波乱の鎌倉時代では、執権を握る北条氏と有力御家人の争いが絶えませんでした。

 

今回は、北条氏と有力御家人の最後の戦いといわれる『霜月騒動』について、わかりやすく解説していきます。

 

霜月騒動とは

 

 

霜月騒動とは、1285年(弘安8)12月14日(当時の暦では11月17日)、8代執権の北条時宗が死去したあと、有力御家人の安達泰盛と北条氏得宗家に仕えていた平頼綱の間で起きた対立のことです。

 

当時の暦上、騒動が起きたのが11月だったので「霜月」と名付けられたといいます。

 

この対立による争いは、鎌倉幕府が始まって以来繰り返された執権を握る北条氏と有力御家人の最後の争いでした。

 

この争いに負けてしまった安達氏は権力を失い、平頼綱率いる北条氏得宗家に仕える「御内人」という従者の勢力が権力を勝ち取りました。

 

霜月騒動の背景

(安達 泰盛 出典:Wikipedia

 

 

霜月騒動が起こった背景には、執権職の代替わりと、蒙古襲来がありました。

 

①安達氏と平頼綱

安達氏は鎌倉幕府が創られて以来からの有力御家人でした。

 

安達一族の安達泰盛は、執権を握る北条氏得宗家(北条氏の跡取りの家系)と外戚関係で、幕府の重要な役職に就いて、政治を支えていました。

 

一方、平頼綱という人物は、8代執権北条時宗の息子、北条貞時の乳母父(乳母の夫)で、北条氏得宗家に仕える「御内人」という役職に就いていました。

 

(北条 時宗 出典:Wikipedia)

 

 

鎌倉幕府では泰盛を筆頭とする御家人勢力と、頼綱を筆頭とする北条氏得宗家を支持する勢力が対立していました。

 

一触即発のふたつの勢力の間にいた8代執権の北条時宗でしたが、1284年(弘安7)に死去してしまいます。

 

息子の貞時が9代執権として跡を継ぎますが、貞時はこのとき、まだ14歳という若さでした。

 

②弘安徳政

(蒙古襲来 出典:Wikipedia)

 

 

鎌倉時代中期、中国大陸を支配していたモンゴル帝国が日本に攻めてきた「蒙古襲来」という戦いが起きます。

 

戦いは2度にわたり、1度目を1274年(文永11)11月の「文永の役」、2度目を1281年(弘安4)6月から8月にかけての「弘安の役」といいます。

 

この蒙古襲来で日本は大打撃を受け、政治も大混乱。まだ幼い北条貞時の補佐として、泰盛が中心となって揺らぐ幕政の立て直しを進めていきました。

 

そこで、泰盛は「弘安徳政」という幕政改革を行いました。

 

弘安徳政では、弘安新式目という100カ条あまりを御成敗式目に追加したことが大きな成果でした。

 

このときの幕府は、執権が政治のメインで、将軍の権威はなくなっていました。

 

泰盛はこの状況を変えようと、将軍に仕える御家人をたくさん集め、将軍の権威を復活させようと考えます。

 

そして、将軍の権威を復活させるために、幕府の実権を握っている北条氏得宗家の権力と、その御内人の幕政へ関わってくるのを抑えようとしました。

 

しかし、御内人である平頼綱は北条氏得宗家の専制政治を理想としていたため、泰盛の改革を良く思っていませんでした。

 

霜月騒動の経過

 

 

1285年(弘安8)12月14日、頼綱の策略によって霜月騒動が起こります。

 

①頼綱の奇襲

霜月騒動について書かれた『保暦間記』によれば、平頼綱は安達泰盛を討つために、泰盛の息子である安達宗景が「自分は源頼朝の子孫だから、姓を源氏に変える!」と言いだし・・・

 

それを良いことに、9代執権の北条貞時に「泰盛の息子、宗景は、源氏の名の下に謀反を起こす気です」と、安達氏を陥れるために事実を偽って告げ口します。

 

貞時にとって父のような存在である頼綱の言うことであれば、貞時も頼綱の言うことは間違いないと信じてしまいます。頼綱によるこの策略こそが、霜月騒動の直接的な原因です。

 

