江戸幕府ができた時、3代将軍徳川家光により日本はある一定の外国のみしか交易しない鎖国を作り上げました。
このおかげで日本独自の文化が発展し、日本らしさが大きく見えるようになったのはいいことでしたが、外国の情勢がわからないことが難点でした。
そして、江戸時代も幕末と呼ばれる時代に差し掛かる時に四隻の蒸気船が日本に来航しました。
それはペリー率いるアメリカの船でした。
今回は日本が開国へと方向転換する機会となった『ペリー来航』についてわかりやすく解説していきます。
目次
ペリー来航とは
(黒船来航の様子 出典:Wikipedia)
ペリーは、嘉永6年(1853年)の7月8日に神奈川県の浦賀に来航。鎖国中だった日本は大慌となってしまいます。
江戸幕府将軍12代将軍徳川家慶と13代将軍徳川家定、天皇孝明天皇の時に来航しました。
この時の老中のトップ(老中首座)は阿部正弘。大活躍することになります。
黒船来航の目的
(ペリーとの交渉の様子 出典:Wikipedia)
ペリーのいるアメリカでは産業革命によって働き方が大きく変わり、工場やオフィスは夜遅くまで稼働するようになりました。
当時、ランプや工場で使う油はクジラの油を主に使用しており、アメリカは日本海を含む世界中の海で多くのクジラを捕まえるようになります。
そして、日本近海の伊豆諸島や小笠原諸島付近は魚がよく獲れる場所として知られており、アメリカはその場所に行き、漁を行うのですが補給拠点が太平洋にはなく、アメリカの東海岸の基地を利用していました。
長期に渡る漁のため、太平洋上で薪や水などの物資を補給する拠点を確保することが来航の目的でした。
その背景として、アメリカは西ヨーロッパとの植民地を巡る市場拡大戦争に出遅れていたことが大きな要因となっていたのです。
ペリー来航の影響
(マシュー・ペリー)
①日本人の反応
ペリー率いる艦隊が浦賀に来航した時、日本人は初めて帆船以外である蒸気船を見ました。
日本人は帆以外に蒸気機関で動いており、煙を上げている様子からこの船を黒船と当時は呼んでいました。
そしてこの黒船は上陸に備えて勝手に江戸湾の測量を行う他、アメリカ独立記念日の祝砲や号令や合図の空砲を打っていました。
このことは事前に伝えられていましたが、江戸の町人は最初の空砲で砲撃と勘違いし大混乱しまいます。
しかし、空砲とわかると空砲が打たれるたびに花火の感覚で盛り上がり、ついには黒船により浦賀は見物人でいっぱい。勝手に小舟で黒船に乗船を試みようとする人も現れました。
しかし、この騒ぎを抑えるため幕府から警戒を促すお触れが出ると、実弾砲撃の噂と共に乗船を試みる人はいなくなりました。
②幕府のペリーに対しての反応
ペリーが来航した翌日の7月9日幕府は船上にいるペリーに浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣しました。
そこでペリーの目的が当時のアメリカ大統領フィルモアの親書を徳川家慶に渡すことだと理解します。
しかし、ペリーは中島三郎助が与力の身分が低いことを理由に親書を渡しませんでした。
そして翌日に別の与力の香山栄左衛門がペリーの元へ行きましたが、対応は変わらず親書は渡しませんでした。
ペリーは与力しか自分の元へ寄越さない幕府に対して、親書を預けることに相応しい身分の者を寄越さないと兵を率いて将軍に直々に親書を渡すと脅しをかけるようになりました。
しかし、この時徳川家慶は病気により国の一大事を決めることの出来る状態ではありませんでした。
そこで老中首座の阿部正弘が徳川家慶の代わりとしてペリーの上陸を許しました。
ペリーの上陸後、ペリーと会見したのは浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道でした。二人は開国を促すフィルモア大統領の親書を受け取ります。
その後、徳川家慶が病気のため開国に関しての返答に1年の猶予が欲しいとペリーに言い、ペリーは一年後に再来航することを告げ、アメリカには戻らず香港へ戻っていきました。
ペリー退去。再来航までの幕府について
(阿部 正弘 出典:Wikipedia)
①阿部正弘の苦悩
ペリーが退去して間もなく徳川家慶が亡くなります。
後継に徳川家定を13代将軍にしましたが、元来病弱で国政を任せることはできませんでした。
しかも外国の排除する運動である攘夷を唱える者も増えてきて幕府はペリーの開国要求に頭を悩ませていました。
結局幕府ではいい案が出ず、老中首座の阿部正弘は幕政に関わることのない外様大名や庶民にも意見を求めるようになりました。これは幕府が出来て初めてのことでした。
しかし、このことを行ったことにより国政に関わることが一切なかった外様大名が発言権を持つようになり、結果的に幕府の権威を下げてしまいました。
②軍備の強化
阿部正弘はもしもの時に備えてアメリカと戦闘できるように江戸湾に砲撃用の台場の建設を命じました。
それが今のお台場となっています。
そして、アメリカの情勢を知るためにアメリカから帰国したジョン万次郎を幕府に招待しました。
ペリーの2度目の来航『日本は開国』
(再来航した船の一隻 出典:Wikipedia)
1854年2月13日、ペリーは1年ではなく半年の期間で日本に再来航しました。
(琉球を経由し、浦賀に来航しました)
これは徳川家慶が亡くなり、国政の混乱の隙をついたペリーの考えによるものでした。
ペリー来航後1か月に渡る協議の末、アメリカの開国要求を受け入れます。3月31日にペリーは日本に上陸し、外国との交渉に向いている林復斎を中心に交渉が行われました。
そこで日米和親条約を結ばれることになり、3代将軍徳川家光より200年以上続いた鎖国状態が解かれることになりました。
そして、6月17日には日米和親条約の詳細を定めた下田条約が結ばれました。
日本の開国という任務を終えたペリーはアメリカへ帰国していきました。
しかし、ペリーはその4年後に亡くなり、アメリカも南北戦争に突入してしまい、アジアの支配はイギリスやフランスに遅れを取る形となってしまいました。
まとめ
・ペリーは1853年に黒船と呼ばれる蒸気船を率いて日本開国のため、浦賀に来航した。
・幕府はこの時の将軍徳川家慶が病気のために返答は1年後にしてもらった。
・徳川家慶の死を契機に半年後に来たペリーは開国に対していい返事をもらった。
・幕府は1854年に林復斎とペリーが交渉し、日米和親条約と下田条約を結んだ。
・その後ペリーは帰国しましたが、すぐに亡くなりアメリカは南北戦争により他の外国と後れをとってしまった。