1931年に浜口雄幸内閣が、国内の重要な産業の保護と、国民経済の健全な発展を図る事を目的に重要産業統制法を制定します。
今回はこの『重要産業統制法』が制定された背景や内容・その後について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
重要産業統制法とは?
(浜口雄幸 出典:Wikipedia)
重要産業統制法とは、1931年(昭和6年)不景気で国内産業が悪化したために制定された、カルテルの保護化を認めた法律です。
この法律は浜口雄幸内閣のとき制定されました。
しかし、戦時体制になると更にカルテルの義務化を強制する法律ができ、この法律の意味合いはなくなり失効となりました。
重要産業統制法が制定された背景と目的
①大戦後の慢性的な不景気
第一次世界大戦後、日本は戦後恐慌や震災恐慌により、慢性的な不景気が続きます。
当時の日本は政友会、憲政会が交互に政権を担っていました(憲政の常道)。
両政党の昭和初期の方針は・・・
- 政友会・・・積極外交、積極財政
- 憲政会・・・協調外交、緊縮財政
政友会は積極財政で大量に紙幣を刷り、インフレで経済を回すスタンス。
1927年の金融恐慌の際は蔵相の高橋是清は大量のお札を刷り、恐慌を収束させます。
その後、総裁の田中義一が張作霖爆殺事件の責任を取り辞任。政権は憲政会の浜口雄幸になります。
②金解禁の断行
浜口内閣の方針は金解禁・財政緊縮です。
金解禁とは、金本位制の復活のこと。為替レートが固定されるので円高や円安に左右されずに貿易が出来ます。
この金解禁の問題点として金の量=発行できる紙幣の量なので、発行出来る紙幣の量に限りがあります。
国内から大量の金が流出すると、国内の紙幣は減り、デフレになります。
第一次世界大戦前まで各国は金本位制でしたが、戦争で金の流出を防ぐ為、金禁輸を実施。その後、続々と金解禁されていましたが、日本だけは恐慌の連続で金禁輸のままでした。
政友会は大量の紙幣を刷り、インフレを起こし経済の活性化を図っていたので、金融恐慌脱却後も金解禁に反対でした。金本位制だと刷れる紙幣の量に限界がありますからね。
浜口は蔵相に井上準之助を起用。井上は緊縮政策とデフレ圧力を取り、産業の効率化を図り、正貨を蓄えます。為替も回復した所で1930年1月に金解禁を断行します。
③昭和恐慌の発生
結果的に金解禁は大失敗でした。
金本位制の禁止は第一次世界大戦時。当時と経済状況も異なる為、状況に合わせたレートを定める必要がありました。
1929年の適正為替は100円=46.5ドルでしたが、井上は100円=49.85ドルという1917年の金禁輸前のレートで金解禁を断行。これはかなりの円高です。
井上が円高の金解禁を実施したのは、円の信用を落としたくない事、デフレの促進で強い企業が生き残る仕組みを作る為でした。
またレートの変更には法案を通す必要があったのですが、政友会の反発は必須なので法律を変える事は難しかったかもしれません。
そして運悪く金解禁直前の1929年10月にウォール街の株価が大暴落します。
しかし、政府は楽観視し1930年1月に金解禁を断行。その後世界恐慌が発生し、日本の輸出品が全く売れなくなります。こうして輸入超過となり、日本の金はどんどん流出します。
金解禁と世界恐慌のデフレが合わさり、国内のあらゆる産業の業績が悪化。昭和恐慌という深刻な不景気となります。
政策の方向修正を図る必要がありましたが、浜口、井上は強気でした。
「アメリカが不況から脱却すれば景気は回復する」と考えていたのです。
しかし状況は悪くなるばかり。1931年4月に、国内の重要な産業を政府が保護する事を目的に制定されたのが重要産業統制法です。
重要産業統制法の内容
①条文
正式名称は「重要産業ノ統制ニ関スル法律」です。
