう)、摂津平野:末吉孫左衛門(すえよし まござえもん)、京都: 角倉了以(すみくらりょうい)など。
日本町の建設
(アユタヤ日本人町跡に建てられた石碑 出典:Wikipedia)
1604年から1635年までの約30年間、朱印船貿易は盛んに行われ、東南アジア各地に約10万人もの日本人が渡航しました。
移住する人も増え、シャム(タイ)のアルタヤ、カンボジアのプノンペンとピニャルー、 コーチ(ベトナム)のツーランとフェフォ、ルソンのディラオとサン=ミゲル、ビルマのアラカン、計8箇所に日本町ができました。
居住者は7000人から1万人だったといわれています。
駿河(静岡県)出身の山田長政は1611年に朱印船でシャムに渡り、アユタヤの日本町のリーダーになっただけでなく、シャム王国の信任を得てリゴール太守(地方長官)にもなりました。
しかし、最期は政争で毒殺されてしまいました。
(山田長政の肖像画 出典:Wikipedia)
朱印船貿易の終わり
(寛永に活躍した朱印船 出典:Wikipedia)
朱印船貿易は1935年に廃止されます。
この頃から幕府が“鎖国”体制に徐々にシフトしていくからです。
鎖国に至った理由は、一言でいうと国内の“キリスト教徒の増加”。当初、幕府は貿易の利益を優先し、キリスト教の布教は黙認していました。
しかし、江戸時代初めにキリスト教徒が約70万人も膨れ上がり、幕府は、布教を行っていたスペインやポルトガルが“日本を侵略するのでは!”と疑うようになりました。
その恐怖心をあおったのが、平戸で貿易を始めていた新教国のオランダ。“スペインやポルトガルは日本を支配しようとしている”と告げ口したそうです。
幕府の不安はエスカレートし、1612年キリスト教の信仰禁止令禁教令を出し、従わない人や宣教師を国外に追放しました。
さらに、1633年在外5年以上の日本人の帰国を禁止、そして、1635年日本人の海外渡航を禁止しました。
これにより朱印船貿易は終わりを迎えることになりました。
南蛮貿易との違い
(日本に来た南蛮人 出典:Wikipedia)
最後は、朱印船貿易と混同しがちなのが南蛮貿易についてちょっとふれておきます。
区別のポイントは貿易相手国。
南蛮貿易は、来日したポルトガル人やスペイン人との間で16世紀半ばから17世紀初めの鎖国まで行われた貿易のことです。
当時日本では、ポルトガル人やスペイン人を南蛮人と呼んでいたので南蛮貿易といいます。
彼らの貿易の特徴はキリスト教宣教師の布教活動がセットになっていたこと。宣教師で有名なのは、みなさんもよく知っているフランシスコ゠ザビエルです。
幕府の禁教令などキリスト教を排除するムーブメントにより、1624年スペイン船来航禁止、1639年ポルトガル船の来航禁止となり、南蛮貿易が終わります。
まとめ
✔ 朱印船貿易とは、幕府が発行した貿易許可証「朱印状」を持って、大名や商人が東南アジア諸国で行った貿易のこと。
✔ 輸入したのは中国産の生糸、輸出したのは銀や銅。
✔ 東南アジアへ移住した日本人が日本町をつくった。
✔ 国内のキリスト教徒の増加から鎖国という流れの中で朱印船貿易は廃止された。