自由民権運動を通じて国会開設運動が高まると、政府は国会開設の勅諭を出して1890年の国会開設を約束しました。
1889年に大日本帝国憲法が出されるとそれに基づいた第一回衆議院議員総選挙が行われました。
開設された国会は政府とそれに対抗する「民党」とが対立する場となったのです。
なぜ政府と民党が対立し、対立はどのようにして解消したのでしょうか?
今回はこの『初期議会』の背景や経過・その後などわかりやすく解説していきます。
初期議会とは?
(帝国議会 出典:コトバンク)
初期議会とは、1890年(明治23年)の第一議会から日清戦争が起きる直前の第六議会までの初期の帝国議会のことです。
富国強兵路線をすすめる「藩閥政府」と民力休養・経費節減を唱える「民党」が激しく対立した議会でした。
※藩閥(はんばつ):同じ藩の出身者が重要な役職について独占していること
初期議会前の日本
①自由民権運動の高まり
西南戦争で西郷隆盛らが敗れたことは、武力で政府を倒すことが不可能であることを示していました。
板垣退助らを中心とする人々は国会をつくってその中で政府の政策を批判しようと考えます。
板垣たちの自由民権運動は実を結び、政府は国会開設の勅諭を出し1890年までに国会を開くことを約束しました。
②政党の結成
10年後の国会開設を見越して、政党を作る動きが活発になりました。
板垣退助らはフランス流の急進的自由主義を唱える自由党を、大隈重信らはイギリス流の漸進的(少しずつ目的を遂げようとするよう)な議会政治を目指す立憲改進党をつくりました。
③大同団結運動
自由民権運動はそのうち激化していき、板垣や大隈がコントロールできない事件を引き起こします。
いわゆる、激化事件です。このせいで、運動はいったん下火になりました。
1887年に後藤象二郎らが中心となり大同団結運動をおこしました。
こうして彼らは論点を3つに絞って政府と対立することになります(三大事件建白運動)。
④大日本帝国憲法の発布と帝国議会の位置づけ
1889年、大日本帝国憲法が発布されました。
この憲法では元首である天皇に大きな権限が与えられています(天皇大権)。
また、国会は帝国議会と名付けられました。
帝国議会は貴族院と衆議院から成り立ち、両院は対等。予算については衆議院・貴族院の両院の同意が必要で、もしどちらかが反対すれば新たな予算は編成できません。
天皇大権でも追加の軍備増強はできない仕組みでした。
⑤超然主義
超然主義とは、政府は政党の動向に左右されず、超然として公正な政治を行うべきとの考え方のことです。
憲法が発布された翌日に総理大臣の黒田清隆が表明したもので、政党政治を拒む考えともいえました。
初期議会ができてからの流れや経過
①第一回総選挙
1890年7月、大日本帝国憲法に基づく第一回の衆議院議員総選挙が行われました。
全議席300のうち、立憲自由党が130、立憲改進党が41、政府系の大成会が79議席でした。
自由民権運動の流れを汲む立憲自由党と立憲改進党を合わせると過半数を占めました。
②初期議会の頃の政党
自由党の流れをくむのが立憲自由党(のち、自由党となる)で、板垣退助・片岡健吉・星亨・河野広中らが中心人物でした。
一方、立憲改進党の中心人物は大隈重信です。
これら自由民権運動の流れをくむ政党をまとめて民党と呼びます。
一方、大成会・国民協会など政府の意向を強く受けた政党は、官吏(役人)の政党という意味で吏党とよばれました。
③第一議会(1890.11~1891.3):第一次山県有朋内閣
山県内閣は議会に対して軍備拡張を含めた予算案を提出しました。
民党は「政費用節減・民力休養」を主張して予算案を削減しました。
このままでは新たな支出をすることができず困ってしまうので、山県は自由党の一部を味方につけてかろうじて予算を通しました。
④第二議会(1891.11~12):第一次松方正義内閣
松方内閣も軍艦建造費などを含んだ予算案を出しましたが、民党は反対します。
このことに怒った海軍大臣の樺山資紀は「今の政府があるのは薩長のおかげではないか」といった内容の演説(蛮勇演説)をおこない議会は大混乱となります。
結局、そのまま解散することになりました。
⑤第二回総選挙と激しい選挙干渉
国内政治を担当する内務大臣だった品川弥次郎は激しい選挙干渉を行いました。
しかし、民党は妨害にもめげません。結果は民党の合計は吏党を上回りました。
中間派だった独立倶楽部とあわせると過半数を超えることができます。
結果的に選挙干渉は失敗し、品川内相は責任を取って辞任しました。
⑥第三議会(1892.5~6):第一次松方正義内閣
松方内閣は選挙干渉の責任を民党から追及されました。
予算は相変わらず否決され、結局松方は総辞職するしかありませんでした。
⑦第四議会(1892.11~93.2):第二次伊藤博文内閣
この内閣は明治維新で活躍した人物が総動員されたといわれるほど大物ぞろいだったので元勲内閣と言われています。
一向に認められない軍艦建造費の予算案を通すため、伊藤は秘策を繰り出します。
天皇に相談し、天皇から「建艦費として宮廷費の節約分・役人の俸給の1割を出すから、議会も政府に協力せよ」という詔書を出してもらいます。
これにより、ようやく建艦費の予算を通すことができました。
⑧第五議会(1893.11~12):第二次伊藤博文内閣
当時、大詰めを迎えていたのが条約改正問題でした。
ロシアと激しく対立していたイギリスが条約改正に応じる気配を見せたのです。
しかし、立憲改進党などは今の条約を守るべきだと主張し伊藤内閣を攻撃。伊藤は議会を解散することになりました。
⑨第三回総選挙
選挙の結果、民党が過去最大の議席である約3分の2を占めました。
⑩第六議会(1894.5~6):第二次伊藤内閣
解散総選挙を行っても、状況はほとんど変わりませんでした。
ついに、民党は内閣弾劾上奏案を可決し、対立を激しくさせていきました。
伊藤は再び衆議院を解散します。
⑪日清戦争の開始と対立の終わり
日清戦争がおきると状況は大きく変化しました。
選挙後も議席は大きな変化はありませんでしたが、議会は戦争に協力するため全会一致で戦争関係の予算・法律案を可決していきました。
こうして、初期議会の対立は一旦終了しました。
初期議会後の動き
①憲政党の成立と隈板内閣
1898年、第三次伊藤内閣が出した地租増徴案に対して民党は一致団結して反対します。
ついには自由党と立憲改進党が合体して巨大政党の憲政会がつくられました。
伊藤は内閣総辞職を選択します。これにより、大隈重信を総理大臣、板垣退助を内務大臣とする隈板内閣ができました。
②二大政党の成立
隈板内閣は内部分裂から4か月で崩壊します。
憲政会は自由党系と立憲改進党系に分裂します。
自由党系は立憲政友会に、立憲改進党系は憲政本党となります。
両党は大正から昭和初期にかけても二大政党として強い力を持ちました。
まとめ
✔ 初期議会とは1890年の第一議会から第六議会までの初期の帝国議会のこと。
✔ 初期議会では民党と政府が激しく対立した。
✔ 民党は政費節減・民力休養をとなえた。
✔ 山県内閣は自由党の一部を切り崩し、予算を通した。
✔ 松方内閣は議会を解散し、選挙干渉をおこなったが失敗した。
✔ 伊藤内閣は天皇の詔勅で予算を通したが対立は続いた。
✔ 初期議会の対立は日清戦争まで続いた。