日本が外国に負けた戦といえばやはり思いつくのが第二次世界大戦です。
しかし、その世界大戦から約1270年前に日本は一回外国の国に負けたことがありました。
今回はそんな『白村江(はくすきのえorはくそんこう)の戦い』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
白村江の戦いとは?
(6世紀ごろの朝鮮半島 出典:Wikipedia)
白村江の戦いとは、663年に百済の復興を成し遂げるために日本が唐・新羅連合軍と戦った戦争のことです。
この戦争によって日本は防衛体制を強化して国力の強化に努めていくことになるのです。
白村江の戦いが起こる前の朝鮮半島
7世紀の頃、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の3つの国が互いに争っている状態が続いていました。
その中でも新羅は唐と特に仲が良く、唐の制度を積極的に取り入れて同盟関係といっても良いほどでしたが、唐が高句麗に侵攻するとこの同盟関係が逆に高句麗が新羅に侵攻するきっかけとなっていきます。
高句麗と百済は唐と新羅に対抗するため同盟関係を結び、百済は新羅に侵攻。
新羅を圧迫しますが、新羅に勝つことはできず、逆に百済は新羅によって滅ぼされてしまいます。
こうして滅亡した百済でしたが、実は百済には一つの希望が残されていたのです。
倭国の対応
①決断を迫られる倭国
百済滅亡の影響を一番受けたのが倭国(日本)でした。
この頃日本では大化の改新を行なっていた倭国では朝鮮半島に対する外交体制を決めなければいけませんでしたが、国内では唐との関係を重視する派と百済の関係を重視して朝鮮半島の影響力を伸ばす派の2つに分かれていました。
そんな時百済が滅亡したという知らせが届きます。
倭国からしたら関係のないことだと思いますが、実は倭国と百済は昔から友好関係を結んでいた国であり、さらに百済の王子が倭国に亡命していたのです。
こうなると百済の残党たちは王子がいる倭国を頼るようになり、倭国に対して「百済の復興のために一緒に新羅と戦いましょう!」という使いを送ってきます。
倭国にとったらこの願いを承諾して新羅と戦えば、新羅の同盟国である唐との戦争は避けられません。
この知らせは選択を誤ったら倭国存亡の危機に関わる重大な決断でしたが、結果的に日本はこの百済の願いを承諾して唐と戦うことになりました。
実はこうなった理由には当時倭国で即位していた斉明天皇が関係しているのです。
②斉明天皇の思惑
(斉明天皇 出典:Wikipedia)
当時倭国では東北・北海道地方に居住していた蝦夷を征服を進めていき倭国の影響力を強化したいと思っていました。
斉明天皇からすれば蝦夷を征服してさらに百済を救えば、朝鮮半島における倭国の影響力を強めることができ、属国として扱うことができるかもしれません。
この魅力的な話に斉明天皇天皇は見事に乗って、どちらかといえば反対派であった中大兄皇子の意見を退けて百済救援を決断します。
白村江の戦いの全容
①斉明天皇の死
こうして百済の救援を決断した斉明天皇率いる倭国の軍は、当時都があった難波宮を出発して福岡県北部に向かいます。
ちなみに対外戦争があまり行わなかった日本において、天皇が前線で指揮することはこの戦いぐらいです。
天皇が前線に立ったことによって倭国軍の士気はピークに達しますが、なんと斉明天皇は福岡県北部についたところで病死。
中大兄皇子が代わりに指揮をとることになりますが、この死は倭国に暗雲をもたらしていきます。
②白村江の戦いのはじまり
斉明天皇の死という最悪のトラブルがあったものの、倭国の遠征軍は筑紫を出発して朝鮮に侵攻。百済の旧領の奪還を目指します。
実は最初の方は唐がまだ移動途中で新羅のみと戦っていたため、倭国と百済の残党勢力の方が優勢でした。
しかし、肝心の朝鮮半島に上陸しようとしていた矢先に土壇場で唐の援軍が到着、近くの白村江というところで唐と戦闘が開始されました。
最初の方は人数が多い倭国軍が優勢だったそうですが、斉明天皇の死の影響による士気の低下、倭国とは比べ物にならないほどの精強な軍と最新兵器を備えている唐に押され始め、最終的には崩壊してしまいます。
結果、1万人の死者を叩き出して撤退します。
これによって復活の道が絶たれた百済は完全に滅亡。さらに倭国も朝鮮半島の足がかりを失ってしまうという散々な結果で白村江の戦いは幕を閉じました。
白村江の戦いのその後
①太宰府の設置と大津京への遷都
白村江の戦いで惨敗したこの頃の倭国はまさしく国家の存亡の危機の状態に陥っていました。
だって当時アジアの覇者であった唐を敵に回したのですから、もし報復戦争で唐が倭国に攻めてきたら倭国は唐の占領下に置かれることを意味していたのです。
倭国はここから先唐に攻められることを想定して次々と防衛体制を整えていくことになります。
倭国は朝鮮半島に進出するのはもはや不可能と朝鮮半島の権益を全て放棄し、国内での政策に専念していくのですが、まず倭国は唐に近い福岡県に太宰府という軍の出張機関を置いて、さらに対馬・壱岐・九州地方北部に防人という防衛のための兵隊を置いて唐の侵攻を阻止しようとします。
さらに中大兄皇子の王子は海に近く攻められやすい難波宮よりも、もっと内陸にある琵琶湖のほとりにある大津に遷都して防衛に専念します。
この時中大兄皇子は天智天皇として即位。倭国の政治は天智天皇によって動かされていくことになります。
②新羅による朝鮮半島統一
倭国は唐が攻めてくると思っていましたが、唐が攻めたのは倭国ではなく、直接国境が接している高句麗でした。
唐は668年に高句麗を滅ぼし朝鮮半島を完全に支配しますが、こうなるとは思っていなかった新羅は急激に唐に対して不信感を抱くようになりどんどん唐との関係が悪化していきます。
そして高句麗の滅亡から2年後の670年新羅は旧百済の領地に侵攻。
さらに外交能力によって清川江以南の朝鮮半島を新羅の領地にする和睦が成立し、675年新羅がついに朝鮮半島統一を成し遂げられました。
壬申の乱と白村江の戦い
(天武天皇"=大海人皇子" 出典:Wikipedia)
671年、天智天皇が急死すると倭国では大海人皇子と大友皇子との間で古代日本最大の内戦である壬申の乱が起きます。
結局、壬申の乱は民衆と豪族の支持を受けた大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位します。
天武天皇は天智天皇の政策を受け継ぎながら唐と張り合う国にするために妻である持統天皇とともに改革を進めていきます。
そして686年に天武天皇が亡くなると持統天皇は701年に大宝律令の制定します。
また、公地公民制度を整えて国名を倭国から日本にするなど唐に習った中央集権国家が完成しました。
その裏には白村江の戦いで惨敗し、唐に攻められるかもしれないという恐怖がありました。
まさに白村江の戦いは古代日本の今後を決める重要な転換点であったと言えるのです。
まとめ
✔ 白村江の戦いは663年に倭国・百済連合軍と唐・新羅連合軍の間で行われた戦争のこと。
✔ 白村江の戦いが起こる直前百済は新羅に滅ぼされており、倭国に復興するように依頼していた。
✔ 白村江の戦いは唐より軍が多かったものの、斉明天皇の死による士気の低下や唐の最新兵器によって最終的には敗北した。
✔ この戦い以降倭国は大津京に遷都し、九州に太宰府や防人を置いて唐からの侵攻を抑え、さらに壬申の乱以降には倭国を日本に改名した。