かつてソビエト社会主義連邦共和国という国がありました。
アメリカと世界を二分し、社会主義国のリーダーとして覇権を争った大国です。
この国がどのように崩壊していったのか、今回は『ソ連崩壊』の原因や経過について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
ソ連崩壊とは?
ソ連崩壊とは、1991年(平成3年)12月、最初で最後のソ連大統領であるゴルバチョフが辞任したことにより、ソ連が解体された出来事です。
第二次世界大戦後、東西冷戦の東側のリーダーとして君臨したソビエト連邦は建国から69年という短い期間で地球上から消えてしまいました。
これは同時にイデオロギーとしての社会主義の敗北でもありました。
これまでソビエト連邦に所属していた国の大半はCIS(独立国家共同体)というこれまでより緩やかな国家連合体に参加します。
現在のロシア共和国も成立し、民主的な共和制国家に生まれ変わりました。
冷戦はすでに終結していましたが、一方のリーダーであるソ連がなくなったことにより、アメリカの冷戦での勝利が確定し世界の覇権国となります。
ソ連崩壊までの流れ【崩壊の背景や原因】
①ブレジネフ時代の停滞
ソ連が崩壊する原因は崩壊の30年前までさかのぼります。
1964年フルシチョフが失脚し、新たなソ連の指導者としてブレジネフが就任します。
(レオニード・イリイチ・ブレジネフ 出典:Wikipedia)
ブレジネフ時代は外交的には中国との関係が悪化し、敵の敵は味方ということで中華人民共和国の西側への接近が起こった時期です。
その結果、中国はアメリカや日本と国交を正常化。また、ソ連は1968年にチェコスロバキアで起きた民主化運動「プラハの春」に軍事介入します。
これは社会主義国全体の利益のためには、一国家の主権は制限されるという制限主権論(ブレジネフ=ドクトリン)考えに基づいています。
民主化は社会主義を維持するためにはあってはならないものだったのです。軍事介入に世界から批判を浴びたブレジネフ政権は西側諸国との協調路線を余儀なくされました。
しかし、その路線も長くは続きませんでした。
1979年12月、アフガニスタンの共産政権がアメリカに接近しようとしたことに危機感を持ったソ連はアフガニスタンに侵攻します。
(アフガニスタンに侵攻するソ連軍 出典:Wikipedia)
これもまた世界から非難され、翌年のモスクワオリンピックに西側諸国を中心にボイコットが続出しました。
泥沼化したアフガニスタン侵攻はブレジネフ死後の1989年まで続きます。度重なる軍事侵攻は経済的にソ連を苦しめました。
内政面ではブレジネフ時代は停滞の時代でもありました。
社会主義の負の側面が出始めたのがブレジネフ時代。経済成長率が鈍化してきていたにも関わらず、有効な政策が出させることもなく、特権階級化した官僚たちによる腐敗も進みました。
働いた結果に関わらず給料が同じであれば、労働意欲もわきません。食料や燃料、生活必需品も不足しがちになり、小麦はアメリカからの輸入に頼らざるを得なくなってきます。
西側諸国で見られた技術革新も進まなかったことがその後のソ連にとっては痛手でした。西側諸国との経済格差はどんどん広がっていきます。
②指導者の相次ぐ死
1982年ブレジネフは死去します。
あとをついだアンドロポフは改革に着手しますが、高齢で持病があり指導者になってから1年と少しで死去してしまいます。
さらに次のチェルネンコも1年ほどで死去。3年の間に3人の指導者が交代したのです。
これでは必要な改革が進むはずはありませんでした。
ブレジネフ時代を含めて長年にわたる長老政治は、ソ連の抱えていた経済問題やアフガニスタン問題を筆頭とした外交問題を解決することができず、時間だけが過ぎていっていました。
そのため、次の指導者には若い人物が選ばれることになったのです。
こうして1985年ソ連の指導者になったのがゴルバチョフでした。
(ゴルバチョフ 出典:Wikipedia)
③ペレストロイカとグラスノスチ
ゴルバチョフがソ連の指導者に就任にしたのは54歳のときでした。
外交問題ではアメリカのレーガン大統領と会談し、核兵器を維持費を抑えるため、核軍縮への道筋を決めます。
(米大統領選レーガンとINF全廃条約に署名するゴルバチョフ 出典:Wikipedia)
また、彼はロシア語で「再建」や「建て直し」を意味するペレストロイカをスローガンに改革を進めていきます。
そんな中1986年4月、チェルノブイリ原子力発電所の事故が起こります。
役人による事なかれ主義が浸透していたソ連では正しい報告が中央にもなされず、ゴルバチョフが事故の全容を知ることになるのは時間が経ってからでした。
このため、初期の対策が遅れ被害が大きくなります。
このことに危機感を持ったゴルバチョフはグラスノスチ(情報公開)という政策を始めました。
