【日米通商航海条約とは】簡単にわかりやすく解説!!内容や破棄の理由&影響など

 

ペリー来航に端を発した開港以来、日本とアメリカの間には第二次世界大戦期を除いて、貿易に関する条約がずっとありました。

 

最初は日米修好通商条約でしたが、その後に改定されて日米通商航海条約となりました。

 

今回は、この『日米通商航海条約』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

日米通商航海条約とは?

 

日米通商航海条約とは、日米間の通商と航海に関するルールを定めた条約です。

 

幕末の1858年に締結された日米修好通商条約の後継として、1894年(明治27年)に調印され、1899年(明治32年)に発効しました。

 

この条約では、不平等条約であった日米修好通商条約の条項を改善し、領事裁判権(治外法権)の撤廃と、関税自主権の一部回復を実現しました。

 

さらに、1911年には改定され、関税自主権の完全回復を達成しました。

 

ところが、1930年代後半から日米関係が悪化したことにより、条約の改定が行われないまま、1940年に失効します。翌1941年には、日米はそのまま開戦に突き進みました。

 

日米通商航海条約が結ばれた背景

(ペリーの第二次日本訪問 出典:Wikipedia

①ペリー来航と開国

1853年6月に浦賀に来航したペリーは、江戸幕府に対して開国を要求し、翌1854年3月に日米和親条約の締結にこぎ着けました。

 

 

この条約では、下田と箱館(函館)の2港を開くこと、下田にアメリカの領事を置くことなどが定められました。これにより、日米間の正式な国交が始まりました。

 

②日米修好通商条約の締結

18587月には日米修好通商条約が結ばれました。

 

 

この条約によって日米和親条約で開港された箱館(函館)に加えて、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港が定められました。

 

このとき、江戸や大坂(大阪)から遠くて不便だった下田の港は閉じられました。

 

さらに、公使を交換すること、江戸や大坂(大阪)で市場を開くこと、開港された地域で外国人居留地を定めること、自由貿易の原則を認めることも取り決めていました。

 

しかし、その一方で、領事裁判権(治外法権)を認め、日本の関税自主権を否定する項目が含まれていました。

 

(1)領事裁判権

領事裁判権とは、外国人が日本国内で罪を犯した場合、その外国人の母国の領事が裁判を行う権利のことです。

 

その際、適用される法も、日本の法ではなく、その領事国の法でした。

 

そのため、外国人が日本でどんなに重罪を犯しても、日本人は外国人を一切裁くことができなかったのです。

 

このような権利は、中世ヨーロッパにはあったのですが、近代になって主権国家の考え方が一般的になると、領事裁判権は主権を侵害するものだとされて、欧米では廃止されていました。

 

ところが、欧米諸国がアジアに進出した際には、現地国との間の条約で、領事裁判権を認めさせました。つまり、アジアの国々を欧米と同等の主権国家としてみなしていなかったのです。

 

 

(2)関税自主権

関税自主権とは、外国からの輸入品に対して、自由に関税をかけることができる権利のことです。

 

もし外国から安価な輸入品が大量に入ってくると、国内の商品が売れなくなり、国内産業は大きな打撃を受けてしまいます。

 

そのため、安価な輸入品に対しては、関税を上乗せして、国内では安く売れないようにするという対策をとるのが一般的です。

 

しかし、関税自主権を失った状態だと、このような対策を一切とることができなくなってしまいます。

 

相手国に関税自主権を認めないというのは、欧米が自国で大量生産した製品をアジアの国々に買わせるために使った手段であり、欧米中心の考え方が表れたものでした。

 

 

(3)日米修好通商条約の評価

したがって、日米修好通商条約は、日本にとって一方的に不利な不平等条約と言えます。

 

しかし、アメリカに軍事力で圧倒的に劣る日本は、このような条約であっても締結せざるをえませんでした。

 

その後、これと同様の条約をオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結びました。

 

そのため、どのようにして不平等条約を改正していくのかが、これ以降の日本の外交の重要課題となりました。

 

日米通商航海条約の内容

1894年の条約

1894年11月22日、栗野慎一郎駐米公使と米国務長官グレシャムとの間で、日米通商航海条約への調印が行われました。

 

