日本は第二次世界大戦中に中国や東南アジアを侵略した時、大東亜共栄圏という理念を掲げます。
「東亜」とは東アジアのことです。日本が中心となり、東アジア全域に巨大な経済圏を作り上げようとしました。
今回は、『大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
大東亜共栄圏とは?
(大東亜会議に参加した各国首脳 出典:Wikipedia)
大東亜共栄圏とは、第二次世界大戦中に日本で唱えられたアジア政策の理念です。
中国や東南アジアを欧米列強の植民地政策から解放し、日本が中心となって独自の経済圏を打ち立てるという内容でした。
しかし、実際にはこの理念は日本のアジア侵略を正当化するために出てきたものです。
欧米列強は1930年代に起こった世界的な大不況を乗り越えるために、植民地支配を拡大していきますが、大東亜共栄圏の発想も実質的にはこれと同様のものでした。
大東亜共栄圏の理念には、欧米列強に植民地支配されていた民族を解放し、自主自立を促すことが含まれていたため、初めのうちはこの理念を歓迎する国々もありました。
しかし、日本の敗戦が濃厚になるにつれて、日本軍が現地の経済を混乱させたため日本軍に対する反乱が多発。結局、1945年8月15日の日本の敗戦とともに、大東亜共栄圏の理念は姿を消すことになります。
大東亜共栄圏が生まれた背景・目的
(恐慌初期の取り付け騒ぎ 出典:Wikipedia)
①列強の植民地政策
1930年代に欧米列強が帝国主義の考え方の下で、アジアやアフリカで植民地政策を進める背景には、1929年の大恐慌に端を発する世界的な大不況があります。
これに対して、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカは、本国と植民地を一体とした経済圏を作り、他国を排除して、自国の経済圏の中だけで貿易を活発に行う政策をとります。
これがブロック経済と言われるものです。
各国は不況を乗り越えるため、植民地を拡大し、自国の経済圏を広げようとしていきます。
日本もまた、1931年の満州事変を経て、事実上は満州国を植民地支配するようになり、日本と満州を一体とした経済圏を作り上げようとします。
これもブロック経済の一種として考えることができます。
②日中戦争の行き詰まり
しかし、1937年に始まった日中戦争は、戦争をどのように終結させるのかという手段を完全に見失い、泥沼化してしまいます。
そのような中、アメリカによる日本への経済制裁やドイツによるヨーロッパの快進撃を背景に、日本はやがてイギリスやアメリカと戦争することを見越します。
そこで石油を確保するため、ヨーロッパでドイツを相手に苦戦しているイギリスやフランス、オランダの隙を突く形で、これらの国々が植民地支配している東南アジアに進出し、経済圏を広げようと考えます。
これが後の大東亜共栄圏の発想につながります。
ちなみに、当時シンガポールはイギリス領、ベトナム・カンボジアはフランス領(フランス領インドシナ、仏印)、インドネシアはオランダ領(オランダ領東インド、蘭印)でした。
③日米開戦
しかし、日本のこうした動きにアメリカが強く反発し、日本の全兵力を中国と東南アジアから撤退させるように要求してきました。
その最後通牒として知られるのが、ハル・ノートと呼ばれるものです。
これにより、アメリカとの交渉は決裂してしまいます。
そして、1941年12月8日、ついに日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、アメリカとの開戦に踏み切ります。
これによって、アジア・太平洋戦争が始まります。
この戦争の目的として掲げられたのが、「大東亜共栄圏」という理念でした。
大東亜共栄圏の詳細
(大東亜共栄圏 画像引用元)
①大東亜共栄圏の提唱&共栄圏の範囲
「大東亜共栄圏」という言葉が歴史に登場するのは、アジア・太平洋戦争が始まる4カ月前の1940年8月1日にさかのぼります。
当時の第二次近衛内閣の松岡洋右外相が記者団に語った談話の中で、はじめてこの言葉が使われています。
(松岡洋右 出典:Wikipedia)
松岡外相は当時内閣で閣議決定された文書を念頭に置きながら、「大東亜共栄圏」という言葉を使いました。
