【槇島城の戦いとは】簡単にわかりやすく解説!!戦いの背景や内容・その後など

 

ときは戦国真っ只中、将軍と言えど、すでに全国には勢力を強めた戦国大名が立ち並び、幕府内の内紛もあり権力は失墜。もはや名ばかり将軍に過ぎませんでした。

 

そんな悲運な中、将軍に擁立された「足利義昭」は、もしやしたら僧侶として平凡な人生を送っていたかもしれない人物でした。

 

(足利義昭 出典:Wikipedia)

 

運命に翻弄され、将軍に擁立されながらも将軍として何一つ見せ場も作れず散って行くのでした。

 

今回は、そんな足利義昭が織田信長に立ち向かった戦、「槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

槇島城の戦いとは

(槙島城跡近辺の公園内にある槙島城記念碑 出典:Wikipedia

 

槇島城の戦いとは、1573年におこなわれた足利義昭(15代室町幕府)と織田信長の間の戦いのことです。

 

元々室町幕府内の内紛により暗殺された13代将軍足利義輝の弟・義昭は、正当後継者と名乗り上げるも、幕府本体は乗っ取られ状態の上、義昭一人の力では名乗りあげたは良いものの、自力で将軍に就任する力はありませんでした。

 

そこで有力大名の協力を仰ごうと協力要請をした所、それに応じてくれたのが織田信長でした。

 

しかし、元より二人の目論みに温度差のあった二人は次第に険悪となると、ついに義昭は信長に向け、挙兵するのでした。

 

槇島城で立て籠り交戦する義昭でしたが、共に戦っていた二条城は降伏の上、降伏した味方も織田軍に従軍とあいなり到底敵いませんでした。

 

奮闘した義昭でしたが、さいごは降伏する事となりました。

 

槇島城の戦いが起こった背景

①義輝の暗殺

室町幕府は、幕府内で権力闘争が起きており、幕府の権威は地に落ちていました。

 

戦国大名が各地で台頭していた当時、将軍の一声で世を動かせると言う訳ではなかったのです。

 

それを復権しようとして孤軍奮闘していたのが、13代将軍の足利義輝でした。

 

(足利義輝 出典:Wikipedia)

 

義輝は、京へ帰還すると各地の大名と交流して幕府の権威を戻しつつありましたが、こともあろうにそれを快く思わない家臣達がまだ幕府の中にいたのです。

 

権力を我がものにするべく、三好三人衆によって現役将軍が暗殺されるという一大事が発生すると、幕府の権威は再び失墜。実質、三好三人衆によって支配される事となりました。

 

折角、義輝が築き上げた幕府の権威は崩れ落ちたのです。

 

 

将軍になりたい義昭

義輝の暗殺に伴い、義輝の側近達に担ぎ出された義昭は義輝の実弟にて12代将軍の次男でした。

 

(足利義昭 出典:Wikipedia)

 

次男であった義昭は、幼少時に出家して、将軍就任とは程遠い環境で育っていました。

 

そんな義昭も三好三人衆によって幽閉されてしまい、何とか義輝の側近の尽力により幽閉先を命からがら逃げ出したのでした。

 

しかし、敵の手から逃れたとは言え、すんなりと将軍になれる訳ではありません。

 

幕府を牛耳る三好三人衆を先ず撃退しなければなりませんが、義昭にその力はありません。

 

そのため、各地の戦国大名に協力要請を出して将軍擁立を手助けして貰おうとしたのです。

 

槇島城の戦いの経過

①協力要請を出すが…

有名所として、義昭は上杉謙信を頼ります。

 

上杉家は元々、足利家とは縁戚筋でかねてより付き合いのある家でしたし、義理深い謙信なら当然助けてくれると思っていました。

 

しかし、当時の上杉家は領内の一揆や北条、武田との戦で忙しく到底義昭の上洛を手伝える余裕などありませんでした。

 

謙信自身は、協力したかったようですが、状況がそれを許してくれませでした。

 

そして最も義昭が世話になり義昭に世話を焼いてくれたのは、朝倉義景でした。

 

(朝倉義景 出典:Wikipedia)

 

かれこれ二年も世話になり義景に対し、相当の期待を寄せていた事でしょう。

 

しかし、義景も当時長年の加賀一向一揆に悩まされており、到底義昭の援助をしている余裕はありません。

 

それを知る義昭は、加賀一向一揆との和睦を促すなど尽力して恩を施します。

 

にも関わらず結局義景は、上洛を果たしてはくれませんでした。理由は定かではなく、諸説ある物の嫡男を失い気力が失せていたとか、義景本人は上洛に興味がなかったと言われています。

 

結局はのらりくらりと義昭を交わしつつ、かといって将軍家の義昭を邪険にはできないというのが朝倉家でした。

 

②織田信長の登場!

