【アイグン条約とは】わかりやすく解説!!内容や背景・その後の影響など

 

隣り合う大国は仲が悪い。

 

その言葉が示すように、ロシアと中国は何度も国境をめぐって争ってきました。

 

アイグン条約は、ロシアと清国(中国)との間で結ばれた国境を決める条約です。

 

今回はこの『アイグン条約』の背景や内容、その後についてわかりやすく解説していきます。

 

アイグン条約とは?

(アイグン条約・北京条約によって定められた国境 出典:Wikipedia

 

 

アイグン条約とは、1858年(安政5年)ロシアと清国の間で結ばれた条約のことです。

 

清国が太平天国の乱やアロー戦争で苦しんでいることに乗じて結ばれた国境を定める条約でした。

 

この条約により、アムール川(黒竜江)付近の国境や沿海州について取り決められました。

 

アイグン条約の背景

①ロシアの南下政策の行きづまり

19世紀は、海軍の力が重要な時代でした。

 

海軍を常に動かすためには一年中凍らない港が必要です。これを、不凍港といいます。

 

ロシアは不凍港を求めてバルカン半島やトルコ方面で戦争を繰り返しました。クリミア戦争や露土戦争です。

 

ロシアに南下されてスエズ運河の防衛やイギリスとインドの航路を分断されたくないと考えたフランスやイギリスの反対により、南下政策は失敗しました。

 

そこで、ロシアは何かの矛先を弱体化していた清国に向け始めました。

 

②ロシアの東方進出

ロシアと清国の国境は、ネルチンスク条約(1689年)やキャフタ条約(1727年)によって決められていました。

 

この当時は康熙帝や雍正帝などの時代で清国が強かったので、ロシアの要求が一方的に通ることはありませんでした。

 

しかし19世紀に入ると、ムラヴィヨフが東シベリア総督となります。

 

彼は清国によるアムール川の下流域の管理が行き届いていないことに目を付けます。

 

そして、ムラヴィヨフはアムール川を何度も探検するなどして、清国と交渉するチャンスをうかがいました。

 

③弱体化する清国

最盛期の乾隆帝から2代後の道光帝の時代、清国はイギリスとアヘン戦争(1840~42年)を戦いました。

 

 

そして清国はイギリスに大敗し、多額の賠償金を支払う南京条約を結ばされました。

 

 

次の咸豊帝の即位の翌年、1851年には太平天国の乱が発生します。

 

 

清国を倒して漢民族の国を作るという洪秀全の主張は民衆の支持を得られ、反乱はどんどん拡大し南京まで占領されてしまいました。

 

さらに、1856年、イギリス・フランスの連合軍が清国とアロー戦争を始めます。

 

 

イギリスの対清国貿易は思ったよりうまくいっていませんでした。

 

なので、もう一度戦争を起こし自国に有利な条約を結ぼうとたくらんだのです。

 

清国の目は嫌でも南に引き付けられ、ムラヴィヨフが狙っていたチャンスが訪れました。

 

アイグン条約の調印・内容

 

 

混乱が続く清国に対して、ムラヴィヨフは強気の交渉に打って出ます。

 

もし交渉がうまくいかなかった場合、アムール川にいるロシア艦隊が周辺の清国人に対して砲撃すると脅かします。

 

そして清国の責任者「奕山」はこの脅しに屈し、アイグン条約に調印しました。

 

結ばれた条約の内容は主に以下の通りです。

 

アイグン条約の内容

① アムール川(黒竜江)以北はロシア領土とする。

② ウスリー川より東の地(沿海州)は、ロシアと清国の共同管理とする

 

ネルチンスク条約の国境線と比べ、大幅にロシア領が拡大するなど、アイグン条約は圧倒的にロシア有利の不平等条約でした。

 

アイグン条約の影響

①続く清国の混乱

一時はまとまりかけたアロー戦争の講和条約(天津条約)が、反対派による武力阻止によって失敗に終わり、戦争が継続されました。

 

イギリス・フランス連合軍は北京を占領し、皇帝の離宮である円明園を略奪・放火しました。

 

そして時の皇帝である咸豊帝は北京を脱出します。

 

 

②北京条約の締結

1860年、混乱する清国情勢にロシアが介入します。

 

すると清国とイギリス・フランスの講和を仲介し、その結果北京条約の締結にこぎつけます。

 

そしてロシアは「仲介手数料」として、清国から沿海州を獲得しました。

 

こうして、ロシアはまたしても領土拡大に成功しました。

 

 

③太平天国の乱の鎮圧 と洋務運動

外国との戦争を終わらせた清国は、本格的に太平天国の乱の鎮圧に乗り出します。

 

曾国藩や李鴻章といった漢人官僚らの郷勇の力や欧米列強の義勇軍である常勝軍の力を借りて、なんとか、鎮圧に成功しました。

 

しかし、北京条約で多額の賠償金と領土を失ったことから、西洋技術を導入して国の近代化を進める洋務運動が始まります。

 

この改革は一時的ながら成功し、清国はつかの間の安定期に入ります。

 

当時の皇帝の名前をとって同治中興ともよばれます。

 

④ロシアの極東開発

アイグン条約・北京条約で得た領土をロシアは積極的に開発し、アムール川流域にハバロフスク、沿海州にウラジオストクを建設しました。

 

これにより、ロシア念願の不凍港の確保ができました。

 

19世紀の末にはシベリア鉄道を建設。ハバロフスクやウラジオストクを鉄道で結ぶことでますます開発を加速させていきました。

 

⑤東アジアで加速するロシアの南下

北京条約で海への出口を手に入れたロシアは、ますます露骨な南下を進めます。

 

すると1900年の義和団事件に乗じて、ロシア軍は東北地方(満州)に大軍を送り込みました。

 

また、日本が防衛線と考えていた朝鮮半島にもロシアは進出します。

 

後に日本は、三国干渉や日露戦争などでロシアと激しく対立することになります。

 

 

この当時の日本

 

 

1858年は日米修好通商条約が結ばれた年です。

 

 

中国でおきていたアロー戦争を巧みに利用したハリスが、江戸幕府との間で条約を結ぶことに成功していました。

 

江戸幕府の大老や老中たちはオランダ風説書などにより、外国の情報をある程度知っていましたのでハリスの話がまんざら嘘ではないということに気づいていました。

 

 

こうした危機感は幕府だけではなく、雄藩と呼ばれる有力藩や学者たちに広まっていきます。

 

最近の日本史の問題は、日本だけではなく世界とのつながりも出題されますので、互いにリンクさせるようにして得点アップを図りましょう。

 

アイグン条約の年代は日米和親条約と同じと覚えておくとよいでしょう。

 

まとめ

 アイグン条約はロシアと清国の間で結ばれた国境を定める条約のこと。

 かつて結ばれたネルチンスク条約と比べ、ロシアの領土が大きく拡大。

 アイグン条約では沿海州はロシアと清国の共同管理地とされた。

 清国は太平天国の乱やアロー戦争で大混乱だった。

 ロシアの仲介で清国はアロー戦争を終わらせたが、仲介料として沿海州をロシアに譲った。

 敗れた清国は洋務運動と呼ばれる西洋技術導入の改革を実施。

 ロシアはウラジオストクを獲得して極東での南下の拠点にした。