頼綱の意図を感じ取ったのか、泰盛は周囲が騒がしいことを不審に思い、貞時の屋敷へ出かけたところを、頼綱率いる御内人の軍に囲まれてしまいました。

 

②安達氏の自害

奇襲をかけられた泰盛は、頼綱の軍と交戦します。

 

しかし、昼から始まった戦いは夕方には決着がつき、泰盛側が負けてしまいました。

 

戦に敗れた泰盛、弟の安達長景、息子の宗景とその他の一族は自害、もしくは討ち死にしたといいます。

 

霜月騒動のその後

 

 

安達氏を襲った御内人の襲撃は、全国にまで及びました。

 

また、この霜月騒動を経て、北条氏得宗家の独裁的な体制が確かなものとなりました。

 

①岩門合戦

鎌倉で起きた霜月騒動の影響は、遠く離れた九州の地にも及んでいました。

 

蒙古襲来では九州北部を攻められたので、その北九州を守護していた御家人の少弐氏がモンゴル帝国との戦いでは活躍しました。しかし、霜月騒動がきっかけで、少弐氏は家督争いを含めた戦いを地元で起こします。

 

鎌倉で安達氏が討たれたという報せが届くと、少弐景資は安達氏側に味方します。しかし、兄の少弐経資は平頼綱側に味方します。こうして対立した二つの勢力は、自分たちの城である岩門城で合戦を始めます。これを「岩門合戦」といいます。

 

戦いの結果、安達氏側の景資が負け、頼綱側の兄の経資が勝利しました。

 

戦いの翌年には、頼綱の味方をした武士たちに、景資が持っていた土地を恩賞(褒美)として与えられました。

 

元々、蒙古襲来で活躍した九州の武士たちに与える恩賞用の土地が足りていなかったことに幕府は頭を悩ませていたので、この岩門合戦は幕府側にはとても好都合な戦いだったと言えます。

 

②得宗専制

泰盛が進めていた弘安徳政は、戦いに勝った平頼綱によって終わらせられてしまいました。

 

また、霜月騒動をはじめとして全国の北条氏得宗家に反対する勢力を滅ぼしたため、幕府は北条氏得宗家の独裁体制が完成しました。

 

この得宗専制は、1305年(嘉元3)の嘉元の乱で北条氏得宗家が北条氏庶家(分家)に敗北するまで続きました。

 

刀剣・鶴丸国永

 

 

安達氏と霜月騒動には、「鶴丸国永」という刀にまつわる話があります。

 

鶴丸国永とは、平安時代の京都五条に住んでいた刀工、五条国永が打った刀です。現在は皇室の私有財産「御物」として宮内庁が管理しています。

 

五条国永が打った刀のなかで最も優れた刀とされ、出羽国の秋田城を管理する「秋田城介」に伝えられたとされています。

 

そして、この秋田城介こそが安達氏なのです。

 

霜月騒動のとき、鶴丸国永は安達泰盛の孫にあたる安達貞泰が持っていたとされていますが、霜月騒動に敗れてしまったため、鶴丸国永は北条貞時の手に渡ってしまいました。

 

一説には、貞時はこの鶴丸国永がほしいあまりに、貞泰の墓を暴いて刀だけを取り出したといいます。

 

まとめ

・有力御家人の安達泰盛と北条氏得宗家の御内人である平頼綱の間で起きた対立を「霜月騒動」という。

・蒙古襲来で揺らいだ幕政の立て直しを進めるため、泰盛は「弘安徳政」という幕政改革を行った。

・将軍の権威を復活させ、北条氏得宗家と御内人の権力を抑えようとした弘安徳政を頼綱は良く思っていなかった。

・頼綱は安達氏を陥れるために事実を偽って北条貞時に告げ口し、奇襲をしかけた。

・戦に敗れた泰盛、とその他の一族は自害、もしくは討ち死にした。

・霜月騒動の余波で北九州を守護していた少弐氏が兄弟間で「岩門合戦」を行った。

・全国の北条氏得宗家に反対する勢力を滅ぼしたため、得宗専制の体制が完成した。

・霜月騒動で安達貞泰が所持していた「鶴丸国永」は北条貞時の手に渡った。

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