日本には『雨降って地固まる』ということわざがあります。
何かいざこざがあった後は、かえって良い結果や安定した状態になるという意味ですが、かつての幕末のころにもこのようなことが起こっていました。
今回は、薩摩藩とイギリスが戦った戦争『薩英戦争』についてわかりやすく解説していきます。
目次
薩英戦争とは
(薩英戦争 出典:Wikipedia)
薩英戦争とは、1863年(文久3年)、生麦事件の後に起こった薩摩藩とイギリスとの争いのことです。
この戦争の結果、薩摩藩は攘夷が不可能だと悟るようになり、倒幕へと傾いていきました。
薩英戦争のきっかけ
①生麦事件
1862年に薩摩藩は藩主島津久光による幕府の大改革である文久の改革を一通り終わらせ、なんとか江戸から薩摩へ帰ります。
その時、生麦村(今の横浜市鶴見区)で起こった行列の前を馬に乗ったまま通過しようとする外国人4人を斬り捨ててしまいました。この事件を生麦事件と言います。
大名行列を横切ったら斬られるということは江戸時代の日本にとっては常識。普通なら外国人が悪いみたいな感じになるのですが、当時は安政の五カ国条約によって日本は治外法権というものを持つことになっていました。
どういうことかというと・・・この法律はもし外国人が日本国内で罪を犯しても、日本では裁くことができないということです。
しかし、生麦事件は日本人の独断で斬り捨ててしまいます。
②イギリスの抗議と船の奪取
(賠償金10万ポンドを受け取った、イギリス公使代理"交渉人"ジョン・ニール)
この生麦事件を受けてイギリスは幕府には10万ポンドの賠償金と正式な謝罪をしてもらい、さらに薩摩藩には2万5千ポンドの賠償金と犯人の引き渡してイギリスの元で処刑させるように要求します。
イギリスといざこざを起こしたくない幕府は謝罪と賠償金を支払いましたが、薩摩藩は拒否。薩摩藩からしたらルールを無視した人を斬り捨てて何が悪いみたいな感じだったのでしょう。
イギリスはこの薩摩藩の態度にブチ切れて艦隊を率いて薩摩に乗り込みます。
薩摩藩の若い藩士約80人も負けておらず、なんと藩士はスイカ売りに化けイギリスの戦艦に乗り込み、陸からの合図とともに艦隊ごと乗っ取る奇襲計画を立てます。しかしこの計画は、生麦事件の犯人も参加していましたが、ダメなことに藩士は肝心の英語を全く知らず、普通に怪しすぎることが原因で失敗に終わっています。さらにイギリスは賠償金の代わりに薩摩藩の船を奪い取りました。
薩摩藩はイギリスが船を奪ったことに対して砲撃。これによってイギリスと薩摩藩の『薩英戦争』が始まったのです。
薩英戦争の全容
(イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘 出典:Wikipedia)
イギリスの7隻の戦艦は薩摩藩の砲台を次々と砲撃して、奪っていた船も沈没させました。
当時のイギリスは全世界に植民地を持っており、薩摩藩なんで一撃で吹き飛ばせるような力の差がありましたが、薩摩藩は善戦します。
まずイギリス艦隊は、幕府から受け取った賠償金が入った箱を積み上げるのに手間取ってしまい、攻撃の開始が遅れてしまいます。さらに薩摩藩は島津斉彬が藩主の時に作った最新式の大砲を持っており、その砲弾がイギリスの戦艦に命中しました。
その結果、船長と副船長は戦死そのためにイギリスの戦艦の1つであるユーリアラス号では艦長と副長ならびに7名の水兵が戦死、6名が負傷してしまったのです。
しかし、薩摩藩側もイギリス側より死者が少なかったのですが、城下町の10分の1である500軒の家が焼き払われてしまう被害を受けてしまいます。
薩英戦争の勝敗結果・賠償金
薩英戦争の経過を聞いたイギリス本国は衝撃を受けました。なぜなら、たかたが遅れている国のさらにその1つの地域にあった薩摩藩がかつてアヘン戦争で中国をボコボコにしたイギリスの戦艦にダメージを与えたのです。
イギリスは幕府から賠償金をもらっていてさらに薩摩藩の子分である佐土原藩からも賠償金をもらっていたため、完全に負けたということはありませんでした。
対する薩摩藩も一番肝心な生麦事件の犯人は逃走中として捕まえず、さらに講和の場面でもイギリスに対して一歩も引きませんでした。
そのため、勝敗結果は引き分けと見るのが一般的です。ちなみに薩英戦争でイギリスのすごさを痛感した薩摩藩は、結局幕府に立て替えてもらう形で賠償金を支払うことになりました。
賠償金の額は6万300両(約3億円)という薩摩藩には到底払えないような金額でした。
しかし、薩摩藩はこの賠償金を幕府から借りてさらに借金を幕府には返済していません。つまりは踏み倒したのです。
幕府は普通は文句を言うべきことですが、この時期になるともう幕府の権威なんで桜田門外の変などで地に堕ちており、薩摩藩に文句を言うことはできませんでした。
薩英戦争の影響
①薩摩藩とイギリスの接近
イギリス側も『薩摩藩は出来る!』と思うようになり、薩摩藩に最新式の武器を売ったり、薩摩藩の留学生を受け入れたりするなどの交流も深めていきます。
この留学生の中に明治時代の時に官有物払下げ事件などの重要なキーマンとなる五代友厚などももいました。
彼らは帰国後、薩摩藩はもちろん日本の発展に貢献し、薩摩藩を日本の中心とするように尽力していきました。
②薩摩藩、倒幕へ
薩摩藩はこれまでは朝廷と幕府が手を組んで外国人を追っ払おうとすると公武合体による攘夷を進めていきましたが、これを機に外国人を追っ払おうとするのは無駄なことだと思うようになりました。
さらに薩摩藩は当時としては大変先見の明があったのでしょうか、イギリスの戦艦を購入したりするなど薩摩藩の近代化をどんどん進めていきます。
そして薩摩藩は薩摩藩だけではなく、日本を近代化すべきだ!と思うようになり、幕府を倒す倒幕へとどんどん傾いていくことになるのでした。
薩英戦争は薩摩藩や日本の将来を大きく動かした重要な戦争だったのです。
まとめ
・薩英戦争は生麦事件に抗議したイギリスと薩摩藩との間に起こった戦争のこと。
・薩英戦争は薩摩藩も被害を受けたがイギリスも戦艦の艦長と副長が戦死するなど被害を受けた。
・薩英戦争の後、イギリスと薩摩藩は接近していき、イギリスは薩摩藩に対して留学生を受け入れたり武器を売ったりした。
・薩摩藩は薩英戦争の後倒幕へと傾いていった。