“飛脚”といえば佐川急便の商標にもなっており、2007年まではトラックにイラストも描いてありましたね。一度は見たことがあるのではないでしょうか?
時代劇などにもよく出てきますので大体のイメージは湧くと思いますが、ここでは実際の“飛脚”がどんなものだったのか、いろんな視点から詳しく解説していきたいと思います。
目次
江戸時代の飛脚とは?
(飛脚の着色写真 出典:Wikipedia)
江戸時代に親書や文書など書類や、金銭や貨物を運ぶ仕事に従事した人のこと、またその業者&業種までを指しています。
簡単にいえば、現在の郵便局と宅配業者、そしてその局員やドライバーのことを指しているということですね。
「飛脚」の意味
言葉としては「速く走る者」「手紙を運ぶ者」というのが元々の意味のようです。
どの時代でも、連絡や通信の手段は必要となりますので、何かしらの方法は使っていたようです。
律令制度の時代にあった「駅制(えきせい):主要道路の30里(約16㎞)毎に「駅」を置いて補給用の人や馬を配備する交通制度」や、鎌倉時代の「鎌倉飛脚(六波羅飛脚):京都と鎌倉を騎馬や人が行き来していた制度」などが知られています。
しかし、全国的な組織として…というほどではなく、各権力者の下で行われる『使い走り』のような感じが強かったようですね。
その後、江戸時代になって、五街道や宿場など交通網やその周辺が整備されることにより、「飛脚」という全国的な通信と輸送の手段として制度化していくことになったのです。
飛脚の種類
この制度化された「飛脚」ですが、当時は使用する身分によって大きく3つのタイプに分かれていました。今とは大きく異なる点となりますね。
①継飛脚(つぎびきゃく)
江戸幕府が直接運営した公用の飛脚で、幕府を中心に京都、大阪、駿府など主要都市間で公用文書などを運びました。主には老中、京都所司代、大阪城代、駿府城代など高い役職の人が使用していたようです。
徳川家康が江戸に入った時に最初に使用されたそうです。2人1組で各宿場にて人馬を交代していくリレー形式で引継ぎしていったようです。
各宿場には専用の飛脚を常駐させ、そのための費用も幕府が「継飛脚給米」として負担していた為、当然ながら特権があり、運行は勿論最優先でした。
なんと『川留(かわどめ)』として増水などが原因で河川を渡る危険性が高いとして、一般人には通行を規制される場合であっても、継飛脚には渡る許可が出ていたようです。
正直安全面ではいかがかと思いますが…それだけ優遇されていたということでしょう。
②大名飛脚
その言葉通り、大名たちが私設で使用していた飛脚です。
各大名の国元と大阪の蔵屋敷、江戸の藩邸を結ぶ役割を大きく担っていました。
有名なものには、紀州・尾張・松江藩が東海道七里(約28㎞)毎に人馬の引継ぎ小屋を建てていたという[七里飛脚]や、加賀藩が毎月3便実施した[江戸三度]がありますが、いずれもその藩の足軽や中間(ちゅうげん)といった下級武士が任命されることが多かったようです。
しかし、諸経費が各大名負担となるので非常に財政負荷がかかったようで、徐々に町飛脚に依頼されることが多くなっていったようです。
③町飛脚
一般の武士や庶民が使用した飛脚のことです。
1663年に幕府の許可を得て本格的な営業が開始されたそうですが、都市の商人など民間が運営した飛脚屋(飛脚問屋)が走らせました。
江戸・大阪・京都の三都の間を中心に発達していき、毎月3回決まった日に江戸と大阪間を行き来したため「三度飛脚」と呼ばれたり、東海道を6日で往復していたことから「定六」と呼ばれたりしていたそうです。江戸期後半には、江戸周辺のみを走る町飛脚も出てきました。これは鈴をつけていたようで「チリンチリン飛脚」とも呼ばれていました。
公用の継飛脚や大名飛脚が経費削減なのか、徐々に衰退する中で、この民営の飛脚が発展していくようになり、各地の城下町にも飛脚問屋が増えていきました。合わせて、飛脚の機能が分化することで、金銭を主に扱う「金飛脚」やお米の情報を主に伝える「米飛脚」なども生まれてきました。