(織田信長 出典:Wikipedia)

 

そして漸く上洛を実現したのが織田信長でした。

 

もちろん、信長も当時美濃攻略に悩まされており、すんなりと援助してくれた訳ではありません。

 

一度は約束を破られますが、結局はまた信長を頼るのでした。

 

当時、信長は飛ぶ鳥を落とす勢いがありましたし、結局動いてくれない義景にはしびれを切らしていた義昭にとっては、最後の望みと言って良いでしょう。

 

信長自身も上洛の足掛かりとなりますし、室町幕府の守護者と言う名声を得れば他の大名とも有利に交渉する事が出来ます。

 

信長は、単純に義昭を将軍にしたいと言うよりも自分の思惑があったからこそ義昭に尽力したのです。この時点で既に温度差がありますね。

 

③義昭の将軍就任

信長と共に上洛し三好三人衆を蹴散らした信長によって、義昭は念願の15代将軍に就任します。

 

信長に対し、副将軍の座に就けるとまでいうくらい、信長に感謝していました。

 

信長なくして将軍には成り得ませんでしたからね。

 

しかし、そんな蜜月関係も次第に壊れ行きます。自ら天下統一を狙う信長にとって義昭は、自分の言いなりとなる使い勝手の良い存在でなければ困ります。

 

それに対し、義昭は何と言っても将軍ですから、自らの政治手腕を発揮させ幕府を復権させたいと思っています。

 

そもそも兄義輝の意思を継ぎ将軍を目指した義昭にとって、幕府復権は何よりの念願です。将軍になれれば終わりではありません。

 

次第にお互いの利害関係が合わなくなると結局、義昭は信長を打ち負かすべく信長と不仲な大名達を味方に付け、信長包囲網を作り始めます。

 

そして、最後には自ら戦うのでした。

 

④いざ決戦!

信長と決別する事にした義昭は、二条城に堀を作り立て籠り、交戦します。

 

織田方からは、人質による和睦案も出されていましたが、一切応じる姿勢を見せませんでした。しかしながら、戦火となる都において正親町天皇の勅命により和睦します。

 

しかし、義昭自ら和睦を破ると、再び挙兵して二条城を家臣三淵藤英に任せると自身は槇島城で立て籠ります。

 

ですが、二条城は味方が離反し敗走してしまい、藤英のみが交戦すると言う丸裸状態になると、藤英も降伏してしまいます。

 

結局義昭も嫡男を人質に差し出し和睦せざるを得なくなりました。

 

 

⑤その後の義昭

戦には負けた義昭でしたが、処罰される事はなく、京から追放されるだけでしたので割りと寛大な処遇を受けています。

 

それは、信長が曲がりなりにも現役将軍義昭を殺害すれば、将軍殺しの汚名をきせられる事となり、世間体が悪くなるからと言われています。

 

ただし、義昭は追放され、幕府は空中分解状態で事実上、室町幕府の崩壊と言わざるを得ませんでした。

 

ですが、時はうつろい豊臣政権下になると前将軍と言う経歴から一万石の大名となりました。

 

一万石と聞くと侘しくも感じますが、大名として復帰し、面子を何とか保つ事が出来たと言う事でしょうか?

 

 

槇島城の戦いの後の其々

 

足利義昭本人は京から追放され、室町幕府は崩壊します。

 

晩年は一万石の大名として復帰するも、子供達は徳川幕府の家臣として残り、大名として残る事はありませんでした。

 

信長は、天下統一目前に家臣・明智光秀に裏切られ(本能寺の変)、結局正式には天下統一を果たせませんでした。

 

 

結局信長の地盤を継ぎ豊臣秀吉、そして幕府を開いたのは徳川家康でした。

 

もし室町幕府が続いていたら、日本は、また違った文化をなしていたでしょう。

 

まとめ

まとめ

 

 槇島城の戦いは、1573年に起き足利義昭(室町幕府15代将軍)と織田信長との戦いの事。

 

 戦いの結果織田信長の尽力により足利義昭は、将軍へ就任した。

 

 信長尽力のおかげで将軍になれた義昭だが、将軍を操り人形にしたい信長と自ら将軍として活躍したい義昭とでは、そりが合わず義昭は、挙兵して戦は、始まった。

 

 戦いは、上杉謙信や朝倉義景を頼るも何だかんだ協力してくれず足利義昭は、敗北をきした。

 

 足利義昭は、京から追放されるも晩年は、前将軍として一万石の大名となった。