浄土真宗を信仰する門徒たちの逆襲、加賀の一向一揆。
守護大名が浄土真宗を弾圧したため加賀の門徒たちは一致団結します。
今回は、同じ信仰の下に集まった人たちの結束の強さを感じさせる『加賀の一向一揆』についてわかりやすく解説していきます。
目次
加賀の一向一揆とは
加賀の一向一揆とは、1488年に加賀の守護大名『富樫政親』が浄土真宗を弾圧したため、約20万人もの浄土真宗門徒(信徒)が立ち上がり起こした一揆のことです。
(※加賀は現在の石川県のこと)
加賀の一向一揆での勝利をきっかけに、以後100年間にわたって、加賀は浄土真宗門徒が支配する国となりました。
当時、浄土真宗は一向宗とも呼ばれていたので、浄土真宗の門徒たちによる一揆を一向一揆といいます。
加賀の一向一揆の原因と背景
(蓮如 出典:Wikipedia)
①“浄土真宗のカリスマ”蓮如の布教
北陸地方に浄土真宗を広めたのは、頭脳明晰で人間的な魅力に溢れた浄土真宗の僧、蓮如(れんにょ)。
言わずと知れた“浄土真宗のカリスマ”です。
蓮如は1471年、北陸地方に浄土真宗を布教するため、加賀と越前の境界にある吉崎に吉崎御坊という寺院を建てました。
蓮如の広めた浄土真宗は、どんな人でも“南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)”と唱えるだけで、みんな平等に極楽浄土に行くことができるという、人を差別せず、誰でも開かれた気軽な信仰でした。
そのため、貧しい農民から商人、武士、土地の有力者まで、多くの人々の間に浄土真宗はものすごいスピードで一気に広がっていきました。
②加賀にも応仁の乱の影響
(応仁の乱 出典:Wikipedia)
加賀の一向一揆が起こった背景には、身分に関係なく強い者が勝ち上がる下剋上の風潮を生み出した応仁の乱の影響があります。
応仁の乱は、室町幕府における将軍の跡継ぎ争い、守護大名・細川勝元(ほそかわかつもと)と山名宗全(やまなそうぜん)の勢力争いなどを理由に京都で始まった大規模な戦乱。
1467年~1477年の11年間にもおよぶ長い戦いとなり、全国各地にその戦乱は飛び火し、戦乱の世、戦国時代の幕開けとなりました。
ここで少し脱線。守護大名について確認しておきましょう。
守護大名とは
守護大名とは、室町幕府が各国ごとに軍事や警察の仕事をするために置いた守護の中で、頭角をあらわした人たちのこと。
彼らは、守護の権限をかしこく利用して、国内の武士を家来にして自分の国として支配しました。
戦国時代に入ると、身分の低い者が守護大名を倒して国を奪い、戦国大名と呼ばれるようになりました。
では、本題に戻ります。
戦国時代が始まるきっかけとなった応仁の乱は、北陸地方にも影響を与えました。
1474年、加賀の守護大名富樫政親(とがしまさちか)とその弟である富樫幸千代(とがしこうちよ)との間で政権争いが起こりました。
兄・正親は、弟・幸千代の勢力に押され気味で敗戦が濃厚となっていました。
そんな正親の救世主となり、戦況を盛り返す原動力となったのが、蓮如を尊敬し、吉崎御坊を信仰の拠点として活動していた浄土真宗の門徒たちでした。
同じ信仰の下、力を一つにした浄土真宗の門徒たちの戦闘力は凄まじく、幸千代を加賀から追放し、政親を見事勝利に導きました。
その後、政親は加賀を治める守護大名となり力を持ちましたが、それと同時に戦いで大活躍した浄土真宗門徒も力を増し、加賀の支配権を脅かす存在になりました。
こういう展開になってくると・・・そうです。
政親にとって、浄土真宗は邪魔な存在になるんです。
味方として心強かった浄土真宗門徒の強さと勢いが、だんだん恐怖に変わり、敵対心を持つようになりました。
③守護大名の浄土真宗への弾圧
1475年富樫政親は、弟・幸千代との戦いでお世話になったにもかかわらず、浄土真宗への弾圧を開始し、吉崎御坊に攻め込みました。
蓮如は吉崎御坊を離れ、加賀の浄土真宗門徒は隣国の越中(富山)に逃れました。
しかし、越中でも政親と手を結んだ福光城の城主石黒光義が浄土真宗門徒たちを弾圧しました。
浄土真宗の逆襲「加賀の一向一揆」の勃発&結果
加賀でも越中でも、弾圧された浄土真宗の門徒たち。
信じている宗教を否定された彼らが、弾圧されたままで黙っているわけはありませんでした。
1488年浄土真宗の門徒たちは、政親の政治のやり方に不満をもっていた加賀の国人衆(地方豪族)と手を組んで、逆襲を開始しました。
これが加賀の一向一揆です。
政親の軍勢1万に対し、浄土真宗門徒は20万人以上。力の差は歴然ですよね。
金沢の高尾城(たこうじょう)に逃げ込んだ政親は、一向一揆の門徒らに取り囲まれ、自害しました。
加賀の一向一揆のその後
(蓮如上人の銅像 出典:Wikipedia)
加賀の一向一揆で圧勝した後、建前として政親の叔父にあたる富樫泰高(やすたか)が加賀の守護大名になりました。
しかし実際は蓮如の子どもたち、蓮悟(れんご)・蓮綱(れんこう)・蓮誓(れんせい)らが加賀を治めるようになりました。
こうして、加賀に室町幕府の支配がおよばないほどの大国、浄土真宗王国が誕生しました。
この浄土真宗王国は、浄土真宗門徒には農民たちが多かったことから「百姓ノ持タル国」とも呼ばれました。
そして、この浄土真宗王国「百姓ノ持タル国」が幕を閉じるのは、1488年から約100年も後のこと。
1580年石山合戦で浄土真宗のリーダー顕如(けんにょ)が織田信長に敗れたことがきっかけになりました。
信長の家臣柴田勝家は当時、北陸における浄土真宗の最大の拠点となっていた金沢御堂(かなざわみどう)を攻め落としました。
浄土真宗門徒らは最後まで抵抗しましたが鳥越城(とりごえじょう)で力尽き、ここが「百姓ノ持タル国」の終焉の地となりました。
加賀の一向一揆の語呂合わせ
加賀の一向一揆の年号は
『一向宗の意志は末広がり(1488)』
と覚えましょう。
ポイントは、意志は=148と変換し、末広がり=8とイメージすると良いでしょう。
このほか、『IKKO(一向)の石、葉っぱで集める(1488)』もあります。
美容家でお馴染みのIKKOさんが大切にしている石を葉っぱで集めている様子をイメージすると覚えやすいです。
まとめ
・一向一揆の一向は浄土真宗のこと。
・加賀の一向一揆とは、1488年に加賀(石川)の浄土真宗門徒が起こした一揆のこと。
・原因は、加賀の守護大名富樫政親が、浄土真宗を弾圧したため。
・一向一揆後の加賀は、約100年間、浄土真宗の門徒が支配する国となった。
・浄土真宗の門徒には農民たちが多かったため、「百姓ノ持タル国」と呼ばれた。
・加賀の一向一揆の語呂合わせは、『一向宗の意志は末広がり(1488)』。