体制の硬直化による社会問題を解決するため、言論や報道などの自由化や民主化が図られたのでした。
共産党にとって都合が悪いためこれまで禁止されていた映画やタブーとされていたことも公表されるようになります。
こうして情報が公開されていく中でソ連の民主化が進む一方、共産党幹部が一般国民とはかけ離れた暮らしをしていることも明るみになります。
国民は共産党に不信と不満を持ち始めるのです。これもソ連崩壊の一因となります。
④新思考外交と東欧革命
外交面でゴルバチョフが打ち出したのは新思考という理念でした。
これに基づいて行われたゴルバチョフの外交を新思考外交といいます。1988年にはアフガニスタンからの撤退を開始しました。
また、ブレジネフドクトリンの撤回をゴルバチョフは表明します。
これは東欧各国が民主化をしてもソ連は黙認するというメッセージでした。
ソ連はソ連製の石油を安く提供することで東欧諸国を支えていたのですが、そのためには差額をソ連が経済的に負担していました。もはやソ連にはそれを続けるだけの経済力がなかったのです。
1989年ポーランドとハンガリーに始まり東西ドイツベルリンの壁の崩壊、チェコスロバキアのビロード革命、ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊と東欧の社会主義国で立て続けに革命が起こり、翌年にかけて民主化が達成されました。
同じ年、中国との関係も改善するためゴルバチョフは中国を訪問します。
これを受けて中国でも民主化運動、いわゆる天安門事件が発生しますが、当局が軍事力で鎮圧し、中国の民主化は失敗しました。
社会主義国が相次いで民主化したことによりマルタ島でアメリカ大統領ブッシュとゴルバチョフは会談し、冷戦の終結を宣言しました。
ゴルバチョフによるソ連の政策の変化はこのように各社会主義国に動揺を見せました。
そしてついにその大元であるソ連にもこの波が押し寄せるのです。
ソ連崩壊へ
(1991年 保守派によるクーデターの様子 出典:Wikipedia)
①保守派のクーデター
1991年8月夏季休暇中でゴルバチョフが不在の中、ゴルバチョフが準備していた新連邦条約をつぶすため、保守派によるクーデターが発生します。
この条約ではソ連を中央集権的な国家からより緩やかな国家連合体へ変革させようとしていました。
このままではソ連がなくなってしまうと保守派の人たちは危機感を持ったのです。
ゴルバチョフは軟禁されますが、モスクワではクーデターに反対する人たちが抵抗します。
その中心にいたのはロシア共和国大統領のエリツィンでした。
(ボリス・エリツィン 出典:Wikipedia)
ソ連は連邦制国家なのでその中にいくつかの国が含まれおり、ロシア共和国もそのうちの一つで、エリツィンはその大統領でした。
保守派には国民の支持もなかったのでクーデターそのものは失敗します。
しかもこのクーデターを実行したのがゴルバチョフの側近たちの共産党員だったので、ゴルバチョフも共産党も求心力を失っていきました。
一方、国民の支持を集めたのはエリツィン。この事件がきっかけとなり新連邦条約は挫折し、ソ連共産党まで解体されてしまいました。
②ソ連崩壊
こうなるといろいろな国がソ連から脱退していきます。
ゴルバチョフはなおもソ連の維持に奔走しますが、12月に入るとソ連邦内第2位の工業力を誇るウクライナの国民投票で独立支持派が多数という結果がでます。
これを受け、ロシア共和国大統領のエリツィンはウクライナの独立を承認しました。ソ連解体はもはや避けられなくなってしまったのです。
新たにロシア、ウクライナ、ベラルーシで作られたCIS(独立国家共同体)に参加する国が増えていくのを見て、ゴルバチョフもついにソ連政府の活動停止を宣言。
ソ連は解体されることになりました。
ソ連崩壊のその後
その後、ソ連を継いだ国家とされたのはロシア連邦です。
この国の初代大統領にはエリツィンが就任。市場経済の導入など改革を行いますが、まだまだ混乱期は続きます。
政権の晩年には経済危機もおきました。
しかし、あとを継いだプーチンによってロシア経済は復活し、高い経済成長率を見せるようになっています。
強いロシアが復活し、BRICSという成長著しい国の一つに数えられるようになりました。
まとめ
✔ ソ連崩壊とは1991年に社会主義国のソビエト連邦が消滅した出来事。
✔ ソ連の崩壊はブレジネフが統治した時代に経済が停滞したことが原因。
✔ 経済の建て直しのため改革が必要なソ連の若い指導者としてゴルバチョフが登場する。
✔ 「ペレストロイカ」「グラスノスチ」などゴルバチョフは改革を進めるがそれはソ連の民主化につながるものになってしまった。
✔ ソ連共産党保守派のクーデター失敗により、ソ連共産党とゴルバチョフに対して国民の気持ちが離れていった。
✔ ソ連崩壊後もエリツィン時代にロシアは経済危機を迎えるが、プーチンにより高い経済成長を達成した。