お金ってとても大切なものですよね。個人でも大切も思っているぐらいなのですから当然、国もお金を大切に扱っているものです。
そこで今回はそんな日本において商業中心の政策を行なった3人にスポットライトを当ててどのような政策を行なったのか?というのを見ていきたいと思います。
目次
重商主義とは?
重商主義とは、簡単に言えば国がお金を貯め込むために商業に対して介入していき国の財政を増やしていく政治体制のことです。
ちなみに、資本主義とよく間違われやすいのですが、資本主義とは国家が全く介入せずに民間が自由に商業をやることを指し、資本家という人が富を増やしていくという状況のことを指します。
反対語は重農主義。江戸三大改革は全てこの重農主義です。
日本で重商主義は出来ない!?
そもそも間違って考えている人が多いですが、重商主義=商業を中心とした政策というわけではありません。
重商主義というのは簡単に言えば商業に力を入れることなんですけど、そもそも重商主義の定義から話していきましょうか。
重商主義という言葉が生まれたのは大航海時代。スペインやポルトガルが香辛料やメキシコの銀を求めて世界を航海していた時期のことです。
スペインやポルトガルなどは各地を植民地に仕立て上げてそこから香辛料や銀などを本国に持ち帰ってそれで大儲けしていました。
そしてその持ち帰ったのをスペイン本国で貯め込むのがそもそもの重商主義のあり方なのです。
そこからイギリスが覇権を握るようになっていきますと重商主義は貿易の差額の利益で儲ける仕組みのことと変わっていき、さらに産業を保護する形となっていきますが、これを日本に当ててみましょう。
日本の場合は海外と貿易をすることはほとんどありません。強いていうのであれば中国とでしょうか。
そのため重商主義の大前提である銀の貯め込みなんて行為は不可能に近く、さらに江戸時代では鎖国といって貿易を一部の国と限定的にするような状態となってしまい貿易の差額の利益を得ることすらままならない状態となってしまいます。
そのため日本のこれまでの政策は重商主義とは言えないというのが現状なのです。
でも、日本には重商主義っぽいことを考えいた政治家たちが、ちらほらいました。
今回はそんな人物がやった政策とその影響について見ていきましょう。
その1 織田信長の政策【経済政策の先駆者】
(織田信長 出典:Wikipedia)
時は戦国時代。各地で血で血を洗うような戦乱が起きていましたが、1560年の桶狭間の戦いから台頭したのがかの有名な織田信長だったのです。
①楽市楽座の開始と城下町政策
織田信長はまず最初に楽市楽座を推奨していきます。
もともと室町時代では商売をするときには座という組合に入らないと商売をすることが出来ず、自由に商業活動することが出来ませんでした。
そこで信長はこの座を排除。誰でも商業ができるような場を作り商業を活性化させていきます。
また、信長は城下町にお金を落とすように商人たちは城下町に宿泊するように義務付けたりもしています。
そうすることによってさらに城下町にお金が入っていき、織田家が潤う仕組みとなっていったんですね。
②貨幣の価値を管理
信長は次に取り掛かったのがお金の価値を一定にすることでした。
今でこそどんなに汚くても一万円札の価値は一万円ですが、昔の場合だったら一万円札が汚かったら普通に7500円の価値にしかならないということはざらにありました。
そのため室町時代の経済は度々めちゃくちゃなことになってしまい、民衆たちも不便でした。
そこで信長はこの制度を取りやめて新しく撰銭令というものを発令します。
この法律は簡単に言えば『どんなに汚くても貨幣の価値は一緒にすること』ということ。つまり、貨幣の価値を全て統一して流通の仕組みをスムーズにしたのです。
その2 徳川宗春の政策 【名古屋をド派手にした男】
(徳川宗春 出典:Wikipedia)
江戸時代に入るとほとんどの政策が重農主義となってしまい、お金の政策といえばほとんどの将軍や老中がいかにして農民から年貢を取るということばかりでした。
その最たる例が徳川吉宗の享保の改革です。
しかしその政策に真っ向から反対したのがこの尾張藩主だった徳川宗春だったのです。
娯楽施設を建てて名古屋を活性化
