【足尾銅山鉱毒事件とは】簡単にわかりやすく解説!!原因や影響・対策・現在について

 

「足尾銅山鉱毒事件」といえば、まったく知らないな~という人は少ないと思います。

 

資料集などでお爺さんが馬車に駆け寄る姿の風刺画などみたことはないでしょうか?

 

実はこの事件は現在にも続く長い事件であり、日本の産業発展に伴う問題点を今の私達にも伝えるものでもあるのです。

 

今回はこの『足尾銅山鉱毒事件』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

足尾銅山鉱毒事件とは?

(1895年の足尾銅山 出典:Wikipedia)

 

 

足尾銅山鉱毒事件とは、1890年(明治時代初期)頃から発生した現栃木県日光市にあった「足尾銅山」で起こった公害事件のことです。

 

当時銅の採掘を行っていた「足尾銅山」からの有害な廃棄物の影響で周辺の環境や人に大きな被害をもたらしました。

 

また、栃木県の衆議院議員だった田中正造が明治天皇への直訴を行うなど、生涯をかけてこの問題に取り組んだことでも有名です。

 

 

(田中正造 出典:Wikipedia) 

 

足尾銅山鉱毒事件発生までの流れ

①日本の鉱山

日本では古くから各地で金属の採掘は行われていました。

 

佐渡金山石見銀山など金銀も有名ですし、古代日本における最初の銅鉱床の発見が奈良期当時に『和同開珎』の発行を可能にしたことは知られていますね。

 

“資源のない国”のはずの日本が、かつては世界でも有数の鉱物資源を有しており、主要な輸出品だったということは不思議な感じがします。

 

富国強兵と殖産興業

日本の銅山は江戸時代後期には生産量が減少していたのですが、近代になると海外からの新技術を取り入れた再開発をすることで、再び生産量を増加させていきました。

 

明治維新以降、富国強兵殖産興業に力を入れる日本にとっての貴重な資金源となっていたのです。

 

 

足尾銅山

日本で1600年代から銅生産を行っていた有名な銅山として、愛媛県の「別子銅山」栃木県の「足尾銅山」茨城県の「日立鉱山」があります。

 

これらは三大銅山と呼ばれるもので、江戸期は幕府の管轄にあり、国内の2/3を占めたというその生産量は当時の世界的に見てもかなりの量だったそうです。

 

その中で「足尾銅山」は1877古河市兵衛が買収し民営化した後、生産量を急増させ明治中期には国内生産量の40%以上を占める銅山となっていたのでした。

 

 

(古河市兵衛 出典:Wikipedia)

 

鉱物の製錬・精錬と公害の発生

鉱物は「製錬:せいれん」といって採掘された鉱石から不要なものを取り除き、金属を抽出し、「精製:せいせい」で混じり物を取り除き「地金:じがね」という加工しやすい金属塊にする…という過程を経て金属へとなっていきます。

 

これらの過程で環境や人に有害な物質が発生してしまうのですが、銅山では精錬時の排煙度の硫酸銅などが知られています。

 

銅山の生産量増加はそれに伴う有害物質の排出と、これらの物質を起因とする鉱害の発生を招きました。

 

鉱害とは、鉱業(鉱物資源の採掘活動)が原因で発生する公害のことです。

 

さらに言えば「公害」とは人の社会的、経済的な事業活動によって発生する環境を破壊するような災害のことを指しています。

 

足尾銅山鉱毒事件の影響

 

 

足尾銅山では排煙が周囲の山々の木々を枯らし、貯水能力を失った山が原因で洪水が起こりやすくなります。

 

また、有害な排水は近くを流れる渡良瀬川を汚染し、川の水を引き入れた土地の稲は枯れ、川の生き物が大量死することになりました。

 

さらに度々起こる洪水により、下流の利根川流域までの広い範囲に農業や漁業への被害が拡大していったのです。

 

そして河川や土壌の汚染は人にも影響をもたらし、周囲の村々では下痢・嘔吐や肝機能障害、腎臓障害などを訴える人も多く出現。

 

原因は硫酸や鉱毒からのカドミウム中毒と言われていますが、おおよそ1060人近くの死者・死産が出たと記録に残っています。

 

足尾銅山鉱毒事件への動き

銅山と政府の癒着

多くの環境&健康被害の原因が足尾銅山にあることは予測できたものの、確定できる科学的根拠もなく、また当時の政府は資金源としての銅産業を保護育成していたため、これらの問題への対応は望めませんでした。

 

さらに銅山所有者である古河市兵衛は当時の農商務大臣陸奥宗光の次男を養子としており、政界と密接な関係がありました。

 

 

(陸奥宗光 出典:Wikipedia)

 

 

どこかのドラマに出てきそうな話ですが、事実なのです。

 

鉱毒反対運動

1891年栃木県の衆議院議員田中正造が国会において、鉱業の停止と陸奥宗光への責任追及の質問を行います。

 

 

 

(田中正造 出典:Wikipedia)

 

 

田中は事前に大学などの研究機関に依頼して科学的根拠も用意していったそうです。

 

しかし、政府は1892年に被害を訴える農民たちに対して安い示談金を渡すことで永久示談へ持ち込もうとします。

 

ところが、1896年の大洪水でさらに被害は拡大。それに伴い反対運動も広がり、農民たち「押出し」と呼ばれた今でいうデモを行い、被害の状況を政府に訴えていきます。

 

