【もしも徳川家康がいなかったら】その後の日本はどうなった!?徹底予想!

 

関ヶ原の戦いを制し、江戸幕府を開いた徳川家康。

 

もしもそんな家康が存在しなかったら、歴史はどうなっていたのでしょうか?

 

今回は、もしも徳川家康がいなかったら、その後の日本はどうなったのかを徹底予想します。

 

もしも徳川家康がいなかったら、その後の日本はどうなった?

 

徳川家康が存在しなかった場合、戦国時代の勢力図が少し変わりますが、豊臣秀吉の天下統一までは、おおむね同じ歴史をたどるはずです。

 

歴史が変わるのは、秀吉の死の直前からです。

 

家康が存在しないことで、五大老の力のバランスが崩れることがないため、秀吉死後も豊臣氏は滅亡することなく、秀頼を頂点とした五大老の合議制が継続します。

 

この政権は、江戸幕府ほどの権力はもたないため、畿内を中心に支配する政権となり、全国各地の有力大名とゆるやかに連携をとる体制になったでしょう。

 

首都は大阪に置かれ、大阪と京都が日本の政治・経済・文化の絶対的な中心であり続けるため、東日本との格差は広がります。

 

現在の日本の首都も、そのまま大阪になっていたと考えられます。

 

戦国時代の勢力図の変化

①史実(=歴史上の事実)

三河国の有力者・松平氏の家に生まれた家康は、幼少のころから人質として、織田氏、次いで今川氏のもとで育ちました。

 

1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にしたのを機に家康は今川氏から独立し、織田信長と同盟を結んで、三河国を領地とする戦国大名になります。

 

 

さらに、1568年には武田信玄とともに今川領に攻め込み、遠江国を支配下に置きます。

 

その後、一時武田氏に遠江国の一部を奪われますが、1575年の長篠の戦いを境に家康は優勢に転じ、遠江国への支配を取り戻します。

 

 

そして、1582年、信長とともに武田氏を滅亡させると、信長から旧武田領の駿河国を与えられます。

 

こうして、1582年の時点で三河国・遠江国・駿河国が家康の領地となりました。

 

②筆者の予想

もし家康が実在しなかったならば、1560年の桶狭間の戦いの後も、三河国・遠江国はしばらく今川領のままでしょう。

 

その間に信長が今川領に侵攻するかもしれませんが、三河国・遠江国・駿河国という広大な領地をもつ今川氏に対して、信長が優勢に立つのは厳しいと考えられます。

 

しかし、1568年に武田信玄が今川領に攻め込む事件は、史実と同様に起こるでしょう。

 

このとき、武田信玄に協力するのは家康ではなく、信長になるはずです。

 

今川氏は東西から信玄と信長に攻められ、遠江国・駿河国は武田領、三河国は織田領になるでしょう。

 

ところが、その武田氏も、1573年の信玄の病没を止めることはできません。

 

信玄の死後は勢力を落とし、史実と同じように1575年の長篠の戦いで大敗し、武田氏は滅亡するはずです。

 

その場合、旧武田領の遠江国・駿河国は、信長の支配下に入ります。

 

豊臣秀吉の天下統一まで

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(豊臣秀吉 出典:Wikipedia)

①史実(=歴史上の事実)

信長の勢力が最も強かったころ、家康は三河国・遠江国・駿河国の大名で、信長と同盟関係にありました。

 

ところが、1582年に本能寺の変が起こり信長が死去すると、織田氏の領地だった地域が空白地帯となり、一揆や内乱が起こるようになりました。

 

 

幾度かの戦闘の末、家康が北条氏と同盟を結び、旧織田氏の領地である甲斐国・信濃国を支配することが決まります。

 

これにより、家康は甲斐国・信濃国・三河国・遠江国・駿河国の5国を領地とする有力大名になりました。

 

その後、信長の家臣の中から豊臣秀吉が台頭し始めると、家康は秀吉の家臣となり、秀吉の天下統一の事業に協力しました。

 

②筆者の予想

家康が存在しなければ、信長の全盛期には三河国・遠江国・駿河国も彼の領地になっていたはずです。

 

しかし、1582年の本能寺の変はそのことと関わりなく起こり、信長は死去します。

 

