戦いが続いた戦乱の世をようやく治めた天下人『豊臣秀吉』。
しかし、秀吉は全国統一を成し遂げたおよそ2年後、再び戦いを始めます。
それが、2度にわたる朝鮮への出兵、「文禄の役」と「慶長の役」でした。
今回は、海の向こうの朝鮮半島を舞台にした戦い、「文禄の役」および「慶長の役」についてわかりやすく解説していきます。
目次
文禄慶長の役とは
文禄慶長の役とは、「文禄の役(ぶんろくのえき)」および「慶長の役(けいちょうのえき)」のことで、16世紀後半に豊臣秀吉が全国統一後、2度にわたって行った朝鮮出兵をこう呼びます。
1592年の1回目の出兵が「文禄の役」、1597年の2回目の出兵が「慶長の役」です。
ちなみに、朝鮮史では「文禄の役」は「壬申倭乱(じんしんわらん)」、「慶長の役」は「丁酉倭乱(ていゆうわらん)」と呼ばれています。
文禄慶長の役の背景・経過
(豊臣秀吉坐像 出典:Wikipedia)
①「文禄の役」はなぜ起こったのか?
1590年に全国統一を成し遂げた秀吉が次に目をつけたのが、隣の大国『明(中国)』でした。
当時、国力が弱まっていた明を大胆にも征服しようとしたのです。
なぜ秀吉が明を征服しようとしたのか?
そのはっきりした理由はわかっていません。
諸説ありますが、日本が中国を押しのけて東アジア地域のトップに立ち、貿易を支配することを目指したとも、また主君織田信長の意志を引き継いだともいわれています
まず秀吉が明征服への足掛かりとして行ったのは、朝鮮に日本への服従と協力を要求。
しかし、朝鮮はそれを拒否したため1592年秀吉は朝鮮に攻め込みました。
こうして起こったのが「文禄の役」です。
②「文禄の役」の経過と結末
(文禄の役 出典:Wikipedia)
秀吉は名護屋城(佐賀)を築き、そこを本陣としました。
宇喜多秀家を総大将に、毛利輝元・小西行長・加藤清正・福島正則・長宗我部元親・石田三成・大谷吉継らそうそうたる武将が集結。
約15万人の兵を動員し、約50万丁もの火縄銃、最新の大砲も装備した明にも負けない軍事力で朝鮮へと出兵しました。
そんな中、朝鮮出兵に参戦しなかった超有名武将がいます。それは徳川家康です。
当時、家康は秀吉の命令で沼地だらけで、とても人が住めるような場所ではなかった江戸へ左遷されていました。
家康は、その江戸の整備を理由に参戦しなかったようです。
真相はわかりませんが、家康は朝鮮出兵がうまくいかないと思っていたんだとか。さすが、のちの天下人ですよね。
さて、話を「文禄の役」に戻します。
そうそうたる大名と軍事力を備えた秀吉軍は、朝鮮の釜山(プサン)に上陸。
そして、首都漢城(現・ソウル)を占領し、さらに平壌(ピョンヤン)まで進撃・・・と、ここまではよかったのですが・・・。
秀吉軍の前に立ちはだかったのが朝鮮の民衆たちによる義兵と朝鮮の武将・李舜臣(イスンシン)率いる水軍でした。
朝鮮の水軍は船体を鉄板でおおい、亀の甲羅のような屋根と大砲を装備した亀甲船(きっこうせん)で反撃しました。
さらに中国の明軍も加わったことで、戦局は五分五分。
1593年の碧蹄館(へきていかん)の戦いでは、小早川隆景、宇喜多秀家らの日本軍が李如松の率いる明軍を破ったものの、多くの犠牲者をだし食料も底をついたため、秀吉軍の士気は上がらず休戦することになりました。
秀吉軍に応戦し、大活躍した李舜臣は今なお韓国の英雄として語り継がれています。
③「慶長の役」はなぜ起こったか?
「文禄の役」後、秀吉と明は仲直りするための講和が進められますが、交渉は決裂。
1597年、秀吉は再度、約14万の軍勢を朝鮮に出兵させました。
交渉が決裂した理由は、秀吉の出した講和条件をことごとく無視した明の態度と、明が示した『秀吉を日本国王に任命する』いう上から目線の講和内容に秀吉が腹を立てたからだともいわれています。
④「慶長の役」の経過と結末
(慶長の役 出典:Wikipedia)
秀吉が再度、朝鮮に送った約14万もの軍勢は苦戦を強いられました。
さらに戦いの最中、秀吉が病死したことで秀吉軍は再び朝鮮から兵を撤退させることになりました。
秀吉の死により、足かけ7年にわたる朝鮮出兵はやっと終えることができたわけです。
文禄慶長の役のその後
①豊臣政権の衰え
二度にわたる朝鮮出兵が豊臣政権に与えたダメージは相当なものでした。
この戦いに九州・四国・中国地方のほとんどの大名が動員されました。
宣教師フロイスの記録によると「文禄の役」の約15万の兵力のうち、3分の1にあたる5~6万人が犠牲となり、「慶長の役」ではさらにそれ以上の犠牲者をだしたそうです。
多くの兵士と膨大な戦費を無駄に費やしたことで国内の不満を増大させ、豊臣政権の力は急速に衰えました。
②朝鮮の反日感情
一方、秀吉軍から侵略された朝鮮も国土は荒れ果て、多くの民衆が戦いの巻き添えとなって命を落としました。
この戦いをきっかけに朝鮮や明の中で、強烈な反日感情が生まれたといいます。
③陶磁器文化の誕生
出兵した大名たちは、朝鮮から活版印刷術や仏像などを持ち帰っただけでなく、陶工や朱子学者なども連行しました。
李参平(りさんぺい)ら朝鮮の陶工たちは、優れた陶工技術を日本に伝え、有田焼や唐津焼、萩焼、薩摩焼などの陶磁器文化を生み出しました。
現在、佐賀県の有田町には「陶租・李参平」を称える石碑が建てられています。
文禄の役、慶長の役の語呂合わせ
「文禄の役」「慶長の役」の年号は・・・・
『秀吉が異国に(1592)出兵!超苦難(97)』
と覚えましょう。これなら2つ同時に覚えられて便利です。
さらに、文禄と慶長のどちらが先に起こったかも覚えたかったら・・・
『(理系ではなく…)、文系(文慶)の秀吉が異国に(1592)出兵!超苦難(97)』
と少し付け加えて覚えるのもおすすめです。
まとめ
・豊臣秀吉が全国統一後、2度にわたって行った朝鮮出兵の1回目を「文禄の役」、2回目を「慶長の役」という。
・「文禄の役」「慶長の役」の目的は、国力の弱まっていた明(中国)を征服すること。
・「文禄の役」では、朝鮮の李舜臣率いる亀甲船の水軍などに反撃され、撤退した。
・「慶長の役」では、苦戦を強いられる戦いの最中、秀吉が病死したことにより撤退した。
・2度にわたる朝鮮出兵で、多くの兵力と戦費を費やし、豊臣政権の弱体化が進んだ。
・出兵した大名たちが朝鮮から連行した李参平などの陶工たちが優れた陶磁器技術を伝え、有田焼や唐津焼などがつくられるようになった。