この条約は、日米修好通商条約の後継という位置づけで、同年716日に調印されていた日英通商航海条約と同じ内容のものでした。

 

 

日英通商航海条約は、日本がはじめて不平等条約の改正に成功した例です。

 

当時の外相・陸奥宗光は、1892年に第2次伊藤博文内閣の外相に就任して以来、不平等条約の改正に取り組んでいましたが、この条約で領事裁判権(治外法権)の撤廃と、関税自主権の一部回復を実現しました。

 

日米通商航海条約でも同様に、通商航海の自由と内国民待遇(自国の領域内で相手国の国民を自国民と同等に扱うこと)を原則としながら、領事裁判権(治外法権)の撤廃と、関税自主権の一部回復が定められました。

 

この条約は、調印5年後の1899717日に発効しました。

 

1911年の条約

1894年に調印された日英通商航海条約や日米通商航海条約をはじめとする13カ国との条約が1911年に満期を迎えるのに伴い、その前年の1910年から2次桂太郎内閣の外相・小村寿太郎が中心となって、条約改正に向けた交渉が行われました。

 

(小村寿太郎 出典:Wikipedia) 

 

1911221日に調印され、同年44日に発効した新たな日米通商航海条約では、日本の関税自主権の完全回復を達成しました。

 

これにより、アメリカからのすべての輸入品に対して、日本は自由に関税をかけることができるようになりました。

 

さらに、旧条約ではアメリカが国内法で日本人移民を制約できる留保条項がありましたが、条約改正によってこの条項は撤廃されました。

 

その背景には、ハワイがアメリカの属領になった1900年以来、アメリカへの日本人移民が大幅に増加していた事情がありました

 

旧条約のままでは、アメリカが日本人移民を不当に差別する法律を制定するおそれがあったため、何としても留保条項を削除する必要があったのです。

 

ただし、条約改正と同時に、日本はアメリカに対して、紳士協約を通して過去3年間実施してきた日本人移民の自主的な制限を今後も続けることを約束しました。

 

しかし、1924年になると、アメリカは排日移民法を制定し、この紳士協約を一方的に破棄することになります。

 

日米通商航海条約の破棄

 

1930年代後半になると、日中戦争の拡大により、日米関係は急速に悪化していきました。

 

 

そうした中、1911年に調印された日米通商航海条約の満期が迫ってきました。

 

日本の中国侵略に抗議していたアメリカは、日本に対して日米通商航海条約の破棄を通告してきました。

 

そのうえで、新条約を締結したいならば、中国の権益を手放すように日本に要求したのです。

 

当然、日本側はアメリカのこうした要求をのむことはできません。

 

日米間の交渉は平行線をたどりました。野村吉三郎外相とグルー駐日大使との間で、暫定協定の締結を試みましたが、これも成功しません。

 

その結果、1940126日に日米通商航海条約は失効しました。

 

これにより、日米間に通商条約が存在しないという異例の状態に陥りました。

 

そのような状況下で、1941128日の真珠湾攻撃により、日米は開戦しました。

 

(真珠湾攻撃 出典:Wikipedia

 

 

第二次世界大戦後の日米関係

(条約の調印を行う吉田茂 出典:Wikipedia

 

 

戦後、サンフランシスコ平和条約の締結に伴って、195342日に日米友好通商航海条約が調印され、同年1030日に発効しました。

 

 

この条約では、日米間の通商や投資交流を促進するため、入国・投資・商業活動・為替管理・関税・航海など、日米間の経済全般にわたって、最恵国待遇内国民待遇を原則とすることが定められました。

 

これにより、無条約状態だった日米間で再び通商条約が結ばれました。

 

現在に至るまで、日米間の通商はこの条約によって保障されてきました。

 

また、この条約は戦後日本が旧連合国と締結した最初の通商条約でもあり、歴史的な意義をもつものでした。

 

まとめ

 日米通商航海条約とは、日米間の通商と航海に関するルールを定めた条約のこと。

 1894年に日米修好通商条約の後継として調印され、1899年に発効した。

 日米通商航海条約では、領事裁判権(治外法権)の撤廃と、関税自主権の一部回復を実現した。

 1911年の改訂では、関税自主権の完全回復を達成した。

 日米関係の悪化により、1940年に失効し、その後日米は開戦に突き進んだ。