1万年も続いた縄文時代が終わると弥生時代がはじまりそれまでの暮らしぶりが変わりました。
でもいざどう変わったのかを考えてみると意外に思い浮かばなかったりしますよね。
そこで今回は『弥生時代の暮らしの特徴や卑弥呼』について、わかりやすく解説していきます。
目次
弥生時代ってどんな時代?
まず弥生時代とはどんな時代なのかを振り返ってみましょう。
①稲作のはじまり
弥生時代で最も特徴的な変化は大陸から稲作が伝わったことです。
稲作は弥生時代の初期、九州北部に大陸からの渡来人によって伝えられました。
そしておよそ100年ほどをかけて近畿地方へ、弥生時代の中期である紀元後2世紀頃には東北地方にまで伝わっていきました。
(弥生時代の稲作の再現模型 出典:Wikipedia)
稲作が広まった大きな理由は食料の保存がきくという点です。
それまでの生活は動物や魚の狩猟、木の実などの採取が中心であったため安定した食料の確保が難しく食料の確保が出来なければ飢え死にの心配がありました。
その点、稲作ではお米を作れば保存がきくので飢え死にする心配がなくなったのです。
しかし田んぼを思い浮かべるとわかる通り稲作には稲を育てる土地、水路の確保、耕す労働力、保存する場所等様々な問題点も浮上しました。
そのため弥生時代では人々の生活ぶりが大きく変わりました。
②暮らしの変化
稲作が広まったことで大きく変わったのは共同生活人数の増加です。
それまでの狩猟と採取中心の時代では捕れる獲物の数に限りがあるため多くの人が共同で暮らすのは難しかったのですが、弥生時代では水路の確保、管理、稲作の労働力の観点から生活人数が大幅に増えることになりました。
もちろんお米は保存のきく食料なので食糧問題も問題にはならなかったのです。
さらに弥生時代の後期には渡来人から金属を使う文化が伝わりました。それまでつかっていた木製農具から鉄製農具を使うようになり稲作の効率があがることになりました。
お米の保存のために建物も変わりました。
それまでの竪穴式住居では湿気とネズミによってお米の保存がうまく出来ませんでした。そこで登場したのが高床式倉庫です。
読んで字のごとく地面から高い位置に床を作ることで湿気を防ぎ、床にはネズミ返しを作ることでネズミからお米を守ることが出来るようになりました。
③弥生土器
(弥生土器 出典:Wikipedia)
食生活の変化と大陸文化が入ったことで調理する道具として弥生土器が使われるようになりました。
この弥生土器はイチジクの実の形をした壺で縄文土器よりも薄くて丈夫でした。
弥生時代の人々はこの弥生土器を使い、お米や野菜を煮た他、水を貯めたり皿としても使っていたと考えられています。
そしてこの弥生土器は弥生時代の名前の由来となりました。
④食生活
稲作が広まったことによってお米はもちろん小麦や粟などの雑穀も主食にされていました。
また、もちろん採取や狩猟も行われていたので肉や魚、果物も食べられていました。
そして弥生土器の登場により焼く、煮るの他に蒸すこともできるようになった上、木製のスプーンも出土していることから食事のバリエーションはとても多くなりました。
⑤服装
中国に残る魏志倭人伝によれば当時は貫頭衣を着ていたと言われています。
貫頭衣とは今のポンチョのように1枚の布を二つ折りにして中央に頭を出す穴をしつらえたものです。
この布の生地は身分の差もあらわしていました。富裕層は庶民と違い赤や紫など鮮やかな色合いの服装でした。ちなみに髪型も身分や年齢によって違っていました。
⑥吉野ケ里遺跡
(吉野ケ里遺跡 出典:Wikipedia)
弥生時代の代表的な遺跡には吉野ケ里遺跡が挙げられます。
吉野ケ里遺跡は九州の佐賀県にある遺跡で1986年からの発掘調査で発見されました。
吉野ケ里遺跡は紀元前4世紀に吉野ケ里陵のところどころに「ムラ」が出来始め、弥生時代の中期から後期にかけて「ムラ」の統合が行われていったことにより「クニ」が出来るようになりました。
この吉野ケ里遺跡最大の特徴は防御に関連した遺構であるという点です。
約2.5km、40ヘクタールを囲った外壕には木柵、土塁、逆茂木といった外敵の侵入を防ぐ柵があったほか見張りの為の物見櫓が複数置おかれていました。