徳川宗春は尾張藩主となった時にとあることに気づくことになります。
それは名古屋に人が全く来ないことでした。
当時、日本で一番往来のあった道路といえば東海道でしたが、名古屋はなんとその直前で船に乗って桑名へとショートカットしてしまうのです。
そのため名古屋に人が来ることはなく、なかなか城下町にも活気がない状態でした。
そこで宗春は享保の改革とは真逆のことをし始め、江戸では倹約令が出されて開くことが出来ない芝居小屋や遊郭などをバンバン建てていき、名古屋の街を賑わせ始めます。
その賑わい振りは日本中でも有名となり、とある人は「名古屋の繁栄に興(京都)が覚めた」と言われるぐらいのものとなります。
このような経済の緩和政策によって名古屋の街は大賑わいとなり、今のド派手で有名な名古屋のキッカケにもなったのでした。
その3 田沼意次の政策【幕府の改革を根底から覆した男】
(田沼意次 出典:Wikipedia)
さてさて徳川宗春が失脚し、日本では徳川吉宗が重農主義を取っていましたが、農民から年貢を取るにも限度というものがある。
さらに農作物ですので豊作もあれば凶作もあって非常に収入が不安定となってしまい、享保の改革は失敗に終わってしまいました。
そんな時に現れたのが第10代将軍徳川家治の老中として務めていた田沼意次でした。
田沼意次は当時としては凄い先端的な考えを持っており、これまでの農民から年貢をいかにして取るのかという考えを変えて商人からお金を徴収すべきという考えに至ります。
①株仲間の設置
そこで田沼意次はある秘策を思いつきました。
それこそが株仲間という代物です。
株仲間というのは簡単に言えば同業者の商人達がグループを作って価格や生産などの管理を行うことを指します。今で言うところのトラストですね。
そうする事によって商人たちは好き勝手に商品の値段を釣り上げることができ、民衆たちはそれしか商品がないためその価格で買うしか出来なくなってしまいます。
そのため商人たちは大儲け。幕府はその大儲けした株仲間から冥加金という形でお金を分捕って幕府の財政を潤していきました。
②貨幣制度の統一
田沼意次は株仲間に次いで日本の貨幣制度も改革していきます。
江戸から田沼時代までは西日本では銀、東日本では金とどちらともバラバラで、さらにその価値も金の場合だと小判の枚数で決まるところが銀の場合だと重さで決まるという決定的な違いがありました。
そのため、西日本と東日本をまたがって商売をする時は必ず両替をしなければいけなかったので経済活動がしにくい状況にありました。
そこで田沼意次は南鐐二朱銀というお金を作ります。
(明和南鐐二朱銀 出典:Wikipedia)
こうすることによって銀の場合でもお金の枚数で価値を決めるように変更。いちいち両替しなくても良くなりより流通の活性化に貢献したのです。
しかし、「お金儲けはいやらしい」という保守派の意見は変えることは出来ず、さらに、浅間山の噴火による不作や印旛沼の干拓の失敗などの失策も相まって田沼意次は失脚に追い込まれてしまいました。
そして次に現れたのがかの有名な松平定信。
(松平定信 出典:Wikipedia)
この人は寛政の改革というゴリゴリの重農主義を推し進めていき、田沼意次のやった政策はことごとく廃止されていくことになるのでした。
重商主義政策を行った人のその後
重商主義政策というのは日本の景気を刺激する最も有効な手段だったと思います。
しかし、日本では『お金を稼ぐことはいやらしい』と思われていたこともあり、上の信長以外の2人の政策は失敗に終わってしまい、2人とも失脚に追い込まれてしまいます。
しかし、この先進的な考えによって田沼時代には幕府の中で一番財政が潤っていたとも言われており、きちっと実績を残していたのでした。
まとめ
✔ 重商主義とはお金を貯めこむ主義のことを指し、日本で行われていた政策とは少し違う。
✔ 織田信長、徳川宗春、田沼意次は全員流通が活性化するような政策を実施して、さらにお金の循環がうまくいくようなシステムを確立させた。
✔ 重商主義の反対語は重農主義。
✔ 重商主義はある程度の実績は残したが、日本に古来からあった『お金儲けはいやらしい』という考えを変えることはできず、徳川宗春と田沼意次は失脚に追い込まれてしまった。