1868年に始まった明治維新を通して日本は近代化を進めていきます。
そんな中、済物浦条約が朝鮮と結ばれます。この条約を結ぶことにより、朝鮮を巡る日本と清の対立が明確になり、日清戦争へとつながることになります。
今回は、そんな戦争のきっかけとなる『済物浦条約』についてわかりやすく解説していきます。
目次
済物浦条約とは
(済物浦条約の一部 出典:Wikipedia)
済物浦条約とは、1882年(明治15年)8月30日に日本と李子朝鮮との間で結ばれた条約です。この条約は、同年7月23日に朝鮮で起こった壬午事変(壬午軍乱)で、日本大使館が焼き討ちにあった事件の事後処理として結ばれました。
この事件で被害にあった日本人たちの遺族や負傷者への見舞金、事件の実行犯たちの逮捕と処罰などが、条約の内容となっています。
また、公使館を守るための軍隊を駐留させる権利や居留地の拡大、市場の追加なども内容に盛り込まれています。
これは、朝鮮に影響を与え続けている清国を牽制する目的もありました。
なぜ済物浦条約が結ばれたのか?背景
(壬午軍乱 朝鮮反乱軍に襲撃される花房義質公使一行 出典:Wikipedia)
済物浦条約が結ばれるきっかけとなったのは、壬午事変という朝鮮で起こった兵士たちの反乱でした。それでは、壬午事変とはどんな反乱だったのでしょうか。
①壬午事変(壬午軍乱)
壬午事変は、1882年7月23日に起こりました。現在のソウルで、李子朝鮮の兵士たちが、日本や政権に対して起こした大きな反乱でした。
この反乱は、李子朝鮮の王族で国王の実父である興宣大院君が兵士たちを煽ったと言われています。
(興宣大院君)
兵士たちと一部の民衆も加わった反乱軍は、当時政権を握っていた閔氏一族の屋敷や官庁、日本公使館を襲い、朝鮮政府高官や日本人軍事顧問、日本公使館員を殺害します。
反乱軍は閔氏政権を倒して、興宣大院君を政権のトップとするのです。
日本は、この事変に対して軍艦4隻と千数百の兵を出兵させます。一方、清も朝鮮の宗主国として軍艦3隻と3千人の兵士を派遣します。
②反乱を収めるために
8月13日には、日本の公使を乗せた汽船が朝鮮の済物浦に入港します。その後を軍艦4隻、千数百名の陸軍兵士が派遣されていました。公使はソウルに向かい、当時の外務大臣井上馨から預かった日本政府の要求項目を朝鮮政府に渡しますが、回答を拒否されます。
一方、清は8月10日に軍艦3隻を済物浦に入港させます。その後、20日には日本軍を上回る3000人の兵を送り込みます。その兵士たちをソウルに配置して、日本公使に朝鮮との再協議を提案します。
日本は、清からの提案を受け入れざるを得ませんでした。提案を拒否すれば、清との衝突が避けられなくなるからでした。
その後、ソウルに駐留していた清国軍が興宣大院君を中国の天津に連行し、再び閔氏政権を復活させました。日本は、閔氏政権と協議をして、済物浦条約を締結することになるのです。
③壬午事変後の日本
済物浦条約と反乱軍の処罰により、壬午事変は終わります。
日本国内では、壬午事変をきっかけにナショナリズムが国民の中に広まります。事変の後、清は軍事力を背景に事態の収束に素早く動きました。
日本は清の思惑通りに動くことしかできず、日本が軍事的に清より劣っているという認識が広まったのです。軍人である山縣有朋を中心に、軍事拡大が唱えられるようになります。
事変の翌年には、軍事費拡大が行われました。また、福澤諭吉により、清が日本の朝鮮「文明化」を妨げる敵国という論も出ます。
済物浦条約で、一旦は日本と清の衝突は収まりますが、それ以降、日本と清の朝鮮を巡る対立は次第に明確になっていくのです。
済物浦条約の内容
(済物浦条約 第四(償金50万円)および第五(軍員駐留権) 出典:Wikipedia)
済物浦条約とは、どのような条約なのでしょうか。条約は、前文と6項目からなっています。
①前文
前文では、壬午事変で日本が受けた多大な被害や損害を賠償することにより、両国間の関係修復をすることが書かれています。
日本にとっては、朝鮮が条約の内容を実行することが大切でした。それは、清からの独立のきっかけになると考えられていたのです。
②第一款
ここでは、条約が締結した日から20日以内に朝鮮が反乱の首謀者を処罰することと書かれています。
もし、期日内に処罰が行われなければ、日本が処罰をすると、日本側の強い意思が示されています。
実際は、清国軍が反乱の首謀者たちを捕らえることになります。それは、清の朝鮮に対する支配隷属関係を強めていくのです。
③第二款
日本の殺害されたものたちを、丁重に礼を尽くして弔うようにと書かれています。