信長の死後、甲斐国や信濃国と同様に三河国・遠江国・駿河国も、領主不在の空白地帯となり、一揆や内乱が頻発するようになると考えられます。

 

問題はこの混乱状態を誰が収めるかです。

 

畿内から中国地方にかけて勢力を伸ばしていく秀吉が最初から単独で、信長の死の直後から甲斐国・信濃国・三河国・遠江国・駿河国の5国を支配下に置くとは考えにくいです。

 

当面の間、北陸を支配下に置く柴田家と、小田原に領地をもつ北条家が、この空白地帯の5国に進出するでしょう。

 

具体的には、柴田家は甲斐国と信濃国、北条家は駿河国へと勢力を伸ばします。

 

一方、三河国と遠江国は領主不在のまま一揆や内乱が大規模化し、不安定な情勢になります。

 

こうした事情により、柴田家と北条家の勢力は強力になり、かつ旧織田領の三河国と遠江国は不安定になるため、秀吉がこれら5国を平定し、天下統一を成し遂げるのは、史実よりも遅れることになります。

 

しかし、「信長の死後、秀吉が天下を統一する」という大きな歴史の流れ自体は変わりません。

 

 

五大老の合議制

(五大老の花押 出典:Wikipedia

①史実(=歴史上の事実)

1590年に小田原の北条氏を滅ぼして天下統一を成し遂げた秀吉は、159293年と159798年の2度にわたり、朝鮮へ派兵を行います。いわゆる文禄・慶長の役です。

 

 

このうち、1度目の派兵では、漢城(現・ソウル)を陥落させたり、明の援軍を破ったりして成果を上げました。

 

ところが、和平交渉が決裂して2度目に派兵した時には朝鮮軍と明の援軍に苦戦し、水軍も敗北を重ねます。

 

結局、1598年に秀吉が病没したのを機に日本側は朝鮮と停戦協定を結び、遠征軍を帰還させます。

 

こうして秀吉の海外政策は失敗に終わります。これが、秀吉の死後、豊臣政権が長続きしなかった要因の一つともなります。

 

その一方、国内の統治に関しては、秀吉は死の直前の1597年ごろ、五大老の制度を完成させます。

 

五大老とは、五奉行の上に置かれた役職で、秀吉の重臣5名の合議によって政務を行う仕組みです。

 

当初五大老には、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景(死後は上杉景勝)が任命されました。

 

五大老はそれぞれが役割分担をし、そのうち前田利家が秀吉の息子・秀頼の養育を行い、徳川家康が政務全般を担当しました。

 

ですが、利家の死後、五大老の中で家康が台頭するようになり、ついには関ヶ原の戦いで、家康の覇権が確立してしまいます。

 

②筆者の予想

たとえ家康が実在していなかったとしても、天下統一を果たした秀吉は、文禄・慶長の役を引き起こし、史実と同じ結果をたどったでしょう。

 

変化が起こるのは、国内の統治の方です。

 

史実と同じく、秀吉の晩年に五大老の制度が考案されますが、家康がいなければ、五大老の中で最も権力をもつのは、前田利家になるはずです。

 

しかし、その利家も1599年には死去してしまうため、五大老の中で突出して権力をもつ人物はいなくなります。

 

そのため、秀吉の死後も、五大老の制度は維持されることになると考えられます。

 

豊臣政権下の日本

①史実(=歴史上の事実)

前田利家の没後、家康が五大老の中で頭角を現す中、1600年に関ヶ原の戦いが起こり、家康率いる東軍と石田三成を中心とする反家康の西軍が衝突しました。

 

 

両者の対立の背景には、政治の実権を掌握しつつある家康に対する三成らの反発のほかに、豊臣家内部における秀吉の正室・北政所と側室・淀君との確執もありました。

 

関ヶ原の戦いでは、家康は北政所と手を結び、三成は淀君を味方に付けました。

 

915日に始まった戦闘では西軍に大将といえる人物が不在であったため、足並みがそろわず、家康率いる東軍に対して苦戦を強いられました。

 

そして、小早川秀秋の裏切りにより、東軍の優勢が決定的となり、関ヶ原の戦いは家康ら東軍の勝利に終わりました。

 

この戦いの後、東軍の石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は処刑され、東軍に加担したその他の大名については身分や領地を厳しく剥奪しました。

