【日清修好条規とは】簡単にわかりやすく解説!!条約締結の背景やきっかけ・内容など

 

明治政府は開国後、東アジアの国々へと進出していきます。

 

では大国である清国に対して、明治政府はどのような対応をしていったのでしょうか?

 

今回紹介する「日清修好条規」は日本と清国の両方が初めて結んだ対等な条約なのですが、この条約はお互いの国同士が納得するまでに調印されてから2年かかりました。

 

それはどうしてだったのでしょうか?

 

さらに、「日清修好条規」は日本と清国の関係だけでなく、日本と朝鮮との関係にも大きく影響します。

 

ですので、日朝修好条規の背景には日清修好条規があることを覚えておくと理解しやすいです。

 

今回はこの『日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

日清修好条規とは?

(日清修好条規 出典:Wikipedia

 

 

日清修好条規とは、1871年(明治4年)に日本と清国の両方が初めて結んだ対等な条約です。

 

条約に調印した場所は天津(てんしん)、日本の全権は伊達宗城・清国は李鴻章(りこうしょう)が務めました。

 

この時、条約の確認をする「調印」は1871年(明治4年)に結ばれたのですが、お互いが条約内容に納得して正式に結ぶ「批准(ひじゅん)」は1873年(明治6年)、副島種臣が外務卿の時でした。

 

この条約は1894(明治27)年まで有効でした。

 

日清修好条規が締結された背景や目的

(清の位置 出典:Wikipedia

 

 

日清修好条規を結んだ大きな狙いは以下の2つです。

①欧米列強との不平等条約の改正の土台

②幕末から何度も開国を迫っている朝鮮に対して、優位な立場に立つため

ではそれぞれどういうことなのか、もう少し詳しく解説していきます。

 

欧米列強との不平等条約の改正の土台

日本も清も欧米列強との間で不平等条約を結んでいましたので、表面上ではお互いに助け合いましょうというものでした。

 

ですが実際は東アジアの中でも大国である清と、小さな島国である日本が対等な条約を結ぶことで、日本・清・朝鮮の3国間で優位な立場に立つことができます。

 

それを利用して、幕末に欧米列強との間で結ばれた不平等条約の改正の土台にしようとしたのです。

 

 

幕末から何度も開国を迫っている朝鮮に対して、優位な立場に立つため

朝鮮にとって清は朝鮮国内の政治の全ての権利を持っている宗主国(そうしゅこく)ですので、清と日本が条約上で対等な立場となれば、日本に対して強く反発はできなくなります。

 

ですが、国際社会に進出していきたい明治政府としてはこの内容ではあまりに関係が対等すぎるので政府内でも不満が高まり、すぐに批准ということにはなりませんでした。

 

実は、明治政府は清国がアヘン戦争でイギリスに大敗していたことを知っていたので「実は清国はそんなに強くないのでは?」という疑いがあったのです。

 

 

ですから余計に対等すぎる内容に不満があったのです。

 

一方、清国は「華夷秩序(かいちつじょ)維持」を主張してきます。

 

華夷秩序」とは、清を頂点とする国際秩序のことで、条約内容が平等だとしても優位にあるのは清国であるということを主張しました。

 

つまり、両国ともに欧米列強に対抗していきたいという考え方は一致していたのですが、欧米列強が力を持つ国際社会で、東アジアの中で少しでも権力を持っておきたい両国としてはお互い少しでも有利になるように条約の内容を変更したかったのです。

 

ですから、批准が調印から2年後の1873年(明治6年)になってしまったのです。

 

日清修好条規の内容

 日清修好条規の内容は、主に以下の6つです。

  • 両国は互いの「邦土」への「侵越」を控える(第1条)
  • 外交使節の交換および双方に領事を駐在させる(第4条、第8条)
  • 両国の交渉には漢文を用い、和文を用いるときには漢文を添える(第6条)
  • 制限的な領事裁判権をお互いに認める(第8条、第9条、第13条)
  • 両国の開港場では刀剣の携帯を禁じる(第11条)
  • 通商関係については欧米列強に準ずる待遇(最恵国待遇・協定関税率)をお互いに認め合う

引用:Wikipedia

 

ちょっと難しいので、もっと簡単にご説明すると以下のようになります。

 

日清修好条規の内容

 互いに領事裁判権を認める

→日本国内で清の人が犯罪行為をしたら、清の法律で清国内で日本人が犯罪行為をしたら、日本の法律で裁かれる

 

 お互いに開港する

 