川俣事件

広がりを見せる反対運動に対して、時の農商務大臣榎本武揚は調査委員会を設置します。

 

 

(榎本武揚 出典:Wikipedia)

 

 

しかし、古河工業にも鉱毒の流出防止の工事を命じたものの、まったく被害はおさまりませんでした。

 

この状況において、1900年東京への「押出し」を行った際に群馬県の川俣辺りで警官隊などに農民たちが弾圧を受けるという「川俣事件」が発生します。

 

天皇直訴と世論

一向に進まない対策に対して、政府を見限った田中は、1901年衆議院議員を辞職し、明治天皇への直訴を試みました。

 

しかし、残念ながら警備の警察に取り押さえられ、直訴は失敗しますが、この行動は国内で大きな話題となります。

 

当時天皇への直訴など死罪は免れない大罪でした。

 

その罪を犯してまでも被害に苦しむ人々を救おうとする田中の姿は大きく世論を動かします。いつの世も悪に立ち向かう正義には皆心惹かれるものなのです。

 

そして足尾銅山鉱害問題への政府の取り組みに対する批判が強まっていきました。

 

国の対応

世論の高まりとともに、鉱毒反対運動の全国的展開を危険視しながらも、やはり政府からの誠意ある対応は見られませんでした。

 

1903年には近隣の松木村などが煙害で人が住めなくなり廃村となります。

 

その上、1904年には鉱毒問題を洪水対策のための治水問題にすりかえ、さらに日露戦争の需要をたてに足尾銅山の生産を拡大させます。

 

そして当時反対運動の中心であった谷中(やなか)村を遊水地化することを理由に強制的に廃村させました。

 

反対運動をつぶそうとする政府の思惑がみえますね…

 

田中正造の残したもの

反対運動の中心であった田中正造は、最後まで人々の為に尽力を注ぎました。

 

1913年鉱毒被害地を巡視している途中に倒れ、亡くなりましたが、その時彼は残った財産をすでに村に寄付して無一文の上、手元にも聖書や日記などしかなかったとのことです。

 

本当に心血を運動に注いだことが分かりますね。

 

彼は公害問題の神様とされ、その足跡は現在、栃木県佐野市にある郷土博物館で見ることができるそうです。

 

足尾銅山鉱毒事件のその後と現在

(足尾製錬所跡 出典:Wikipedia

足尾銅山鉱毒事件への対策

教科書等では谷中村の遊水地化により洪水被害は抑えられ、煙害も技術確立で解決しました…とありますが、実際はその後も鉱毒による被害は続きました。

 

谷中村を犠牲にして一応解決したとする政府でしたが、その後も昭和33年には実際に堆積した有害物が流出したために群馬県を中心に大規模な鉱毒被害が発生しました。

 

さらに周囲の禿山へは今なお費用をかけて植林が続けられているそうです。

 

古河鉱業への加害者責任が認められたのは何と1972年。これは田中正造が国会で訴えてから80年以上が経過してからになります。

 

また、足尾銅山は1973年に閉山しましたが、その精錬所は1980年代まで稼働し続けたため、2011年の東日本大震災の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されたそうです。

 

明治に発生した鉱害は何と大正⇒昭和⇒平成と繋がり、そして令和となった現在までその傷跡を大きく残しているのです。

 

4大公害病とその対策

戦後の高度経済成長期には四大公害病と呼ばれる公害が発生します。

 

 

ここで詳細は割愛しますが、水俣病(熊本)第二水俣病(新潟県)四日市ぜんそく(三重県)イタイイタイ病(富山県)ですね。

 

これらの問題を受け、1967年公害対策基本法が発布施行されました。

 

その後1993年環境基本法に統合されますが、この法律により大気汚染・土壌汚染・水質汚濁・騒音・振動・地盤沈下・悪臭の7つを公害としました。

 

これらを防止することは極めて重要なことである!として事業者や地方公共団体そして国に対しての責任を明らかにするようにしたのです。

 

産業の発展と公害病

足尾銅山鉱毒事件は公害の原点と言われています。

 

先の三大銅山のいずれも足尾同様の鉱害により人々が苦しめられましたが、足尾銅山の例を鑑みて、政府も会社もある程度は前向きな対策に取り組んだようです。

 

そして戦後の四大公害病に対しては発生から早々に法律の整備が行われたとも言えるかもしれません。

 

産業の発展時にはそれに伴い何かしらの公害病が発生しています。

 

また近年今までになかったような公害(薬害問題・放射能問題など)も出てきています。

 

これらの被害に対して、関心を持ち迅速で正しい対応がとられるよう働きかけをしていくことは、後世の私たちの責務かもしれません。

 

まとめ

 足尾銅山鉱毒事件は、1890年代に発生した明治期最大の公害事件のこと。

 鉱毒反対運動の中心となったのは衆議院議員だった田中正造。

 反対運動として「押出し」などの方法で政府へ陳情を行った。

 政府の対応の悪さから、田中正造は天皇直訴を試みるが失敗に終わるが、世論が反対運動を後押しした。

 鉱毒問題を治水問題にすりかえられ、谷中村は遊水地として廃村にされてしまった。

 事件の加害者として古河鉱業が断定されたのは、事件が社会問題になってから約80年後のことだった。

 足尾銅山鉱毒事件は公害問題の原点とされ、戦後の四大公害病では迅速に法整備が行われている。

 1993年環境基本法の施行により現在の公害には対策がとられている。