当時世界的に見ても人口の多い大都市だった江戸で発生した大火事である明暦の大火は、都市の広い面積を焼失し、多くの被害者を出した日本史上最悪の火災事故でした。
しかし悲劇で終わることなく、その後江戸を一大防災都市とするきっかけともなりました。
今回はそんな『明暦の大火(めいれきのたいか)』が発生した原因や状況、そしてその後の復興についてもわかりやすく解説していきます。
目次
明暦の大火とは?
(明暦の大火『江戸火事図巻』 出典:Wikipedia)
明暦の大火とは、明暦3年(1657)、陰暦の1月18日から20日にかけて江戸で発生した3件の火災のことを総称して言います。
最初は1月18日午後二時頃、本郷丸山にある本妙寺から出火して、日本橋方面まで延焼しました。
二回目は1月19日午前十時頃、小石川から出火して江戸城へおよび、江戸城は西の丸を除くほとんどを焼失してしまいます。
三回目は1月20日午前八時頃、麹町から出火して芝浦にまで延焼します
三回の火災はいずれも江戸の5キロ前後の区域に燃え広がりました。
明暦の大火が発生した原因
①気象状況
明暦の大火が発生する前から、江戸は乾燥した日が続いていました。約80日もの間雨が降っていなかったと言われています。
また当時は強風が吹き荒れていました。乾燥したところに吹く強風、それが火の回りを速めたのは間違いありません。
②謎の多い「振袖火事」の伝説
明暦の大火は別名「振袖火事」と呼ばれます。
その名前の由来となったのが、本郷丸山の本妙寺に伝えられる伝説です。
本妙寺に参詣の際、とある美少年に恋に落ちた一人の娘が、少年と同じ模様の振袖を作って大事にしていたうちに亡くなってしまいます。
遺族はその振袖を本妙寺に納めたのですが、住職はそれを古着屋に売ってしまいます。
しかし、売ってもすぐに別の娘の葬式の際に、同じ振袖が本妙寺に納められるということが三回も続きました。
さすがに恐ろしくなった住職はこの振袖を焼くことにするのですが、火に投じた瞬間竜巻が起こり、この振袖が舞い上がって御堂に火をつけてしまった、それが明暦の大火のきっかけとなった。という伝説です。
③振袖火事以外の説
明暦の大火の原因として考えられている中に、放火説がいくつかあります。
✔ ちょうど明暦の大火から6年前に発生した由井正雪の乱の残党が火をつけた
✔ 江戸を改造しようとした幕府が自作自演で火をつけた
✔ 本妙寺に隣接していた老中阿部忠秋の屋敷が実は火元だったが、幕府からの要請で本妙寺が火元の身代わりとなった
などと、さまざまな説が当時から噂されていました。
しかし、いずれも3回すべての原因とすることは難しく、噂の域を出ないようです。
明暦の大火の被害状況
(避難する人々「むさしあぶみ」 出典:Wikipedia)
①江戸の人々の防災意識
明暦の大火が発生する以前の江戸には消防制度がほとんど整備されていませんでした。
大名を招集して消火させる「大名火消」と町人たちが全員参加で消火を行う消防活動がいちおう組織されていましたが、活動は限定的なうえにこれほどの大火にはとても通用するレベルのものではありませんでした。
また建物も木造家屋が密集する、きわめて燃えやすい環境でした。
三回にわたる明暦の大火も、風が収まってくれたことと炎が川や海に達したことによって止まったことによって結果的に鎮火したのであって、火消しによって消火を行った記録は残っていてもほとんど機能していなかったようです。
風の勢いで拡大する炎の前に、江戸の人々はなす術もなかったのでしょう。
②被害状況
明暦の大火で、当時の江戸市街地の約6割が焼失してしまいました。また江戸城は西の丸を除いてすべて焼失してしまいます。
また、犠牲者の数も大変なものでした。
記録によって数は様々ですが、少なくとも5,6万人もの人々が犠牲になったと考えられています。
これは当時の江戸の人口の二割近い数です。延焼スピードはすさまじく、逃げ切れない人々や、川岸に追い詰められて川に飛び込んで亡くなった人も多くいました。
一時的に牢屋から解放された囚人を脱獄と勘違いした役人が浅草橋を封鎖して、逃げられなくなった2万人以上もの人々が亡くなったと言われています。
明暦の大火後の復興
(『東インド会社遣日使節紀行』に描かれた明暦の火事 出典:Wikipedia)
①パニックを抑える対策
被災した人々は、これからの生活はどうなるのか、また火の手が上がるのではないかなどといった不安で落ち着かない時間を過ごしていたでしょう。