ちなみに、当時の飛脚問屋の役割として、災害情報を伝えることもあったそうですが、江戸期は大地震や富士山の噴火など色々な災害に見舞われた時代でもありましたから、非常に重要な役割を合わせ持つ職業だったのでしょう。
飛脚のあれこれ
大きく3タイプに分かれた飛脚ですが、もう少し細かいところまで見ていきたいと思います。
①人がメイン
飛脚の絵や写真は人が走っているのがほとんどですね。普通に考えると人より馬を使った方が早い気がしますが何故でしょうか。
これは当時「乗馬」というものが武士の特権だったのも一因なのですが、一番にはやはりコストの問題だったようです。
馬にかかる餌代や付き添いの人件費を考えると、単純に人をリレー形式で走らせたほうが安いし、道も現在のような舗装された道ではありませんので、山野を駆けていく意味でも人の方が便利だったのでしょう。
ただし、速さ優先で馬を使用する場合も多少はあったようです。
②はやさと費用
郵便や宅配の費用で考えてもらえれば分かりやすいと思いますが、飛脚にも細かい料金設定がありました。ここでは東海道の江戸~大阪間を例としてみてみましょう。
まずは「並便」30文(約600円)、これは出発日が不定期で、10日を限度に9日くらいかけて届けるものでした。
続いて「幸便(こうびん)」という定期的に出発日が決まって運行していたものですが、これを使い並便と同じ日数で配達をすると60文(約1200円)かかり、そこから日数が減るごとに料金が上がりました。一番早い便では5日で約3万円位かかったそうです。ここまでは混載便をイメージするとよいでしょう。
そして「仕立便」といって今のチャーター便ですね。1つでもその荷物のために用意する便ですので値段は勿論高くなります。幸便の一番早い便と同じ日数なら金3両(約38万円)、最も高い便では、まる2日で届ける便が約140万円もしたそうです。
庶民には厳しい金額ですね…幕府の超緊急の時などに使ったのでしょうか。
③飛脚の生活
東海道に大体52か所くらいの宿場があったと考えられますが、そこで交代したとしても一人当たり12㎞前後走ることになります。
特急便ならマラソン選手に近いくらいの時速は必要になりますし、当時の道路事情からも「飛脚」は驚異的な脚力と体力であったと推測されますが、その食生活は一日2回の玄米の乾飯(ほしいい)と漬物程度で、意外にも質素であったそうです。
当時のお米は今よりも栄養が高かったようですので、それであの強靭な走りができたのでしょうか。
また、「飛脚」のお給料については残念ながら詳細があまり明らかになっていません。職業的に憧れるカッコよさもあるし、体力勝負でもあるのでかなり高給取りだったのでは…と思われますが、飛脚問屋に属していたり、幕府や大名のお抱え下級武士だったりした点を考えると、属したところ次第、今でいえば会社次第だったかもしれませんね。
そして飛脚の走り方として有名な「ナンバ走り」ですが、これは右手右足を一緒に出す走り方のことですね。
あの速さはこの走りのおかげであるように言われていますが、明確な裏付けがないのが現実です。証拠として出てくる写真も、写真用のポーズにすぎないという意見もあり、風刺画など走っている姿とされるものでは、通常の走り方に描かれているのもあります。
飛脚のその後
飛脚はその後明治になり『郵便制度』の確立とともに廃止となります。
飛脚として働いていた人々は郵便局員や人力車の車夫などになったそうです。
また飛脚問屋などは再組織されて、小荷物などの輸送に従事していきますが、その中には政府の手厚い保護を受けた陸運元会社から始まった日本通運もあります。
まとめ
・江戸時代の飛脚とは書類や荷物を運んだ仕事に従事した人や業者のこと。
・使用する身分で公用の「継飛脚」「大名飛脚」と民営の「町飛脚」があった。
・お届け日数や便の数により「並便」「幸便」「仕立便」に分かれていた。
・費用面の負担が大きく、公用の飛脚は後に衰退し、民営の飛脚が発達した。
・明治政府による郵便制度の確立で飛脚は廃止となった。
・飛脚として働いていた人は後に郵便局員や車夫に、その業者は運送会社になっていった。