日本の三権分立の確立を象徴し領事裁判権の撤廃に大きく影響した「大津事件」。
さて、この事件はどのような内容だったのでしょうか?
今回は、この『大津事件(おおつじけん)』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
大津事件とは?
(事件前。長崎に訪問しているニコライ2世 出典:Wikipedia)
大津事件とは、1891年(明治24年)当時日本を旅行していたロシア皇太子のニコライ2世が津田三蔵という日本人に暗殺されそうになった事件です。
日本政府はロシアの報復を恐れ死刑にしようとしましたが、児島惟謙はこの事件を法に則って判決を行い、結果的に犯人の津田三蔵は無期懲役となりました。
この事件は他国政府からの圧力に屈せず法に則って判決が下されたことから国際的に評価され、領事裁判権の撤廃が進んでいくきっかけとなりました。
大津事件までのいきさつ
(ニコライ2世 出典:Wikipedia)
当時世界最長の鉄道路線として知られているシベリア鉄道の起工式のため、ニコライ2世はロシアの東にあるウラジオストクという場所に向かっていました。
ニコライ2世はそんな時どんどん文明を発達していた日本に興味を持ち、途中長崎に寄って日本を旅行しました。
ニコライ2世が訪日する事になり、日本中が大フィーバー。日本はニコライ2世を喜ばせようと計画します。
その力の入れ具合はすごいもので、季節が冬なのに真逆の夏の風物詩である五山の送り火を行なったほど日本はこの訪日に力を入れていました。
大津事件の発生
(犯人 津田三蔵 出典:Wikipedia)
ニコライ2世は長崎に着いた後、京都や東京など日本一周旅をやろうとるんるん気分でしたが、滋賀の大津市で日本を揺るがすとんでもない事態が発生します。
何と警備に当たっていた津田三蔵という警察官がニコライ2世に突然襲いかかったのです。
しかし、その時付き添いとしていたギリシャ王子が京都で嬉しそうに買った竹刀を手にとって応戦します。
さらに、人力車の車夫が命を懸けて津田三蔵を組み伏して逮捕しました。
ちなみに、この時命を懸けてニコライ2世を守った車夫は後にロシアから感謝の意を込めて最高級の勲章とお礼金1000万を贈られました。
(津田三蔵を取り押さえた車夫2人。胸元に勲章が輝く)
①大混乱の日本
ニコライ2世は彼の右耳上部に傷ができただけでしたが、ロシア皇太子が日本人に暗殺されそうになったというニュースに日本中が大混乱しました。
国民はこのニュースを聞いて『ヤバイ!これを機にロシアが日本に攻めて来る!』と恐れおののき、ロシア皇太子に対して国民総土下座の勢いで謝罪します。
例えば、ニコライ2世が治療しているのに呑気に勉強している場合ではないとして学校は全国で休校となり、全国津々浦々の神社仏閣はニコライ2世の傷の回復を願って祈祷します。
挙げ句の果てにはとある女性が京都府庁の目の前で『ニコライ2世さん本当にごめんなさい!私の命をもって償います!』という手紙を遺して自殺します。
それらの出来事を総称してロシアに恐怖心を持っている病気 『恐露病』と言われるようになります。
そして、その恐露病は日本政府にもかかります。
②日本政府の反応
日本の国民は混乱状態に陥っていますが、日本政府も大混乱となっていました。
事件の直後明治天皇は自ら汽車に乗って京都へ行き、ニコライ2世を見舞ってさらに謝罪しました。
ニコライ2世に謝罪はしましたが、日本政府はこの事件の見返りとして領地の割譲、多額の賠償金、最悪の場合にはロシアが日本に攻めて来ると思う人がでてきます。
日本政府は是が非でもロシアに対して誠意を見せようとします。
そので日本政府が思いついたのは暗殺未遂をした津田三蔵を死刑にして見せしめにすることでした。
大津事件に対する司法権の独立
日本政府はなんとしてでも死刑にしようと決意しますが、法律に書いてある死刑となる事例は日本の皇族に対する殺傷行為だけで、皇族以外の殺人は無期懲役と決められていました。
そこで日本政府は、事件を所轄する裁判官に対し、『天皇や皇族に対して危害を与えたものに適用すべき大逆罪としなければあんたの命も危ないぞ?』と脅します。
しかし、その行為は当時日本が一生懸命作り上げてきた三権分立を無視する行為だったのです。
三権分立とは