⑦増えていった争い
これまでの縄文時代ではほとんど争いの痕跡が発見されませんでした。
それは身分の差がなく平等でかつ少人数の生活集団であったからです。しかし弥生時代は違いました。
お米を保存できるようになり貧富の差が出るようになり、この貧富の差はそのまま身分の差へとつながったのです。
そして当然集落同士の貧富の差も生まれ他の集落から食料を奪おうと争いが生まれていきました。
「ムラ」として生活を共にしていた集団は稲作の労働不足と集落の統合が繰り返されやがて各地で「クニ」という集団に変わっていきました。
紀元後3年頃には30もの「クニ」が出来ました。
邪馬台国と卑弥呼の出現
農耕が発達し、お米の収穫量によってできた貧富の差によりできた「クニ」の中に最も大きな「クニ」が現れました。
それは卑弥呼を女王とした邪馬台国です。
この邪馬台国とはいったいどんな「クニ」だったのでしょう。
①邪馬台国を収めた卑弥呼
邪馬台国は元々、男の王により統治されていました。
しかしこの邪馬台国は約30もの「クニ」を統合してできた「クニ」であったため邪馬台国内での争いは激しく行われていました。その時に現れたのが卑弥呼でした。
中国の魏志倭人伝によれば倭国大乱(日本列島全体での争いだったと考えられています)の中卑弥呼を女王に立てたところ騒乱が収まったと記されています。
実はこの卑弥呼についてわかっていることは多くなく未だに謎だらけの人物。卑弥呼については以下のことしかわかっていません。
✔ 卑弥呼の統治の仕方は呪術や占いを用い「神からのお告げ」をもとに行っていました。しかし卑弥呼自身が人前に出て統治を行うことはほとんどなくその多くが卑弥呼の弟を通じて統治されていました。
✔ 結婚もせず子供もいなかったとされています。
✔ 中国の魏志倭人伝にあるように中国の魏という国へ使者を送り親魏倭王と金印をもらった。
ちなみに卑弥呼の死後、男の王が玉座につきましたが再び戦乱が始まったとされています。
この戦乱は卑弥呼の血縁関係のある「壱与」を女王として立てることで収まりました。
②邪馬台国の謎
女王である卑弥呼もほとんどわかっていることがなく謎だらけでしたが邪馬台国自体も謎があります。
そもそも邪馬台国はどこにあったのか現在でも議論されています。
そこで今回邪馬台国があった場所とその論拠を紹介します。
九州北部説
邪馬台国は卑弥呼が中国の魏へ使者を出したことからわかるように大陸との交流があったことが邪馬台国を大きくした要因だと考えられます。
邪馬台国があった当時の日本列島には銅製の武器しかありませんでしたが長崎県の原の辻遺跡からは鉄製の武器が多く発掘されています。
鉄製の武器を手に入れることが出来るのは大陸と交流をしていた邪馬台国あると考えれば不自然はありません。
また、魏志倭人伝に「楼観、城柵を厳かに設け」とされた邪馬台国はこの時代最大級の環濠を有した吉野ケ里遺跡であるとするならば不思議はないでしょう。
近畿説
もう一つの説は奈良県の大和にあったのではないかという説です。魏志倭人伝に「魏は卑弥呼に銅鏡百枚を送った」と記述があります。
これを裏付けるように奈良県の黒塚遺跡からは34枚もの銅鏡が発掘されています。
更に纏向遺跡からは日本各地で焼かれて持ち込まれた土器が発見されているため近畿の「クニ」の王は大きな権力を持っていたと考えられています。
また、卑弥呼の墓という説のある最古の前方後円墳が見つかったのも近畿です。
現在でも邪馬台国が一体どこにあったのか様々な観点から考察がされています。未だ発見されていない中国の魏国から送られた金印が発見されればこの謎の進展がみられるかもしれません。
まとめ
✔ 弥生時代は渡来人によって稲作が広く始められるようになりました。
✔ 木製の道具から鉄製の道具へ変わり収穫量の向上がみられました。
✔ 貧富の差による身分制度が生まれ「ムラ」から「クニ」へ生活集団の拡大。
✔ 吉野ケ里遺跡から弥生時代では「クニ」同士の争いがあったことが見て取れました。
✔ 弥生時代最大の謎!邪馬台国と女王卑弥呼。