
戦後日本ではかつて共産党関係者を一斉に公職から追放するレッドパージと呼ばれる政策が行われたことがありました。
今回は、そんな『レッドパージ』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
レッドパージとは?
(共産党幹部 出典:Wikipedia)
レッドパージとは、一般に「共産党員やその関係者を公職から追放すること」を指します。
日本では特に1950年の朝鮮戦争前後に大規模な公職追放が行われました。
1950年の公職追放は、当時日本を占領していた連合国最高司令官総司令部(GHQ)の指示によるもので、官公庁や基幹産業に勤めていた共産党関係者が一斉に解雇されました。
その影響は民間企業にも及び、総計1万人以上の解雇者が出たとされています。
この背景には、資本主義を代表するアメリカと共産主義を代表するソ連の対立(冷戦)がありました。
レッドパージが行われた背景
①アメリカとソ連の冷戦
1945年に第二次世界大戦が終わり、講和条約の締結によって戦後体制が固まってくると、世界は大きく資本主義陣営と共産主義陣営の2つに分かれました。
資本主義陣営を率いるのは、アメリカと西ヨーロッパ諸国(イギリス、フランス、西ドイツなど)です。
これらの国々は、「市場経済と貿易を通して、国を豊かにしていく」という考え方を取りました。
他方、共産主義陣営の中心は、ソ連と東ヨーロッパ諸国(ポーランド、東ドイツ、ルーマニアなど)でした。
こちらは、「市場経済や私有財産を否定し、国家が計画経済にもとづいて国内の生産活動を管理する」という考え方を取っていました。
戦後から1980年代末までは、この2つの勢力の覇権争いによって、国際情勢が大きく左右されました。実際、各地でこれらの勢力の衝突が起こり、戦争や紛争に発展しています。
1950年に勃発した朝鮮戦争もその一つです。
ただし、こうした覇権争いは、それぞれの勢力を代表するアメリカとソ連が直接戦争をしたわけではありません。
そのため、直接的な戦争を意味する「熱い戦争」に対して、米ソ間のこの覇権争いは「冷戦」と呼ばれました。
②アメリカ国内のマッカーシズム
アメリカ国内では、1940年代後半から1950年代前半にかけて、一種のヒステリーとも言えるほどの過激な反共運動(共産主義者を排除する運動)が行われました。
その発端は、1950年2月に連邦上院議員J・マッカーシーが行った演説にありました。
(マッカーシー 出典:Wikipedia)
演説の中で、マッカーシーは「国務省の中に205人の共産党員がいる」と主張し、政府にその追放を要求しました。
アメリカ政府の中枢に共産主義勢力が及んでいるという主張は、きわめてショッキングでした。
そのため、その主張を信じた人々が過激な反共運動を起こしました。この運動は、マッカーシーの名にちなんで、「マッカーシズム」と呼ばれます。
ところが、実際に追放された人々のほとんどは、共産主義者ではありませんでした。
つまり、マッカーシーの主張は、今で言うところのフェイク・ニュースだったのです。
こうした主張が出た背景には、1949年の中華人民共和国の成立によって、アメリカが持っていた中国市場を失ったことに加えて、同年にソ連が原爆実験に成功したことで、軍事的な緊張が高まっていたことがありました。
このように急速に勢力を伸ばしていた共産主義陣営に対する不信感から、「アメリカが戦後世界の覇権をうまくつかめなかったのは、アメリカ国内で共産主義陣営が裏工作をしていたからだ」という主張がまかり通るようになってしまったのです。
③日本国内の状況
日本ではロシア革命後から徐々に共産主義者が現れるようになりました。
1922年に日本共産党が創立され、国内における共産主義の運動が目立ち始めると、政府は1925年に治安維持法を制定します。
この法律によって、共産党員だけでなく、共産党に属さないマルクス主義者、労働運動関係者まで取り締まりを受けるようになりました。
1920年代後半に相次いだ党員の検挙以来、ひっそりと活動を続けていた日本共産党は戦後になると合法化され、衆議院に議員を送り込むなど、活動を活発化させていきます。
そうした中で、官公庁や基幹産業、大学などで、共産党員やその関係者が活動することが増えていきました。
レッドパージの目的
(反共主義ポスター 出典:Wikipedia)
レッドパージの最大の目的は、国内の中枢から共産党員やその関係者を排除することで、自国がソ連率いる共産主義陣営の工作を受けないようにすることでした。
