首都東京を陸軍の一部が占領する。
いまでは全く想像がつかないことが1936年に起きました。それが二・二六事件です。どうしてそのような事件が起こったのか?
そもそも、二・二六事件とは何なのか?その後の日本の歴史にどのような影響を与えたのか?
今回は、二・二六事件の背景・経過・結果・影響をわかりやすく解説していきます。
目次
二・二六事件とは
(反乱軍の青年将校ら 出典:Wikipedia)
1936年(昭和11年)2月26日に東京で起こった陸軍皇道派青年将校によるクーデタ事件です。
将校とは、主に少尉から大佐までの階級を持つ軍人のことで比較的若手が多い階級です。
事件後、岡田内閣は総辞職となりました。
二・二六事件の原因・背景
(農村恐慌。大根をかじる少年)
①壊滅的な昭和恐慌と農村恐慌
1920年代から30年代にかけて、日本は最悪とも言っていいほどの経済状態でした。
特に1930年の昭和恐慌は悲惨なものでした。
前年の世界恐慌のせいで輸出は伸びず、かえって輸入が増えて金が流出。企業の倒産も増え、失業者が街にあふれます。
輸出の減少は農村を直撃、生糸輸出は激減し、農家は著しく困窮しました。「欠食児童」や農家の娘の「身売り」が社会問題となりました(農村恐慌)。
②政治家と財界の癒着
明治時代ほどではありませんが、大正時代から昭和初期の「憲政の常道」が行われた政党内閣の時代も政治家と経済界の結びつきは強いものがありました。
立憲政友会は三井と立憲民政党は三菱と関係が深く、特に加藤高明と三菱の関係の深さは有名でした。
③繰り返されるテロやクーデタ未遂事件
恐慌で人々が苦しんでいるのに、政府は財界と癒着してなにも有効な手を打たない。
そんな政党政治家や財界人は殺してしまうべきだという過激な考えが広がりました。
1930年の浜口首相狙撃事件(のち、首相は死亡)、1931年の三月事件(クーデタ未遂)、1932年の血盟団事件(井上準之助前大蔵大臣と団琢磨三井理事長を暗殺)と五・一五事件(犬養首相暗殺)など信じられないくらいのテロや暗殺が横行しました。
④国家改造運動
国家改造運動とは、青年将校や右翼・国家社会主義者らを中心とした運動のことで、現状をかえようとする役人も合流し“昭和維新”を行おうとしました。
軍部独裁による新しい国家を作り、積極的に大陸に進出しようとする運動でした。
その思想的な指導者が北一輝と大川周明でした。
⑤北一輝の影響
(北一輝"きたいっき" 出典:Wikipedia)
北一輝は国家社会主義を唱えました。資本主義の悪い部分を国家権力で調整しようという考え方です。
日本では軍の力で天皇中心の国を作り軍国主義の世の中にしようという動きをさします。
この考え方は二・二六事件の参加者となる皇道派の将校たちに大きな影響を与えました。
⑥皇道派と統制派の対立
皇道派はクーデタで国家改造・軍部独裁・天皇親政(直接政治)を目指しました。
統制派は官僚や政財界と結んで合法的に国家権力を手に入れ、総力戦体制を整えることを目指します。
1935年、皇道派の相沢中佐は統制派の永田軍務局長を殺害しました(相沢事件)。
このように、両派の対立は避けられないものになっていました。
二・二六事件の発生と経過
(内務省庁舎前を占領する反乱軍兵士)
①クーデタの始まり
1936年2月26日の未明、皇道派の青年将校たちは約1500名の兵を引き連れ、重要人物の殺害による昭和維新をはかりました。
部隊は首相官邸・陸軍省・警視庁などの重要地点を占領しました。
この中で大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤実、陸軍教育総監の渡辺錠太郎らが殺害され、鈴木侍従長が重傷を負いました。
最重要ターゲットだった岡田首相は押し入れに隠れて難を逃れ、翌日脱出しました。
(岡田内閣。前列左1番目が広田弘毅外相(事件後首相)・左4番目が岡田啓介首相 出典:横浜市)
②陸軍の消極姿勢
事態を知った陸軍内部では首都での同士討ちを恐れて消極的な意見が多くみられました。
一部にはクーデタに対して同情的なものもいて意見がまとまりませんでした。
そのため、事態はクーデタ派の思惑通りに進むかに見えました。
③昭和天皇の意思
(昭和天皇 出典:Wikipedia)
事態が大きく動くきっかけとなったのは、事態に厳しく対応せよという昭和天皇の意向が軍の上層部に伝わったころからです。
天皇が自ら近衛師団を率いて反乱部隊を鎮圧するという意向を表明したことで、もはや寛大な処置はできないと腹をくくった陸軍の上層部は海軍とともに鎮圧をはかりました。
④クーデタの終わり
2月28日、クーデタ参加部隊を反乱軍とする命令が伝えられ、兵士たちにもとの部隊に戻るようにとの天皇の命令が下されました。
これを受けて翌日には部隊は解散され、クーデタが終結しました。
首謀者の青年将校たちのほとんどは投降しました。
二・二六事件の首謀者らのその後
(反乱軍将兵ら 出典:Wikipedia)
事件に参加した首謀者である青年将校ら19名は裁判の結果、銃殺刑とされ、青年将校らの理論的指導者となった北一輝は、事件に直接関与しませんでしたが死刑とされました。
そして、首相の岡田啓介は命は助かりましたが総辞職となりました。
二・二六事件の影響
(二・二六事件後に成立した広田弘毅内閣)
①統制派の強化
事件を最大限利用したのは統制派でした。
事件後の軍の人事で皇道派を次々と洋食から外し、統制派が軍の実権を握りました。
②広田弘毅内閣の成立
岡田啓介の次に内閣総理大臣に指名されたのは外交官の広田弘毅でした。
広田は内閣を作るときに閣僚の人事や軍備拡張など軍の要求を受け入れることでようやく誕生します。
軍が表立って政治に介入したのはこの時がはじめてでした。
軍の予算は3倍に増やされ、いったんは緩和された軍部大臣現役武官制が復活します。
③続く軍の介入
広田内閣が軍と対立し総辞職すると、陸軍出身の宇垣一成に総理大臣指名がきまりました。
ところが、陸軍は復活させた軍部大臣現役武官制を盾に取り、宇垣が首相になれば陸軍は大臣を出さないと言い出しました。
結局、陸軍大臣不在では内閣は作れないので宇垣は組閣することさえできませんでした。
軍による政治干渉はその後も続き、軍部独裁へとつながりました。
まとめ
・二・二六事件は陸軍皇道派の青年将校によるクーデタ事件。
・クーデタで大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤実らが殺害された。
・岡田啓介は生き延びましたが、総辞職に追い込まれた。
・首謀者の青年将校や理論的指導者の北一輝は死刑とされた。
・事件後、陸軍の主導権は統制派に移り政治への干渉が強まった。
・広田内閣は軍部大臣現役武官制を復活させざるを得なかった。
・事件後、軍の政治への干渉が続き軍部独裁につなった。