三権分立とはわかりやすくいうと『政府が暴走しないように権力を分けてバランスよくしよう!』ということです。中学時代の公民を習いたての人ならすぐわかると思います。
三権分立は国会の立法権、内閣の行政権、裁判所の司法権の三つです。
もし三権分立がなかったら・・・
政府「この人ウザいし抹殺したいから適当に罪をでっち上げて死刑にして!」
裁判所「わかりました!」
のようになってしまいます。それを防ぐために三権分立があるのです。
運命の裁判!大審院長『児島惟謙』
(児島惟謙 出典:Wikipedia)
そして遂に裁判の時がやってきました。
もちろん政府からの要望は死刑。さらに裁判官の中にはそのように判決を下そうとする者まで出てきます。
ただし、この当時の大審院(現在の最高裁判所)のトップであった児島惟謙(こじまこれかた)は「法治国家として法の範囲で判決を出さなければならない」と言い、さらに「日本の刑法に外国皇族に関する規定はない」として死刑としたい政府の圧力に真っ向から反対しました。
結局、皇室に対する罪ではなく一般人に対する殺人未遂として無期懲役の判決を下しました。
無期懲役の判決が決まった後、ロシアの外相は日本に「どうなるのかわかっているだろうな?」と恐ろしい発言をします。
しかし、皇帝や皇太子は日本の丁寧な対応と誠意のある謝罪を受け、ロシアは日本に対して賠償金の支払い命令や武力報復をすることはありませんでした。
大津事件の日本への影響
さらに日本はこの事件により列強国から近代国家として認められ、領事裁判権の撤廃が進んでいきました。
領事裁判権というのは『日本で外国人が犯罪をしたらその外国人の国の法律で裁く』というものです。
領事裁判権というのはその国の法律が信用ならない時に結ばれます。
ですが政府の圧力に屈せず法にのっとって判決を下したことは、日本の三権分立や司法権の独立を守っているとして国際的に日本の司法権に対する信頼を高めることになります。
その結果一時期は停滞していた領事裁判権の撤廃の交渉がどんどん進んでいくことになっていき、陸奥宗光によって撤廃されることになるのです。
まとめ
✔ 大津事件とは、1891年(明治24年)に起こったロシア皇太子のニコライ2世が津田三蔵という日本人に暗殺されそうになった事件のこと。
✔ ニコライ2世はシベリア鉄道の起工式に出席するついでに日本に旅行しにきた。
✔ ニコライ2世は大津で津田三蔵という警察官に襲われて傷を負った。
✔ 日本政府はロシアの報復を恐れて死刑にしようとしたが児島惟謙は法にのっとって無期懲役の判決を下した。
✔ 政府からの圧力に屈せず法にのっとって判決を下した事が国際的に評価され、領事裁判権の撤廃が進んでいった。
▼大津事件を詳しく知りたい方はこちらの本がおすすめ!
大津事件はそんなに大きな事件という認識がなく、ずっと敬遠してましたが、読んでよかった。よく調べておられると思います。
山場は事件発生時と裁判判決時ですが、いずれの場面もワ―ギャーせず淡々とした書きぶりです。そのため余計にリアリティがあり、彼らの後日談が光って見えるように感じました。
来日中の皇太子ニコライを日本人警官が切りつけた。当時の日露間の国力からすれば、日本は何をされるかわからない。政府は犯人を法を曲げて死刑にしようとする。しかし児島惟謙はあくまで法の独立を守り、無期懲役を通そうとする。
これは近代国家としての日本が直面した最大の危機であった。国家としての独立を守りつつ、また法治国家としての原則を守り抜くことができるか。淡々と、綿密な調査にもとづく筆致は、むしろ抒情的な描写につながる。近代社会における「法」とは何か、考えさせられる。手に汗握りながらたちまち読み終えてしまう一冊だ。
明治24年5月、滋賀県大津市で起きたロシア皇太子ニコライの襲撃事件と事後処理の経過を描いた出色の記録文学。いつもの通り、史料をあさり、現地を歩いた吉村さんの筆致は冴え渡り、一か所も無駄・緩み・主情の見当たらない、非常に完成度の高い作品に仕上がっている。
軍艦に乗って長崎入りしたニコライ皇太子が、鹿児島、神戸、京都、大津へと動く経過の記録は、驚くほど細密で、それが大津の事件現場に近づくにつれ緊迫感を増していく。しかも、事件発生後は、混乱した内閣、司法部、さらに世論の動向を証言資料をもとに明快なタッチで整理し、司法の独立を守ろうとする大審院の児島惟謙らの姿をすがすがしくフォローしている。明治の日本人たちは立派だった、と感動させられた。