“殉死”という言葉は聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。
そしてこれを禁止した理由も推測できるでしょう。
“大名証人制度”はちょっと別の制度と混乱している人もいるかもしれませんね。
ここではこの2つの制度の内容、意味をしっかりと確認しながら、それを禁止、廃止した理由などについてわかりやすく解説していきます。
目次
殉死の禁止と大名証人制度の廃止とは?
(保科正之 出典:Wikipedia)
いずれも江戸時代、四代将軍家綱の治世下で保科正之により実施されたことになります。
「殉死の禁止」は、主君の死に際して、家臣や妻が殉じて死ぬことである“殉死”を禁止したことですが、これは代替わりの際の優秀な人材の喪失を防ぐためといわれています。
また、「大名証人制度の廃止」は江戸幕府が当初人質として大名の妻子以外にも家臣やその家族も江戸に住まわせていた制度を廃止にしたことです。
江戸初期の幕藩体制の確立期とは違い家臣まで人質を取る必要はないと判断した為だったようです。
時代における殉死の変化
そもそも、“殉死”とはどのような意味をもつものだったのでしょうか。
①古代の殉死
自主的に主君の後を追って死ぬ、というよりは古代は殉葬として権力者が亡くなった際に死後の世界で困らないように家来を一緒につれていく、といった風習だったようです。
家来にとっては大変迷惑な話ですが、中国の魏志倭人伝には邪馬台国の卑弥呼が亡くなった際には奴婢を100人以上一緒に埋めたなどという記載もありました。
後に、その残酷さなどの理由から人馬型のものを土で作った埴輪(はにわ)を代わりに副葬品としていれるようにしていくようになりました。
前方後円墳などの古墳に非常に多くの埴輪が並んでいるのを資料でみたことはないでしょうか。
ちなみに中国では俑(よう)といって権力者の臣下や妻子を模した人形を埋葬していたようです。
材質により陶俑、木俑、金属俑などがあったそうですが、始皇帝の兵馬俑は大変有名ですが、写実的な俑と異なり、日本の埴輪は少し抽象的な感じですね。
大化の改新以後、墳墓の小型化が進み、殉葬も禁止になっていくのです。
②武士の殉死(中世)
こちらは殉葬とは違い、主君が討ち死にしたり、敗戦により切腹したりした際に家臣も一緒に討ち死にしたり、切腹したりすることですね。
鎌倉幕府滅亡の際には支配者であった北条一族へ家臣の多くが殉じたそうですが、御恩と奉公の関係があった中世の封建制度の中では主君への忠義の表れとして「美しいもの」という認識がされていたのだと考えられます。
③武士の殉死(近世)
戦国時代は合戦の中で共に果てた、ということはあったとしても主君の病死や自然死での殉死はほとんどなかったようです。
「下克上」の時代でもありましたから、当然かもしれませんね。
江戸期に入ると戦いがなくなり、手柄をたてる機会も失われます。
その中で、主君への忠誠心を見せるものとして殉死が行われるようになっていきました。
自らが主家に対して殉死という形の忠義をみせることで、お家安泰を願う場合もあったようです。
また、別の側面として、確立していく幕藩体制の中で既存の体制に物申す意味での殉死もあったと考えられています。
例えばお殿様への接点の少ない下級の武士が、アピールの為に殉死することや、特別に寵愛を受けた家臣が心中のような後追い自殺をする、といったものになります。
大名証人制度の意味
江戸期の有名な制度である参勤交代ですが、この中で大名の正室(妻のこと)とお世継ぎ(子のこと)は江戸に住むことになっていました。
江戸の藩邸に住ませることで「大名が幕府を裏切らないという保証人=人質」としていたわけです。大名たちは1年おきにこの藩邸と領地を行き来していました。
上記の妻子にプラスして、各大名の家臣の一部とその家族を同様の理由で江戸に住ませること、これが「大名証人制度」になります。
大名の家臣たちは、主人の妻子のお世話をしつつ江戸の藩邸を切り盛りし、かつ大名の忠誠の証として交代で江戸に居住していたそうです。
MEMO