- 1条 重要産業に従事する企業がカルテル協定を結ぶ際、主務大臣への届出をする事
- 2条 主務大臣と統制委員会は、カルテル協定の参加企業の3分の2以上の申請があれば、非参加企業を参加させるよう命令出来る
- 3条 カルテルが公益に反する場合、議決によりカルテルの変更や取り消しを行う。
- 4条 主務大臣はカルテル協定の参加企業、非参加企業の業務視察が出来る
- そして、5条に統制委員会の規定 6条に罰則の規定と続きます。
主務大臣とは省内の事務的な事を行う大臣であり、商工省の事務を司る大臣が主務大臣です。
②法律の意義
会社は競い合う事で価格低下や技術が生まれます。
(例 A社 B社が商品を1万円で販売。A社がコスト削減に成功し9千円で商品を販売すると、顧客はA社に流れます。今度はB社が技術開発に成功し、9千円で販売する等)
これは社会が健全である事が前提であり、昭和恐慌のような状況で価格競争が始まると企業は疲弊し共倒れになります。
重要産業統制法で政府がカルテルを結ぶ事を認め、国内の重要な産業が潰れないようにしたのです。認めるだけで強制ではありません。
ちなみにカルテルとは会社同士が協定を結ぶ事です(A社 B社が話し合い値段や生産量等を決める事。価格競争は行われず、技術開発も進まないので、本来は法律で禁止されています)。
統制手段を採用する事でカルテルによる企業の保護も促しつつ、違法なカルテルで値段を釣り上げる事も禁止しており、消費者に不当な買い物をさせない配慮もありました。
重要産業は1931年12月に指定された紡績・製紙・製粉・セメント・化学・金属など19業種ありました。その後、石油など幾つかの産業が追加されています。
政府が産業統制した背景には共産主義の台頭もありました。
世界恐慌の中、共産主義のソ連は恐慌の影響を全く受けずに発展します。
日本政府も無秩序な自由競争を国家統制によって管理する事で成長を促すと考えていました。
その後、イタリア、ドイツ、アメリカでも次々と同じような産業統制の法律が制定されていきます。
重要産業統制法のその後
法律は1931年4月に制定し8月に施行されますが、1930年11月に浜口自体は統帥権干犯問題で狙撃されており、幣原喜重郎が代理で総理を務めています。
この法律自体は1930年1月から考えられていました。浜口内閣の後の第二次若槻内閣も方針を受け継ぎます。
浜口内閣は金解禁によるデフレは一時的と考え、当初この法律は5年と期限が決まっていました。
その5年の内に井上準之助も政友会総裁の犬養毅も暗殺。その後政党内閣は政権を担う事はなく、徐々にファシズムが優勢となっていきます。
1936年になり法律の期限が来ますが、政府は更に5年延長。
産業の保護が目的だったこの法律も、カルテルそのものの保護が目的となり、価格の吊り上げが目立つようになったからです。
カルテルの促進は資本も規模も大きい大企業に有利な政策でした。
法律の制定と延長は中小企業への負担も大きく、統合される事で財閥が更に台頭するきっかけになりました。
その後日中戦争が始まり、1938年4月に国家総動員法が発令。
重要産業統制法では回避されていた企業の強制設立、カルテルへの強制加入、および統制協定に関する政府の決定権が規定されます。
産業を保護する目的だった重要産業統制法よりも更に強い意味を持つ法律が出来てしまい、意味を失っていきます。
そして1941年に失効となり、役割を終えるのでした。
まとめ
✔ 浜口内閣は金解禁を断行したが、直後の世界恐慌の影響で、国内は深刻な不況となった。
✔ 重要産業統制法はカルテルを認めつつ、不当な値段の吊り上げも防止する事で、産業の安定化を図った。
✔ カルテルの保護化により、中小企業は統合され財閥が拡大した。
✔ カルテルの強制を目的とした国家総動員法が制定され、重要産業統制法は意味を失った。