【長良川の戦いとは】簡単にわかりやすく解説!!戦いの背景や内容・その後など

 

時は、戦国の世誰もが天下統一を夢見て激しい戦いを繰り広げられていたこの時代は、親子兄弟と言えど時として敵となる世の中でした。

 

事実この戦国の世で繰り広げられた長良川(ながらがわ)の戦いは、斎藤道三、義龍親子による激しい親子による対立から発生した物です。

 

今回は、そんな『長良川の戦い』について、簡単に分かりやすく解説してみます。

 

長良川の戦いとは?

鵜飼大橋 2.jpg

(長良川 出典:Wikipedia

 

長良川の戦いとは、1556年4月に美濃長良川付近で起きた合戦です。

 

詳しい出自は不明ながら、豊臣秀吉同様低い身分から成り上がり美濃の国主となった斎藤道三とその息子義龍親子による壮絶な喧嘩です!

 

結果的には、息子義龍の勝利となり、父道三は討ち死にと言う結末を迎えるのでした。

 

長良川の戦いが起こった背景

(父「斎藤道三」 出典:Wikipedia)

①親子の確執

美濃の国主に成り上がった斎藤道三は、晩年嫡男である義龍に家督を継がせ悠々自適の隠居生活に入りました。

 

しかし、道三と義龍は、折り合いが悪かったと言われています。

 

(子「斎藤義龍」 出典:Wikipedia)

 

背景としては、道三は義龍の弟にあたる孫の四郎や喜平次を溺愛していたことにあります。

 

斎藤道三は義龍を追いやり、孫の四郎達に家督を継がせたいと考えていたと言われています

 

義龍も我が子ではないかと思うかもしれませんが、実は、義龍にはある噂があったのです。

 

義龍の生母深芳野は、道三の側室ですが、元々美濃の国主土岐頼芸の側室で、道三に貰い下げられた直後に懐妊したと言われており、もしや前の夫頼芸の子なのではないかと言う疑惑があったのです!

 

 

DNA鑑定のないこの時代では、確かめようがありませんし、もしかしたら頼芸の子はたまた本当に道三の子であったかもしれません。

 

②隠居したのは、良いが…

一応は、家督を譲った道三ですが、本音では、未だ実権を渡したくありません。ましてや、かねてより折り合いの悪い義龍が道三の進言など聞く訳がありません。

 

また、この家督相続自体親子の不和により義龍を担ぎ出した家臣達に、より強行された物だともされており、道三としてはそもそもこの家督相続自体が不満だったのでしょう。

 

次第に道三は、義龍を無能と悪口を言い始め、幼い孫の四郎たちを家督に就ける事で自身が後見として実権を握りたいと考えるようになります。

 

また、道三自身本当に我が子か分からぬ義龍よりも我が子と確定していている孫の四郎たちを大切にし、本当の継承者として相応しいと考えていたのでしょう。

 

血を残す事を大事に考えていたこの時代、我が子か分からぬ義龍は、道三にとっても脅威だったと言えます。

 

勿論義輝本人は、そのような悪巧みを聞けば面白くありませんし、道三を排除したい義龍にとって溺愛する弟たちは、自分を脅かす存在です。

 

長良川の戦いのはじまりと経過

 

孫の四郎たちの惨殺を契機に自らへの身の危険を感じた道三は、合戦へと流れ行きますが、父である道三は、圧倒的に不利な布陣となりました。

 

かねてより道三の遣り口に不満を持っていた家臣も多かったのです。

 

①弟の暗殺

義龍は、我が居城に病気でいくばくもないから会いに来て欲しいと孫の四郎と喜平次を誘き寄せると酒を振る舞い、家臣によって切り殺しました。

 

この一件には、家臣でもあり叔父ともされている長井道利も関与しており、二人を誘き寄せる使者となり、対面の席でも刀を置くように諭したとされています。

 

信頼する身内が居たからこそ、孫の四郎達も気を緩めたのでしょう。

 

この惨殺事件は、義龍が用意した使者により道三にも告げられると身の危険を感じた道三は、自分の居城を後にし、城下を焼き払って長良川の先まで逃れます。

 

そして、これをきっかけに合戦へと流れ行きます。

 

②織田信長も応援に!