余談ではありますが、参勤交代を『大名行列などの諸費用を負担させることで、幕府に逆らうような権力を蓄えないようにするため』という内容で覚えた人も多いかもしれません。
実際にこの参勤交代での費用負担は諸大名にとって非常に大変でありましたし、外様大名のように遠くの大名が江戸に行く場合はさらに負担増だったので、経済的に力を削ぐという効果はありました。
しかし、元々の意味は大名の将軍への軍事奉公であり、幕府への服従儀礼でもありました。
幕府への忠誠をみせることと、所有する軍事力をもって幕府に仕えることを交代でおこなっていたのです。
軍人としての家臣を多くつれていく=大名行列の人数が多くなる、ということになるので、大名行列が大人数になっていたのは単なる権力鼓舞とか見栄ではなかったのですね。
制度が出されるまでの背景からその後まで
①武断政治から文治政治へ
初代家康から3代家光までは幕府の基盤を固めるために武断政治と呼ばれる武力により支配を強める政治が行われました。
その為容赦ない改易などによって主を失い牢人となった武士たちが街にあふれて治安が悪化していきます。
また幕府の権威を高めるための諸制度による財政圧迫は大名のみではなく、その経済を支えていた農民をも苦しめました。
そのような情勢の中、寛永の大飢饉も起こり、全国的にも非常に混迷した状態になっていったのです。
さらに家光死後の混乱期には、クーデター未遂事件(慶安事件:由井正雪の乱)も起こってしまい、幕府の政治は武断政治からの方向転換が早急に必要となりました。
以後、力ではなく制度や法をもって治めていく文治政治へと進んでいくのです。
②「殉死の禁止」と「大名証人制度の廃止」の実施
4代家綱の大政参与として政治を補佐した保科正之はまず牢人増加の原因にもなっていた末期養子の禁止を緩和します。
これにより改易などになる大名が減り、牢人の発生も減少していきました。
さらに寛文3年(1663年)に武家諸法度の改正を行うことで殉死の禁止と大名証人制度の廃止を実施しましたが、この2つを寛文の二大美事(かんぶんのにだいびじ)と呼びます。
また、翌年には寛文印知(かんぶんいんち)を実施して領地宛行状(りょうちあてぎょうじょう)などを発行します。
これにより全国の土地の所有者を明確化した上で将軍の名の元に安堵し、将軍の地位を確立していきました。
③制度実施の目的
前述で「殉死の禁止」の理由を一言で『優秀な人材の損失を防ぐため』としました。
勿論これは古代からの例でも分かるように、多くの家臣を同時期に失うことは、残った力の弱体化を意味しますので、権力維持のためにも、重要な理由の一つであることは間違いありません。
ただ、追加するとすれば殉死のような個人的な感情からの行動は本来の忠義ではなく、主人への真の忠義を見せる意味でも生きて主家存続の為に尽くすべき、とした個人関係でなく家単位での新たな主従関係への移行を意図したものであったとみることもできます。
同様に「大名証人制度の廃止」も【主君の行動の責を家臣がとって当然】のような戦国時代から続く遺風を一掃し、文治政治への意識改革を進めたいとする考えがあったと考えられます。
④制度のその後
「殉死の禁止」令が出て以降、殉死は全くなくなったわけではありません。
しかし、違反した藩が厳しい罰を受けたことから、かなり減少していったのは確かです。
江戸期以降であれば、近代の明治天皇崩御の際の乃木大将夫妻の殉死が有名です。
また、大名証人制度の廃止によって、大名の家臣たちは江戸に住まなくていいよ、とされたのですが、今の若者同様に江戸に憧れて自主的に江戸に住む家臣も多くいたようです。
まとめ
✔ 「殉死の禁止」は主君への後追い自殺である“殉死”を禁止したもの、禁止した理由には人材損失の防止と、個から家へ忠義の意識変更を促す狙いもあった。
✔ 「大名証人制度の廃止」は江戸へ居住させた大名の家臣とその家族はもう証人としては不要としたもの、「主君の行動に家臣が責任を持つ必要はない」とした考えもあった。
✔ 上記2つのことを【寛文の二大美事】と呼ぶ。
✔ 二大美事は武断政治から文治政治への転換を意識させるものでもあった。