そこで言う「大東亜共栄圏」とは、日本が中国や東南アジア諸国を欧米列強による植民地支配から解放し、日本を盟主とした独自の経済圏を作り上げるという理念です。
その経済圏の範囲としては、まずは日本・満州・中国が挙げられますが、将来的にはオセアニア諸国やフランス領インドシナ(仏印)、オランダ領東インド(蘭印)、ビルマ(ミャンマー)等を含むものとして、当時すでに構想されていました。
②大東亜共栄圏は場当たり的に拡大していった理念
しかし、こうした発想そのものは以前からありました。
これと同じ発想が、1931年に起こった満州事変の時には「日満一体」、1937年に始まった日中戦争の時には「東亜新秩序」と呼ばれていました。
つまり、大東亜共栄圏とは、1930年代を通じて、日本と満州を一体にした経済圏を打ち立てることから、日本・満州・中国を一体にした経済圏、そしてさらにオセアニア諸国や東南アジアを含めた経済圏を打ち立てることへと徐々に変わってきた理念なのです。
したがって、大東亜共栄圏という理念は、最初から一貫して提唱されていた理念だったのではなく、1930年代に場当たり的に拡大していった理念であると言うことができます。
③理念の内実
大東亜共栄圏という理念の根底には、天皇が徳にもとづいて統治するという「皇道」の考え方と、ドイツが侵略戦争の理念として掲げていた「生存圏」の考え方がありました。
したがって、この理念はドイツの侵略主義を東アジア流にアレンジしたものと見ることができます。
松岡外相が最初に「大東亜共栄圏」という言葉を使った時も、この二つの考え方が根底にありました。
大東亜共栄圏の考え方をよく表しているとされるのが、1943年11月6日の「大東亜共同宣言」です。
そこでは、欧米列強の植民地支配から解放された民族の自主自立を促すことや、それぞれの民族の文化を尊重すること、経済的に相互協力することが明記されています。
また、石油等の資源は国際的な公共財であるという進歩的な発想につながる記述さえ見いだすことができます。
こうした記述こそが、大東亜共栄圏の理念を美しく見せるものでした。
しかし、実際に大東亜共栄圏を広げるためには、こうした美しい理念を掲げるだけでは意味がありません。
まずは、すでに現地にある政府を打ち倒し、日本の支配下に置く必要があります。
そのため、大東亜共栄圏の理念は、日本による戦争拡大と切っても切り離せない関係にあると言えます。
大東亜共栄圏の結果・その後
(ミッドウェー海戦"炎上する日本軍の戦艦" 出典:Wikipedia)
1942年6月のミッドウェー海戦の敗北以降、アメリカによって日本が侵略した地域の輸送路が破壊されていくことで、地域内の貿易は利益が上がらなくなってきます。
そのような中、日本が現地で通貨を大量に発行し、物資を調達しようとしたため、インフレーションが起こり、現地の経済が混乱しました。これでは、欧米列強の植民地政策とやっていることは同じです。
その結果、最も打撃を受けたのが現地の住民たちです。
そのため、もともと大東亜共栄圏の理念に反発していたフィリピンだけでなく、当初は日本軍を「解放軍」として好意的に迎えていたフランス領インドシナ、オランダ領東インド、ビルマでも、アジア・太平洋戦争の末期には、日本軍に対する反乱が起こるようになりました。
大東亜共栄圏という理念は、結局は欧米列強の植民地主義と変わるところがありませんでした。
そのため、1945年8月15日の日本の敗戦とともに、この理念は姿を消すことになります。
まとめ
✔ 大東亜共栄圏とは、1940~1945年に日本が提唱していたアジア政策の理念のこと。
✔ その理念の内容は、日本が欧米列強によるアジアの植民地支配を解放し、日本を盟主とした経済圏を作り上げようというものだった。
✔ 1930年代の世界的な大不況を打開するために、欧米列強は植民地支配を拡大し、ブロック経済を進めようとしたが、大東亜共栄圏の発想も実質的にはこれと同様のものだった。
✔ 大東亜共栄圏の理念には、欧米列強に植民地支配されていた民族を解放し、自主自立を促すことが含まれていたが、日本の敗戦が濃厚になるにつれ、日本軍が現地の経済を混乱させたため、現地で日本軍に対する反乱が起こるようになった。
✔ 1945年8月15日の日本の敗戦とともに、大東亜共栄圏の理念は姿を消した。