ただ、斎藤家家中は、道三の方針や今までの遣り方に不満に思っていた家臣が多く、道三は思うほど家臣を集める事ができませんでした。

 

義龍側は、17500、中道三側はたったの2700と言われており、数から見ても道三が家中では、もはや全く相手にされていない存在ともいってよかったでしょう。

 

ただ、道三の秘策は斎藤家の同盟相手でもあり、娘婿の織田信長です。

 

 (織田信長 出典:Wikipedia)

 

信長は、道三の娘で義龍の妹である濃姫の夫でした。

 

 

信長を普段からかっていた道三は、信長に応援要請を出すと信長は、舅道三救援のため、出陣します。

 

しかし、信長の軍を含めてあまりにも道三の兵が少なく、到底義龍の数にはかないません。

 

しかも信長達援軍が到着するやいなや、道三が討ち取られたと言う報告がもたらされるのでした。

 

③討ち取られた道三

長良川の畔で激突する事になった両者は、数が少ないながらも流石美濃の蝮(マムシ)と恐れられた道三、当初は優勢に戦います。

 

しかし、人数面では圧倒的に不利な道三は、義龍側が長良川を渡り、一斉に道三の本陣へとなだれ込むともはや太刀打ち出来る人数差ではありません。

 

道三本陣へと出撃してきた長井道勝により生け捕りにされそうになった道三でしたが、乱戦の末、功績を急いだのかその場にいた他の家臣によって首を取られたと言われています。

 

道三の首がはねられた事に対し、道勝が激怒したとも言われており、当初は生け捕りにする気だったのかもしれません。

 

④大良河原の戦い

援軍を出した信長でしたが、時すでに遅く、道三は討ち取られていました。

 

しかし、義龍側が戦に勝利した事で士気が上がっておりそのまま信長へと進軍して来るのでした。

 

信長としては、助けるべき道三が討たれた今、ムダな戦闘を起こす訳にはいきませんし、すでに士気が高まっている義龍相手では、勝ち目はありません。

 

そのため、体制を整えるべく尾張への撤退を余儀なくされます。

 

その際、大将である信長は自ら殿を務め、その信長の乗る舟へ義龍軍が向かってきます。

 

しかし、鉄砲を撃ち込んだ事によって、これ以上義龍軍は追ってこず、無事に尾張へ逃れる事が出来ました。

 

殿は、本来大将や味方をスムーズに逃がすと共に自らも生きて戻ると言う大役でもあり、難役でこれをこなすと名をあげる事の出来る重要な役目でした。

 

ただ、当然最も敵に追われる身なので命の保証はありません。

 

それを大将自ら務めるのは異例とも言え、信長にとって道三の死が衝撃的であったと推察されます。

 

⑤道三の遺言書

道三は娘婿の信長に対し、遺言書を渡していたとされます。

 

その中には、無能と罵っていた息子義龍が思っていたよりも戦の戦法など出来る奴であったと伝えたと言われています。

 

道三は、義龍相手なら勝てるだろうと見くびっていましたが、思いのほか義龍は戦上手であったと言う事でしょう。

 

そもそも孫四郎達を溺愛していた道三は、義龍の事には興味が無く、家臣達はその力量に気付いていたのかもしれません。

 

しかし、義龍を疑う道三ただ一人がそれを分かっていなかったのかもしれません。

 

戦の中生き残った道三の末っ子「斎藤利治」は、信長の元へ逃げ、延び信長の庇護下で暮らして行きます。

 

また、道三は首を討たれたとは言え、討ったのも元は道三の家臣でもあり、義龍軍によって厚く葬られました。

 

斎藤家のその後

(道三塚 出典:Wikipedia

 

父道三を討った義龍は、見事家中で自分を脅かす者を消す事に成功します。

 

ですが、良心の呵責がやはりあったのか、出家している事から何か思う所があったのでしょう。

 

この戦国の世、生きるか死ぬかそれは、自分次第と言う事ですね。

 

しかし、皮肉にも35歳と言う若さで死去すると、息子である龍興が家督を継ぐも敵対していた信長との戦で負けてしまい斎藤家は、三代で滅びる事となるのでした。

 

後に道三の子孫は、藩士として仕えるなどし、家系は一部残ったとされています。

 

 

まとめ

まとめ

 

 斎藤道三は義龍を嫌い、孫四郎や喜平次を溺愛していた。

 

 義龍は、本当は道三の子ではなく、土岐頼芸の子だったかもしれない。

 

 弟達の殺害をきっかけに戦の火蓋があけられる。

 

 織田信長が救援に向かうも間に合わず、道三はあえなく首をとられる。

 

 信長は一戦を交えるが、信長自ら殿を務め尾張へ。

 

 義龍は35歳と若死にし、息子龍興が家督を継ぐ。しかし、その後は信長に打ち負かされ、斎藤家は三代で滅びることになった。