情報もままならない中、幕府の権力の象徴ともいえる江戸城までもが焼失してしまったと知ったときの人々のショックは計り知れないものがあります。
被災地以外の人にまで情報が知れ渡れば混乱は必至です。
そんな人心を落ち着けようと、老中松平信綱は大火の翌日すぐに全国に将軍の無事を知らせる使者を遣わします。
将軍は無事である、江戸城は焼失したが問題ない、気にせずに仕事に励めと伝えたのです。
信綱は江戸の混乱を鎮めるだけでなく、全国に気を配って混乱を最小限に留めることに尽力したのです。
②被災者の救済
幕府は被災者に対してただちに粥を与えるように命じ、さらに浅草にあった幕府の米蔵が焼けてしまったことから、焼けた米を食べられるようにして町民たちに与えました。これは保科正之のアイデアでした。
(保科正之 出典:Wikipedia)
また米の高騰を抑えるために幕府が金1両につき米七斗(約105㎏)と基準を定め、それ以上の価格で売ることを禁じました。
さらに時価の倍で幕府が米を購入しました。これは江戸に米を集中させるためです。
案の定大量の米が江戸に売られ、それらが被災者へ与えられました。
③犠牲者の供養
火災によって亡くなった多くの人々の遺体は本所牛島新田へ運ばれ、そこに大きな穴を掘って埋葬しました。
「万人塚」と呼ばれていたことからも、いかに多くの人がそこに埋葬されたかが窺えます。
そしてこの場所に回向院を建立し、犠牲者を供養することとしました。
(両国回向院正門 出典:Wikipedia)
④復興への足掛かり
復興には家の建て替えなどに必要な材木を材木商が抱え込んで、そのため木材の値段が高騰しました。
しかし江戸城の再築は3年延期される、その際の材木は民間からは買い上げないなどという噂が江戸に流れると、たちまち価格は下がりました。これは実は幕府の情報操作だったと言われています。
また復興に最も必要なのはやはりお金です。
被災者は身分に応じた額の下付金が幕府から与えられました。
これらの下付金は大名や旗本御家人のみならず、町民にも行き渡り、復興に大いに役立ちました。
明暦の大火が変えたもの
①幕府による江戸再建計画
幕府は江戸を再建するにあたって、地図を作成しました。
町見術と呼ばれるオランダの測量技術を用いて詳細な実測地図を作成しました。
これが「新版江戸大絵図」として明治時代まで使用されていました。
そして今後火災が発生した際に延焼を少しでも抑えようと火除地を作ったり、道幅が拡張されます。上野広小路などは火除けのための広小路です。
二回目以降の火災では、避難のために外に持ち出した荷物が道路などに積み上げられていて、それが逃げる際の道を塞いでしまっていたことも多くの犠牲者を出した原因でした。
そのため広小路は商売物を置くことも禁止とされました。
また幕府が定火消を創設したことは大きな出来事です。
定火消の中から任命される火消役が日常的に火災発生を警戒し、火災発生時の治安維持に努めました。
一方町人も自発的に防災に取り組む組織が作られ、後の町火消のもととなりました。
②人々の意識変化
江戸城や多くの大名屋敷を火に包んだこの大火は、江戸城内の女性や大名の妻たちにも影響を与えました。
それまで長い髪をそのまま垂らした「垂髪」という髪型をしていた女性たちは、火事で逃げる際にはその髪型が妨げとなってしまいました。
そこで髷を結うようになっていきます。
明暦の大火の影響
明暦の大火は多くの犠牲を出しましたが、その後の再建を通して江戸を防災意識の高い都市と変えることとなりました。
復興に向けた保科正之や松平信綱らの尽力は現代の災害からの復興にも通用できる、素晴らしいものでした。
しかし、復興にかかった費用はやはり膨大なもので、それが後の幕府の財政を苦しめるきっかけとなりました。
明暦の大火の語呂合わせ
明暦の大火が発生したのは1657年です。
疲労・御難(ひろう・ごなん=16・57)な明暦の大火
と覚えましょう!
確かにこれほど立て続けに火事に見舞われた江戸の人々の疲労と御難は大変なものだったでしょうね。
まとめ
✔ 明暦の大火とは1657年に江戸で発生した3件の大火を総称したもの。
✔ 江戸市街地の約6割を焼失し、江戸城も天守閣まで焼失してしまう。
✔ 江戸の人口の約2割もの人々が犠牲となった、日本史上最悪の火災事故。
✔ 本郷本妙寺の振袖伝説が大火の原因と噂されたことから「振袖火事」と呼ばれる。
✔ 犠牲者の供養のために回向院が建立された。