“ご法度です!”この言葉、聞いたことありませんか?
禁じられていることや、してはいけない事を言う時に使います。“ご法度”は、“法度”の丁寧語。
つまり、江戸時代を代表する法令「武家諸法度」とは、武家(大名)がしてはいけないことを示した法という意味になります。
今回は、この『武家諸法度(ぶけしょはっと)』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
武家諸法度とは?
武家諸法度とは、江戸幕府の将軍が家臣である武家たちに『守らなくてはいけない、してはいけないこと』を示した法令です。
初めて発令されたのは1615年、第2代将軍・秀忠の時です。
ただし、武家諸法度はこの1回だけではなく、基本的に将軍が代替わりするごとにその時代の情勢に合わせ修正したり、継続する形で発布されていました。
ちなみに徳川15代将軍のうち、初代の家康をのぞいて発令しなかったのは、7代将軍家継(いえつぐ)と15代将軍慶喜(よしのぶ)の2人だけ。
注意したいのは、武家諸法度の対象となる“武家”の範囲が変化することです。
5代綱吉まで武家=大名のことを指しましたが、綱吉は武家の意味を広げ、武家=大名・旗本・御家人としました。
武家諸法度が出された背景や目的
(徳川家康 出典:Wikipedia)
①家康の野望
徳川家康は、1600年関ケ原の戦いの勝利後、1603年に征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。
そして、その2年後の1605年家康は生きているうちに、息子秀忠に将軍職を譲ります。
これは政治からの引退宣言ではもちろんなく、家康は“大御所”として政治の実権を握る大御所政治を行いました。
ではなぜ家康は、将軍職についてわずか2年で秀忠に譲ったのでしょうか?
それは、“江戸幕府は徳川家のもの”、“将軍は代々徳川家が引き継いで行く”ことを天下に宣言したかったからです。
当時はまだ大阪に秀吉の子、豊臣秀頼(ひでより)がいて豊臣家の力が残っていたため、家康はいつ反撃されるのか気が気でなかったのです。
そして、1615年大阪夏の陣によって豊臣家が滅亡。
“目の上のたんこぶ”を排除することに成功した家康は、やっと本格的に“徳川一強”体制を築くスタート地点に立てたわけです。
②武家諸法度の目的
1615年大阪夏の陣によって豊臣家を滅亡させ、江戸幕府がすぐさま発布したのが武家諸法度です。
そのため、武家諸法度の発令は、夏の陣と同じ1615年です。
一般的に政権を獲得したら、次にすることは、政権の安定と維持。
家康も例外ではなく徳川幕府の安定と維持のため、各地の大名たちが反抗しないよう、大名に対する禁止事項をまとめた武家諸法度を発令しました。
反乱がおこらないよう大名の勢力を弱め、徳川幕府の安定政権を築こうとしたわけです。
当時、家康は将軍の座を秀忠に譲っていたため、第1回目の武家諸法度は、2代将軍秀忠の名で発布されました。
武家諸法度の内容
①2代将軍秀忠の武家諸法度(元和令)
1615年初めて出された武家諸法度は、大御所だった家康が将軍秀忠の名で発令したものです。
13ヶ条の決まり事が示され、起草者は臨済宗の僧侶、金地院崇伝(こんちいんすうえん)。
1615年は元号でいうと元和(げんな)1年にあたるため元和令とも呼ばれます。
主な内容は・・・・
・「文武弓馬の道、専ら相嗜むこと」
大名は学問と武芸を鍛練しなさいという意味です。大名には武士であり、国を守ることが求められました。
・「諸国の居城、修補をなすと雖、必ず言上すべし。況んや新儀の構営堅く停止せしむる事」
新たな城の築城はもちろん、幕府の許可なして居城を修理することも禁止しました。
この武家諸法度が出される1か月前、幕府は「一国一城令」も発令。
“大名一人に城ひとつ”を徹底させ、戦国時代のようにいくつも城を持ってはいけないことになりました。こうやって、大名の軍事力を削っていったわけです。
・「私に婚姻を締ぶべからざる事」
