1853年、浦賀沖にペリーが来航して幕府はアメリカと条約を結ぶのかどうかでもめていました。
実はこの当時日本は鎖国体制というオランダ船以外は西洋の国が入ってはいけないというルールがありました。
今回はそんな鎖国体制が崩壊した『日米和親条約』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
日米和親条約とは?
(ペリーら三人のアメリカ使節を描いた錦絵 出典:Wikipedia)
日米和親条約とは、1854年(嘉永7年)にアメリカと日本の間で結ばれた条約のことです。
この条約は別名神奈川条約とも言います。
この条約によって日本は下田と箱館を開港し、約250年続いた鎖国体制は終わりました。
日米和親条約が結ばれた背景
①ペリー来航
1853年、浦賀に突如として4隻の黒船が来航し、東インド艦隊司令官であるマシュー・ペリーが日本に対して開国と通商を行うように求めるという事態が起きました。
(日本版画に描かれたペリー 出典:Wikipedia)
当時サンフランシスコなどの西海岸を手に入れたアメリカでは太平洋における捕鯨と清国との通商のために一時的に寄港できる港が欲しかったのです。
一方の日本はお隣の清国がアヘン戦争においてイギリスにボロ負けしたこともあって、モリソン号事件のような異国船打払令という外国船を大砲で追っ払うなどの強硬手段は使えませんでした。
そこで、とりあえず穏便に帰国するように促してなんとかペリーを納得させて一年間の猶予をもらいペリーはなんとか退去する形となりました。
②2度目の来航 日米和親条約の締結
しかし、ペリーが退去した直後に第12代将軍徳川家慶が急死。
(徳川家慶 出典:Wikipedia)
幕府は一応徳川家定を第13代将軍に就任させますが、こんな大変な時をペリーはチャンスと思ったのかまさかの9ヶ月で来航。
さらに幕府の脅しも兼ねて江戸湾に入港します。
こうなったら幕府としてももうお手上げ。ペリーとの間で1ヶ月の間協議が行われて日米和親条約が締結されることとなりました。
日米和親条約の内容
(条約を結んだ老中「阿部正弘」 出典:Wikipedia)
日米和親条約はアメリカの全権はマシュー・ペリー、日本は老中筆頭である阿部正弘と大学頭である林復斎との間で結ばれました。
特に阿部正弘は重要人物なのできっちりと覚えておきましょう。
日米和親条約は12条に渡る条文で構成されていますが、まずはこれを見ていきましょう。
12条の内容
✔ 第1条 日本とアメリカは人・場所例外なく、今後永久に仲良くすること。
✔ 第2条 日本は下田と函館を開港してアメリカに対して必要に応じて食料や水・燃料を補給すること。
✔ 第3条 アメリカの船が日本近海で嵐に遭い船が壊れたりした場合は日本がその船の乗組員の安全を確保してアメリカに引き渡し、アメリカはその時に被害が及んでもその際の賠償金は請求しないこと。
✔ 第4条 日本はアメリカ人の権利をできるだけ尊重すること。
✔ 第5条 下田と函館に居留するアメリカ人は日本の制約を受けずに自由であること。
✔ 第6条 日本とアメリカが貿易や交渉するときはまた改めて条約を結ぶこと。
✔ 第7条下田、函館においては、金貨、銀貨での購買や物々交換をすることができること。
✔ 第8条 アメリカが要求する物資は日本の役人が頑張って調達すること。
✔ 第9条 日本はアメリカに対して片務的最恵国待遇を与えること。
✔ 第10条 嵐などの緊急事態など特別な場合を除いてアメリカの船は下田、函館以外へ来航してはならない。
✔ 第11条 日本とアメリカのどちらかが要求すれば下田か箱館に総領事を置くことができる。
✔ 第12条 日本とアメリカははこの条約を守る義務があり、さらに両国は18ヶ月以内にこの条約を承認すること。
①日米和親条約のポイント
日米和親条約の条文を見るといかにも普通ですが、第9条にある片務的最恵国待遇がとても厄介なものでした。
最恵国待遇とは簡単に言うと「君がもし他の人といい条件で条約を結んだら俺にも同じ条件の条約を結ばなければいけない」ということです。
要するに自分のことを一番大切に見ろということです。
さらに注目して欲しいのが片務的というところ。片務的というのは片一方という位置がありこれはアメリカのみの事を指します。
つまり片務的最恵国待遇とは日本がアメリカのことを一番に見ろということになります。
これが片務的でなければ普通なんですが、片務的最恵国待遇となるとこの条約は不平等条約とみられるようになります。
②開港地は「下田港」と「箱館港」
日米和親条約によって開かれた下田港と箱館港。
しかし考えてみるとなんで江戸から近い横浜や京都・大阪に近い神戸でもなくよりにもよって江戸から微妙に離れている下田を選んだのでしょうか?
実はこれは幕府の絶え間ない努力が実った結果でもあったのです。
ペリーは最初は浦賀などの5つの港を開くように要求します。ペリーからしたらもちろん横浜や神戸などの港を開港して欲しいと思ったはずです。
しかし、これでは幕府は困ってしまう・・・。そこで浦賀の代わりに昔からの良港であり江戸から微妙に近く、さらに伊豆半島と端にあって厄介払いできそうな下田を推薦し、これを押し通したわけです。
さらにペリーの5つの港の開港も箱館と下田のみに抑えることに成功し、なんとか幕府の面目も一応は立てることができました。
日米和親条約のその後
①日本の近代化の促進
日米和親条約が結ばれたことによって日本の鎖国体制は崩壊しましたが、日本はアメリカの黒船に衝撃を受けて幕府サイドは1853年9月大船建造の禁を解除。
藩は競って西洋の最新機種戦艦を購入し、これがのちの海軍につながっていきます。
また1855年に幕府は長崎で長崎海軍伝習所を設立。オランダ船を利用して近代戦艦の動かし方を学びました。
こうした動きがのちの日本の軍の近代化がスムーズにいく要因の1つとなっていくのです。
②日米修好通商条約の締結
日米和親条約が結ばれてアメリカとの交流が始まっていくことになりましたが、アメリカとしてはこの条約は不本意なものでした。
というのもアメリカとしては日本と貿易がしたいと思っていたのです。
そりゃ日本がアメリカのもの買ってくれたらアメリカとしてみれば嬉しいですし、しかも流通ルートが増えることはいいことですしね。
そのため日米和親条約が結ばれた4年後、アメリカ初代駐日総領事であるダウンセント・ハリスが幕府に対して日米和親条約みたいな貿易船や捕鯨船の補給などを約束しただけではなく、貿易を行えるような約束を結んだ条約を結ばなければいけないと思っていました。
(ダウンセント・ハリス 出典:Wikipedia)
そこでハリスは幕府に日米和親条約に変わる新しい条約を結ぶことを強要し、幕府と朝廷が対立しながら結局日米修好通商条約が締結されることになりました。
これによって横浜・箱館・新潟・神戸・長崎の港が開かれて日本は新しい時代を迎えていくことになっていくのです。
まとめ
✔ 日米和親条約とは1854年に日本とアメリカの間で結ばれた貿易船や捕鯨船などの補給についての条約のこと。
✔ アメリカはペリーがやってくるちょっと前に西海岸を獲得して太平洋の捕鯨を盛んに行なっていた。
✔ 日米和親条約によって開かれた港は箱館と下田。
✔ 日米和親条約は日米修好通商条約ほどではないものの片務的最恵国待遇など不平等な部分もあった。
✔ この条約が結ばれて以降幕府は大船建造の禁を解除して海軍の近代化を促進させた。