壬午事変で亡くなった日本人は、陸軍人、公使館員、民間人合わせて14名でした。日本公使が遺体を検分した時に、遺体の取り扱いがあまりにもぞんざいだったために、この内容が盛り込まれました。
④第三款
日本側の被害者の遺族と負傷者に対して、5万円を賠償することが書かれています。
協議中に、2万円がすぐに納められました。朝鮮側の経済的困窮が理由で、その4ヶ月に1万円、さらに4ヶ月後に2万円を納めることが決められたのです。
⑤第四款
日本が被った損害と公使館を護衛するための陸海軍派遣費用の50万円を、朝鮮側が支払うということが書かれています。
毎年10万円ずつ、5年かけて支払うことが決められました。結局、朝鮮側は全額支払うことができずに、日本政府が残りの額を奇贈する形になりました。
⑥第五款
日本公使館は兵員を置いて警護し、兵営を設置するのは朝鮮の役割であることと書かれています。
また、1年経って公使館が警備を必要としないと認められれば、徹兵しても差し支えないとも書かれています。
この条項は後に、完全徹兵した後も有効であるとされ、日清戦争で日本が出兵する根拠となったのです。
⑦第六款
朝鮮側が高官を送り、国書をもって日本に謝罪することが決められています。
日本にやってきた高官たちは、福沢諭吉ら多くの知識人たちと交わり、海外の事情や新しい知識を得ていき、朝鮮の親日派とさらに深い関係を築くことになります。
済物浦条約締結のその後
(日清戦争 出典:Wikipedia)
壬午事変、済物浦条約を経て、朝鮮における日本と清の対立が明らかになってきます。
その対立は、甲申政変から日清戦争と拡大していきます。それでは、甲申政変、日清戦争とはどんなものだったのでしょうか。
①甲申事変
1884年12月4日に起こった朝鮮独立党によるクーデターです。
清に近い親清派の勢力を倒して、日本の助けのもとに王宮を占領して新政権を立てましたが、清により3日間で終結します。
親日派で独立党リーダーである金玉均を中心に計画されました。金玉均は、済物浦条約締結後、日本に謝罪するための高官の一人でした。その後も、何回か日本を訪れており、日本公使館員とも近い存在でした。
壬午事変後、朝鮮には清国軍3000名、日本軍200名弱が駐留していました。しかし、1884年に清仏戦争がベトナムで始まります。そのため、清は朝鮮駐留軍を約半分に減らします。
清国軍が減ったのを好機ととらえた金玉均たちが、計画を実行に移します。その際に、独立派は日本、アメリカ、イギリスに相談をしますが、アメリカとイギリスはクーデターに反対します。
一方、日本は壬午事変後、軍事的優位に立つ清に対して何もできないでいたため、独立党への支援を約束します。
ただ、実際は日本軍は約150名という弱小勢力でした。兵力が半分に減ったとは言え、また1000名以上も兵がいる清国軍との力の差は目に見えていました。
結局、金玉均は日本へ亡命しますが、独立党メンバーの多くが処刑されます。また、日本の朝鮮での立場はさらに弱いものとなりました。
②日清戦争への流れ
日清戦争は、1894年7月25日から1895年3月にかけて日本と清の間で行われた戦争です。
甲申政変の後、日本は朝鮮での勢力を弱め、清は益々朝鮮支配を強めていきます。日本国内では、国民の中国を見る目が変わっていきました。
それは、マスメディアが甲申政変で清国軍の居留民に対する虐殺を大きく報道したことによります。こうして、日本国内では、「清国を討つべき敵国で、朝鮮を清から独立させるべし」という論が広まるのです。
政変後に、日清で交わされた天津条約では日清ともに朝鮮に兵を置くことはできなくなりました。しかし、1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、またもや日本と清が軍を派遣することになったのです。
乱の収束後、朝鮮は日清に徹兵を申し入れますが、どちらも拒否します。日本は「朝鮮の自主独立を侵害する」清の撤退を強く主張しますが、それは受け入れられず、日清戦争が勃発するのです。
壬午事変の後、日本は軍事拡大を続けてきました。それは、軍の近代化でもあり、国内のナショナリズムの高揚も手伝い、日清戦争の勝利とつながります。日本は、日清戦争を通して近代的な国民国家になっていくのです。
まとめ
・済物浦条約とは、1882年に日本と朝鮮の間で結ばれた条約。
・条約の中で、日本は朝鮮に被害や損害の賠償を強く示す。
・条約を結ぶ中で、日本と清の対立が深まり、日本国内では、清への敵対心が広まり、軍拡へとつながっていった。
・この条約を結ぶことで、朝鮮内で親日派と日本の関係が深くなる。
・条約の内容を根拠に、日本は朝鮮への出兵を復活させ、日清戦争へとつながる。