幕府の許可なく、大名同士の政略結婚は禁止しました。結婚により大名同士が連帯を深め、幕府の脅威となる反対勢力になっては困るからです。
武家諸法度に違反した大名は領地を没収され、藩を取り潰される改易、領地を別のところに移される国替えなど、厳しく処罰されました。
②3代将軍家光の武家諸法度(寛永令)
(林羅山 出典:Wikipedia)
1635年に発令された3代将軍徳川家光の武家諸法度(寛永令)。
この法令では19ヶ条の決まり事が示され、起草者は朱子学派儒学者だった林羅山(はやしらざん)でした。
500石積以上の大型船を持つことが禁止する「大船建造の禁」、そして日本史の重要語句でもある「参勤交代」が盛り込まれました。
この寛永令で大名は江戸に1年住み江戸城の警備を行い、また国元(自分の領地)に戻り1年住み、再び江戸へ…これを繰り返さなければならない参勤交代が義務化されました。
大名の妻子は、国元での生活は許されず江戸で暮らすことになりました。人質的な役割があったのです。
参勤交代は1年ごとに江戸城の警備を行うという大名に課せられた軍役でしたが、真の目的は、徳川将軍と大名との主従関係を明確にし、維持し続けることだったといわれています。
また、この江戸と国元を行ったり来たりの生活は莫大な費用が必要で、大名たちの大きな負担になったことから、参勤交代の目的が「大名たちの経済力を削ぐこと」と思われがちですが、「主従関係の確認」が本当の目的だったという説が今の主流です。
参勤交代により各地から大名たちが江戸にやって来たことで、江戸の町や街道の交通、宿場町が発展したという副産物もありました。
③4代将軍家綱の武家諸法度(寛文令)
1663年に発令された4代将軍徳川家綱の武家諸法度(寛文令)。
寛文令で、初めてキリスト教の禁止が盛り込まれました。
④5代綱吉の武家諸法度(天和令)
1683年に発令された5代将軍徳川綱吉の武家諸法度(天和令)。
対象を大名から旗本・御家人へと拡大し、旗本・御家人に対し発令していた諸士法度と統合しました。
家臣の忠誠心の厚さを示す、主君の死を後追いする殉死も禁止されました。
そのほか、元和令の第1条「文武弓馬の道、専ら相嗜むこと」を「文武忠孝を励し、礼儀を正すべきこと」に変更。
戦国時代からの流れで馬術や弓など武芸の鍛錬を重要視した江戸時代初期とは違い、綱吉は儒学の考えに基づき、学問や忠義、孝行を重んじました。
この変更は、4代将軍家綱から7代将軍家継まで行われていた学問・教育を奨励し、道徳で民を治める文治政治が背景にありました。
武家諸法度のその後
(新井白石 出典:Wikipedia)
武家諸法度は5代綱吉の天和令の後、1710年に6代将軍徳川家宣が新井白石の起草した「正徳令(宝永令)」を発令します。
1717年8代将軍吉宗の「享保令」では、正徳令(宝永令)を改訂し、再び5代綱吉の「天和令」へ戻しました。
これ以後、幕末までは、基本的に天和令が踏襲されていきました。
禁中並公家諸法度との区別
最初の武家諸法度と同じ1615年、天皇と公家の行動を制限した「禁中並公家諸法度」も発令されています。
起草者は武家諸法度と同じ金地院崇伝。
禁中とは天皇のことで、「天子は御学問のこと第一」、つまり、天皇には政治に関係のない学問や和歌の修業を進めるなど、天皇や公家が政治に関与しないようにしました。
大名にしろ、天皇にしろ、江戸幕府の支配が脅かされる可能性があるものは法令を出して徹底的にとりしまったというわけです。
禁中並公家諸法度は武家諸法度と違い、幕末まで改訂されることはありませんでした。
まとめ
✔ 武家諸法度は江戸幕府の将軍が家臣である大名たちを統制するための法令。
✔ 最初の武家諸法度は1615年、大阪夏の陣後に第2代秀忠が発令。
✔ 基本的に武家諸法度将軍が代替わりするタイミングで少しづつ改訂された。
✔ 5代将軍綱吉の時、対象を大名から旗本・御家人にまで拡大した。
✔ 1615年に発令された禁中並公家諸法度は、天皇と公家に対する法令。