特に、各国の共産党の活動は、ソ連や中国の共産党の指示を受けていたため、国内で共産主義陣営の工作が進んでいるのではないかという社会不安をかき立てていました。
レッドパージの内容
(1950年頃のGHQ 出典:Wikipedia)
①GHQの方針
戦後の日本を占領した連合国最高司令官総司令部(GHQ)は、1945年10月に軍国主義者や超国家主義者を大学や高校、小中学校など教育部門から排除するように、日本政府に指示を出しました。
1946年2月以降、公職追放令が公布され、次々とこうした人々が追放されていきます。
追放の対象となったのは、はじめは元軍人や戦争指導者、超国家主義団体の関係者などでしたが、アメリカの対日占領政策の転換に伴って、1949年ごろから共産主義者にも及ぶようになってきました。
②イールズ事件
そうした状況の下で、イールズ事件が起こりました。
この事件は、GHQの民間情報教育局(CIE)高等教育顧問だったウォルター・クロスビー・イールズが1949年7月に行われた新潟大学開校式で、共産主義者の教授を大学から排除するように呼びかけたことに始まります。
その後、同年11月から翌1950年5月にかけて、イールズは全国の約30大学を回って、同じような演説をしました。
これに対して、東北大学や北海道大学、全国大学教授連合、日本学術会議、日教組などが反対を表明しましたが、教育行政ではいくつかのレッドパージが強行されました。
例えば、九州大学では共産主義者と疑われた教授に辞職勧告が出されました。
また、静岡県や熊本県では、小中学校や高校の教員を対象に共産主義者の解雇が行われました。
③日本共産党の路線変更
そのころ、日本共産党の中には、共産主義運動の方針をめぐって、大きく2つの考え方が存在していました。
1つは、共産主義の実現のためには暴力も辞さないという考え方です。
もう1つは議会で多数派を占めることによって、平和的に共産主義国家を実現しようという考え方です。
日本共産党の指導者の1人だった野坂参三は、平和革命論を唱えて、後者の考え方を表明しました。
ところが、1950年1月にコミンフォルム(各国の共産党が情報交換をし合う組織)が、野坂の平和革命論を批判します。
その結果、日本共産党は今後の方針をめぐって、内部分裂を起こしながらも、しだいに急進的な考え方に傾いていきました。
④公職追放
日本共産党のこうした急進化の動きに対して、連合国最高司令官マッカーサーは1950年6月6日に吉田茂首相宛の書簡を送りました。
その中で、マッカーサーは、日本共産党が大衆の暴力行為を煽り、日本の民主化を破壊しようとしていると主張し、日本共産党中央委員会の全委員24名の公職追放を指令しました。
また、翌7日には、共産党機関紙『アカハタ』の編集幹部17名の公職追放が命じられた上、7月になると『アカハタ』の無期限発行停止が言い渡されました。日本共産党の集会やデモもすべて禁止しました。
さらに、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、共産党員やその関係者の追放は、報道機関、労働組合、官公庁、電気・運輸などの基幹産業にも広がりました。
その際、追放の対象となった人々は、政府や企業経営者が占領軍の指示を口実に決定したものでした。
彼らの中には解雇に抵抗する者もいましたが、米軍の憲兵や武装警官隊が実力行使をして、職場から追い出しました。
レッドパージの結果
このようなレッドパージにより解雇された者は、官公庁で1177人、民間企業で1万972人に上りました。
こうした解雇は、法律にもとづかない不当なものでしたが、裁判所はGHQの指令を憲法に優先するものとして判断し、解雇を不服とする申請を却下しました。
他方、本来は労働者を守る立場にある日本共産党は、コミンフォルムによる平和革命論批判以来、内部分裂が続いており、有効な対策を打つことができませんでした。
社会党や大多数の労働組合も、こうした状況を傍観するしかありませんでした。
まとめ
✔ レッドパージとは、共産党員やその関係者を公職から追放すること。
✔ 戦後日本では特に1950年の朝鮮戦争前後に、大規模なレッドパージが行われた。
✔ 1950年のレッドパージはGHQの指示によるもので、官公庁や基幹産業に勤めていた共産党関係者が一斉に解雇された。
✔ その影響は民間企業にも及び、総計1万人以上の解雇者が出た。
✔ 背景には、資本主義を代表するアメリカと共産主義を代表するソ連との間の冷戦があった。