古代の日本で長い間中国大陸を目指し派遣されていた遣隋使と遣唐使。
今回はそんな『遣隋使と遣唐使の違い』についてその時代背景や目的、主要な人物などの違いを、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
遣隋使と遣唐使の違い
時代(派遣された期間)
✔ 遣隋使・・・600年〜618年
✔ 遣唐使・・・630年〜894年
派遣の目的
✔ 遣隋使
①日本は隋と対等に付き合える文明国だと隋やその他の隣国に知ってもらうため
②隋の文化を日本に取り入れるため
✔ 遣唐使
①唐の文化や政治の制度、仏教を日本に持ち帰えるため
②白村江の戦いで負けたのを背景に、政治的な外交をするため
主要人物
✔ 遣隋使・・・小野妹子
✔ 遣唐使・・・山上憶良、吉備真備、阿倍仲麻呂、菅原道真
ここからは、遣隋使と遣唐使それぞれについて詳しく見ていきましょう。
遣隋使について
①遣隋使の派遣期間
遣隋使が派遣されていたのは推古天皇の時代で、およそ600年(推古8)〜618年(推古26年)とされています。
この18年間の間に5回以上の派遣を行っていると『隋書』や『日本書紀』に記録が残されています。
また、618年には隋が滅んだので、同時に遣隋使も終了し、遣唐使へその使命は引き継がれました。
②派遣の目的
遣隋使が派遣された隋という国は、それまでおよそ370年間も、さまざまな王朝が建てられては滅ぼされ、分裂を繰り返していました。
安定しない中国大陸をようやくひとつに統一したのが隋という大きな国でした。518年からはじまり、619年に滅びています。
どの国よりも大きな隋という国に、日本をはじめとする隣国は隋との関係性を築こうと使節を送りました。
日本も内紛などの影響で、使節を送るのは遅くなってしまいましたが、なんとか600年に第一回の遣隋使を派遣しました。
目的⑴隋と対等に付き合える文明国だと認知させるため
日本にとっての遣隋使の目的は、まずひとつに、日本は「大国の隋と対等に付き合える文明国だ」と隋やその他の隣国に知ってもらうためというものがありました。
600年に派遣した最初の遣隋使では、隋の皇帝に日本の様子を聞かれましたが、日本側は意味のわからない返答をしてしまい、皇帝に嘲笑われ「日本は文明が進んでいない野蛮な国だ」と言われてしまいました。
日本の威厳を取り戻すべく、聖徳太子が中心となって、立派な都をたてたり、冠位十二階や十七条の憲法を制定したりして、日本が文明国のひとつと数えられるよう頑張りました。
目的⑵隋の文化を取り入れたい
そして、もうひとつの目的として、隋の文化を日本に取り入れるためというものがありました。
当時から日本は高句麗や百済など、現在の朝鮮半島にあたる国々とは交流をしていましたが、やはり近隣の国で最も進んだ文化を持っていたのは、中国大陸の隋でした。
日本が隋の近隣国では高い文明を持った国だと知らしめるとともに、さらなる文化の発展のために、遣隋使を派遣していました。
③主な遣隋使
遣隋使では小野妹子が有名です。
小野妹子は第二回の遣隋使派遣で「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という書物を隋の皇帝・煬帝に渡しました。なお、煬帝はこの書物で日本側に「天子」と名乗られたことに煬帝は大変怒ったといいます。
小野妹子はこの国書に対して、隋側から返書をもらいましたが、なんとこの返書を紛失してしまいます。
そのため、一度は流罪に処されてしまいましたが、遣隋使としての功績が高く評価され、冠位十二階では最上級の大徳という位につきました。
小野妹子が遣隋使として国書を持って行ったのは607年なので「無礼な(607)遣隋使、小野妹子」と覚えましょう。
また、大化の改新後に国博士として任命された高向玄理と旻は、第3回の遣隋使派遣(608年)で学問僧として隋に留学していました。
遣唐使について
①遣唐使の派遣期間
遣唐使が派遣されていたのは、およそ630年から894年までとされています。
唐にたどり着かなかった派遣も含め、およそ20回にわたって遣唐使は派遣されました。(諸説があります)
隋のあとに建てられた唐王朝は、618年から907年まで続いたといいます。
②派遣の目的
目的⑴文化・政治制度を知りたい
遣唐使の目的は、まずひとつに、唐の進んでいる文化や政治の制度、当時日本で栄えてきていた仏教を日本に持ち帰えるためでした。
遣唐使が日本に持ち帰ってきた唐文化は、文学や芸術、宗教など、いろいろな側面で日本に大きな影響を与えました。
また、多くの留学僧が遣唐使の使節で唐へ仏教を学びに行きました。逆に、唐の僧侶が日本へやってくることもありました。
唐招提寺を建立した鑑真も、遣唐使が日本へ帰還する際の船で日本にやってきました。
鑑真は日本で仏教を広めるために、5度も日本へ渡ろうと試みました。危険な航海のせいで盲目になってしまいましたが、無事日本へたどり着いた鑑真は、天皇から厚い信頼を得たといいます。
目的⑵遣唐使をつかって政治的な外交をするため
日本は交流があった百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされたことを受けて、百済の救済のためにも、日本は朝鮮半島へ出兵します。
そして、663年、唐と新羅の連合軍と「白村江の戦い」を行いました。しかし、日本は大敗してしまいます。
そして朝廷は、百済につづいて日本まで敵国として責められてしまわないように、遣唐使をつかって唐との国交を絶えさせないようにしました。
唐の朝廷に対して貢物を送るなど、遣唐使の派遣には政治的な意味が強い時代もありました。
③主な遣唐使
702年に派遣された遣唐使の使節には、歌人として評価が高い山上憶良がいました。
憶良は唐で儒教や仏教を学び、『貧窮問答歌』や『万葉集』で数々の歌が残されています。
717年に派遣された遣唐使の使節には、吉備真備と阿倍仲麻呂がいました。
吉備真備は唐で経書(儒教の経典)や天文学、音楽、兵学などを学び、その後の日本の政治で活躍しました。
阿倍仲麻呂は唐の国家試験・科挙に合格し、唐の王朝で高官にまで登りつめました。阿倍仲麻呂は何度も日本へ帰ることを試みましたが、危険な航路のせいで、結局日本へ帰国することは叶わず、唐にてその生涯を終えました。
894年に遣唐使に任じられたのは菅原道真でした。しかし、唐が衰退したことや危険な航路などを理由に、菅原道真の建議によって遣唐使は廃止されました。
遣唐使が廃止された年は、「白紙(894)に戻そう遣唐使」と覚えましょう。
まとめ
✔ 遣隋使が派遣されていたのは推古朝の時代で、およそ600年(推古8)〜618年(推古26年)。
✔ 遣唐使が派遣されていたのは、およそ630年から894年。
✔ 遣隋使の主な目的は日本が隋と付き合える対等な文明国だと知ってもらうためと、隋の文化を日本に取り入れるための二つがあった。
✔ 遣唐使の主な目的は唐文化や政治制度、仏教や儒教を日本に持ち帰るためと、政治的な外交をするための二つがあった。
✔ 遣隋使の小野妹子は、「日出づる……」の国書を隋の皇帝に提出した。
✔ 遣唐使の阿倍仲麻呂は、唐朝に仕えたが日本へ帰国することは叶わなかった。
✔ 菅原道真は遣唐使に任命されたが、唐の衰退などを理由に遣唐使廃止の建議を出した。