江戸幕府は1858年に大政奉還によって消滅してしまいます。
江戸幕府が滅んだ原因は沢山ありますがその中でも特に江戸幕府の崩壊を決定づけた戦争がありました。
今回は、その戦争である『第二次長州征討(または第二次長州征伐)』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
第二次長州征討とは
(1866年 幕府陸軍 出典:Wikipedia)
第二次長州征討とは、1866年(慶応2年)に江戸幕府と長州藩が戦った戦争のことです。
この戦によって長州藩が勝利したことにより幕府の威信が地に堕ちました。江戸幕府の終了です。
(※第二次長州征伐とも呼びます。)
第一次長州征討
今回の戦争の主役である長州藩は禁門の変(蛤御門の変)によって天皇から朝敵とされて、幕府から大軍で攻め込み長州藩を屈服させられてしまいました。
これが第一次長州征討です。
この第一次長州征討と、同じ時に起きた四国艦隊下関砲撃事件によって、長州藩はこれまでの主流派であった尊王攘夷(天皇を尊敬して夷人(つまり外国人)をぶっ潰そう!とする考え方)から幕府にペコペコする方針に変えてしまいました。
高杉晋作の活躍
(中央:高杉晋作 右:伊藤博文 出典:Wikipedia)
しかし!そんな幕府にペコペコする状況を変えたい人がいました。その人こそ高杉晋作です。
高杉晋作は幕府にペコペコする長州藩の家老を倒すため、伊藤博文と共に功山寺というところで挙兵しました。
そして高杉晋作は幕府にペコペコする家老を追放して藩の実権を握ることに成功しました。
長州藩運命の戦い 幕府15万人vs長州藩7000人
(幕府軍の行進の様子)
もちろん長州藩がまた尊王攘夷派が主流になったことは江戸幕府にも伝わります。
その当時の将軍であった徳川家茂は長州藩に10万石相当の土地を幕府への献上を命令しますが、当然長州藩は無視。
そして、それにキレた幕府はもう一度長州藩に攻めました。これが第二次長州征討の始まりです。
幕府の軍勢は総勢15万人。それに対して長州藩の軍勢は集めてもたったの7千人しかいませんでした。
普通ならいわゆる『詰みゲー』といわれるほど長州藩にとっては圧倒的に不利でしたが、長州藩は諦めず徹底抗戦を決め込みました。
こうして戦いの幕が切って落とされたのです。
四境戦争
第二次長州征討において幕府は関門海峡近くの小倉口、瀬戸内海にある大島口、広島に接している芸州口、島根に接している石州口から攻め込みました。
4つの場所から攻め込みましたので、第二次長州征討は別名で四境戦争と呼ばれています。
ではそれぞれの戦いを説明していきましょう。
①小倉口での戦い
(長州藩の奇兵隊 出典:Wikipedia)
まずは小倉口の戦いです。
小倉口で戦ったのは熊本藩細川家率いる九州の諸大名と高杉晋作と山縣有朋率いる奇兵隊です。
奇兵隊という新しいワードが出てきましたが、奇兵隊は農民や商人などさまざまなところからかき集めてきた軍隊です。この中には力士隊という力士だけで構成されていた部隊もありました。
この戦いでは九州の諸大名の中で揉め事があり、また九州の有力大名である島津家が不参加だったこともあってグダグタでなんにもできない状態でした。
しかし、一方で奇兵隊は高杉晋作によって一致団結して作られた強力な部隊でした。
もちろん仲が悪いところと一致団結しているところの力の差は歴然でした。
幕府軍はあっさり負けてしまい、幕府の重要な拠点であった小倉城までも奪わちゃいました。
②石州口の戦い
石州口では今では靖国神社に銅像が立っている大村益次郎と山陰の諸大名が戦っていました。
しかし、幕府軍はまったく歯が立ちません。
実は幕府軍が使っている鉄砲と長州藩が使っている鉄砲では性能の差が歴然だったのです。
大村益次郎はここに目をつけ、幕府の鉄砲の弾は飛んでこないけれど長州藩の鉄砲ならギリ届くラインから幕府軍にボコスカと鉄砲を撃ち込みました。
大村益次郎の軍勢は島根県にある石見銀山を奪い取り大勝利を収めます。
③大島口の戦い
瀬戸内海にある大島は幕府軍の奇襲を受け、幕府軍に奪い取られてしまいました。
そこで高杉晋作は当時持っていた丙寅丸という軍艦を使って夜襲をしかけました。
もちろんぐっすり寝ていた幕府軍は大混乱です。
こうして大島口では高杉晋作の鮮やかな夜襲によって長州藩の大勝利に終わりました。
④芸州口の戦い
芸州口では広島藩などの山陽の諸大名が担当していましたが、ここの軍勢もグダグタでした。さらに広島藩が軍を出さなかったためまったく戦いになりませんでした。
結局長州藩に押し込まれる形になってしまいました。
第二次長州征討のおわり
(徳川家茂 出典:Wikipedia)
第二次長州征討で幕府軍がこれでもかというほどボコられていた時にさらに幕府軍にとって悲報なニュースが飛び込んでしまいます。
なんと将軍であった徳川家茂が脚気(かっけ:ビタミン欠乏症のこと)によって大坂城でこの世を去ってしまったのです。
将軍がいなくなった幕府軍は大混乱。急いで長州藩と講和(終戦)をします。
第二次長州征討の結末は講和というものでしたが、どう見たって中身は幕府軍のボロ負けでした。
こうして幕府軍の散々な結果によって第二次長州征討は終わりました。
幕府軍の敗因
(西洋軍服を身にまとった幕府軍 出典:Wikipedia)
幕府軍が負けた理由は3つありました。
敗因
✔ 幕府軍の武器はオンボロだった
✔ そもそも幕府軍はやる気がなかった
✔ 戦いの途中で将軍が亡くなってしまった
さらに長州藩はこの時薩長同盟によって莫大な最新式の武器を取り寄せており幕府軍よりもいい武器で戦うことができました。
また、長州藩は奇兵隊などの軍隊の団結力がとてつもなく強かったという理由がありました。
第二次長州征討の影響
第二次長州征討で15万の兵を動員しながら長州藩にボロ負けしてしまったことによって、江戸幕府が積み上げてきた威信をすべて失ってしまいました。
諸大名はどんどん江戸幕府を信用しなくなっていき、逆に勝利した長州藩はどんどん力を増していきます。
これによって倒幕運動が加速していき、明治維新に繋がるのです。
まとめ
・長州藩は一時は幕府にペコペコしていたが、高杉晋作によってまた尊王攘夷派になった。
・幕府は長州藩にキレて15万の大群で長州藩を攻めた。
・しかし、幕府軍の武器はオンボロで、さらに長州藩の武器は最新鋭だったため幕府軍はまったく歯が立たなかった。
・第二次長州征討によって幕府の威信は地に堕ちて倒幕運動が加速していった。