 通商章程(つうしょうしょうてい)

→日本と清国の間での貿易の際、お互いに欧米列強と結んだ不平等条約の内容と同じ条件で対応すること(「最恵国待遇」・「協定関税率」)

 

 領事の駐在

→それぞれの国に、それぞれの領事を駐在させること(★領事:外国にいて、自分の国の人が必要とする保護や助けをする公務員)

 

 お互いの邦土を侵越しない

→お互いの領土に対して攻め入ったりしない

 

 

以上のように、どれもお互いに権利を認め合っていることが分かります。

 

日清修好条規と「朝鮮」との関係

 

 

導入でも触れたように、日清修好条規が結ばれる背景には日本と朝鮮の関係が大きく影響しています。

 

日本は開国以来、朝鮮に対して何度も開国を求めましたが交渉は全て失敗に終わっていました。

 

どうして明治政府はそんなにしつこく朝鮮に開国を迫ったのでしょうか?

 

それは、国際社会への進出の手始めとしてまずは東アジアへの進出と日本国内の元士族たちの新政府に対する不満解消の2つの狙いがあったためです。

 

しかし、朝鮮は日本の交渉にまったく応じてくれないので、朝鮮の宗主国である「清」に目を付けて、清と対等な関係を結ぶことで朝鮮が日本に逆らえないように図ったということなのです。

 

では日本と朝鮮の間で結ばれた「日朝修好条規」とそのきっかけとなった「江華島事件」についてみてみましょう。

 

①江華島事件

この事件は開国要求にまったく応じない朝鮮に対して、何としてでも開国をさせるために明治政府が起こしたずる賢い事件です。

 

明治政府が朝鮮沿岸であえて挑発行為をして、朝鮮の方から先に手を出させることで有利に開国と条約を結べるようにしたのです。

 

江華島事件の内容

 

1875(明治8)年、明治政府は軍艦雲揚(うんよう)を派遣してあえて朝鮮の沿岸で測量等の挑発行為を行いましたが、反応はありません。

 

さらに行動はエスカレートして、雲揚の艦長がボートに乗って首都漢城(現在のソウル)に近い漢江河口の江華島に近づくとついに朝鮮側が江華島にある砲台から砲撃をしてきたのです。

 

その結果、日本側つまり雲揚の艦長は正当防衛として江華島を砲撃して砲台を破壊し、近くの島に乗船していた兵たちを上陸させて永宋城(えいそうじょう)を占拠しました。

 

 

②日朝修好条規

日朝修好条規とは、1876(明治9年)、朝鮮と日本の間で結ばれた日本に有利な内容の不平等条約です。

 

明治新政府は江華島事件を起こして日朝修好条規を無理やり朝鮮に結ばせました。

 

開拓長官「黒田清隆」が全権使節として艦隊6隻とともに朝鮮に派遣され、武力を背景に朝鮮には不利な内容で結ばせた条約です。

 

 

日清修好条規のその後

(琉装の男性たち 出典:Wikipedia

 

 

日清修好条規に調印した同年、台湾に漂着した約50人の琉球人が原住民に殺されてしまいます。

 

明治政府は清国に対して漂流民保護の責任追及をしましたが、清国は台湾の先住民を「化外の民」。つまり清の国民でないとして責任を取らないと主張します。

 

この事件をめぐって1874年(明治7年)に西郷従道が隊長となって台湾出兵をします。

 

 

最終的に大久保利通が全権として清国と交渉し、イギリス人公使ウェードが仲裁役を務め清国が日本に対して賠償金50万両を支払いました。

 

もともと琉球王国は日本・清国ともに自分の土地だと主張していました。

 

日本は17世紀初頭以来島津氏の配下だった琉球を明治になって琉球藩とし、のち琉球処分をして沖縄県としました。

 

 

一方の清国も琉球王国は名目上、清国の属国だったので宗主権を主張していました。

 

こうして琉球問題については日清戦争まで続いていくことになります。

 

 

まとめ

 日清修好条規とは、1871年(明治4年)清国の天津おいて、日本と清の間で初めて結ばれた対等条約のこと。

 条約批准は調印から2年後の1873(明治6年)。

 日本の全権は伊達宗城・清国は李鴻章(りこうしょう)が務めた。

 日清修好条規が結ばれる背景には「日朝修好条規」の存在があった。

 条約締結後は「台湾出兵」「琉球処分」が起こることになった。

 日清修好条規は1894(明治27)年まで有効だった。