 

また、東軍側に付いていた豊臣秀頼は、摂津国・河内国・和泉国を領地とする一大名へと格下げされ、豊臣家の天下は終わりを告げました。

 

その後、家康は1603年に征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開きました。

 

そして、1614年の大坂冬の陣と、1615年の大坂夏の陣により、豊臣家を滅ぼしました。

 

 

②筆者の予想

もし家康がいなければ、五大老の制度は存続し、豊臣家の天下は続くことになります。

 

もちろん、豊臣家内部には、正室・北政所と側室・淀君の対立は依然として存在しますが、五大老が豊臣秀頼を担ぎ上げるため、両者が決定的に決裂することはないでしょう。

 

五大老は秀頼の下で、政治の実権を握り、合議制により政務を行います。

 

しかし、豊臣政権の直接的な支配が及ぶのは畿内周辺に限られます。

 

家康が実在しなければ、秀吉の死後に天下統一を維持するカリスマ的な人物が登場しないためです。

 

したがって、豊臣政権は畿内を中心に直轄地をもち、全国の大名とゆるやかな連携をとることで、日本全体を支配することになります。

 

そうした支配体制の下では、各地でたびたび内戦や一揆が起こるでしょう。

 

しかし、豊臣家の支配下にある大阪と京都が、経済的にも文化的にも、圧倒的に優位な立場にあるため、豊臣政権が転覆する事態にまでは至りません。

 

しかし、政治・経済・文化の中心地が、大阪と京都に集中してしまうため、中国地方から北陸・東海にかけては文化的な発展が見込めますが、東海以東の東日本は、発展から取り残されることになります。

 

東日本と西日本の文化水準の差は、史実よりも大きなものとなるでしょう。

 

明治維新

(大政奉還 出典:Wikipedia)

①史実(=歴史上の事実)

19世紀半ばから、日本への外国船の来航が増加します。

 

江戸幕府は当初、異国船打払令により対応していましたが、1842年にアヘン戦争で清がイギリスに敗北したのを見て同年に薪水給与令を発布し、外国船への対応を軟化させます。

 

 

ところが、1853年にペリーが来航すると状況は一変します。

 

江戸幕府は開国を強く要求するアメリカに屈して、1854年に日米和親条約を結び、開国を決断します。

 

内憂外患の機運から倒幕運動が起こる中、ついに1867年、15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返します。

 

「大政奉還」と呼ばれる出来事です。これにより、明治新政府が誕生することになります。

 

②筆者の予想

家康が実在しない場合でも、1842年のアヘン戦争は史実と同様に起こります。

 

そのため、江戸幕府ではなく、豊臣政権が存続していたとしても、ペリー来航から明治維新までの流れは大きく変わることはありません。

 

ただし、豊臣政権が存続していた場合、政治・経済・文化が畿内に一極集中しているため、豊臣政権から明治新政府への政権の移行はより円滑に行われるはずです。

 

明治新政府は大阪に置かれ、現在の日本の首都もそのまま大阪になるはずです。

 

もちろん、明治新政府が樹立するまでの間に、各地で有力大名が反乱を起こすと考えられます。

 

特に、東日本は豊臣政権の影響力が小さいため、反乱は長続きするはずです。

 

しかし、欧米各国と条約を結び、支援を受けた明治新政府は史実よりも時間がかかるにせよ、反乱分子を制圧し、日本全国を統治下に置くことになります。

 

まとめ

まとめ

 

 徳川家康がいない場合、戦国時代の勢力図が少し変わる。だが、歴史の大きな流れとしては、豊臣秀吉の天下統一までほぼ同じ。

 

 変化が現れるのは、秀吉の死の直前から。

 

 家康が存在しないことで、五大老の力のバランスが保たれる。そのため、豊臣秀頼を頂点とした五大老の合議制が存続する。

 

 この豊臣政権は、畿内を中心に支配力をもち、全国各地の有力大名とゆるやかに連携をとる。

 

 首都は大阪に置かれ、大阪と京都が日本の政治・経済・文化の絶対的な中心であり続ける。そのため、東日本との格差は大きくなる。

 

 現在の日本の首都も、そのまま大阪になっていた可能性が高い。