今回は、明治政府の政策”廃刀令”にはどのような狙いがあったのか?この政策により士族(武士)がどのように変わっていったのか?などについてわかりやすく解説していきます。
目次
廃刀令とは
廃刀令とは、江戸時代が終わり明治維新の政策の中で1876年(明治9年)に出されました。
この廃刀令により士族(江戸時代の武士)の特権であった刀を持つ事(帯刀)が禁止されてしまいます。
刀は武士にとっては魂のようなものであった為、当時の士族たちには到底受け入れられない法令でした。
その為、明治政府に不満を抱いた士族は自分達の身分を守るために全国各地で反乱を起こす事になります。
これらの士族による反乱は最終的に西南戦争という西郷隆盛を中心とした士族と明治政府の戦争にまで発達してしまいます。
なぜ廃刀令が出されたのか?その目的は?
なぜ今まで帯刀(刀を持つ事)が当たり前とされていた士族の人たちが明治政府の政策『廃刀令』によって刀を奪われなければならなかったのでしょうか?
それは簡単にいってしまえば時代の流れにより士族の人たちを含めた一般の人々には必要なものではないと判断されてしまったからです。
①身分制度の変化
新政府となり、明治維新は様々な政策を進めていきます。
まず始めに1869年(明治2)、江戸時代まであった封建的な身分制度を廃止し、四民平等を唱えました。
これにより士農工商が廃止され、国民全員は平等となり、身分に関係なく結婚・職業・住居の自由が認められました。
②徴兵制度
そして、1873年(明治6)には徴兵令が出されます。
徴兵令とは国民に一時、軍へ所属し、訓練させる兵役制度の事です。
当時、新政府はアメリカやヨーロッパのような欧米諸国を見習い、今までの身分に関係なく国民全員から軍人を集め、外国に負けない国を作っていかなければならないと陸軍の山縣有朋という人が考えました。
江戸時代でいうところのこの軍人とは大名に仕え、国を守っていた武士の人たちでしたが、この徴兵令によって今までの士族(武士)の役割であったことが国民全員の義務になってしまったのです。
そうなると、士族という身分だからといって刀を持つ必要性がなく、刀を常に持ち歩くという行動は危険だと考えられるようになってしまった為、明治政府は1876年(明治9)に廃刀令を制定しました。
※発案者は
これにより、士族の人間は帯刀(刀を持ち歩く事)を禁止され、軍人や警察官の人間のみが所持することが出来ました。
③秩禄による財政の負担
また当時、明治政府は戊辰戦争で活躍した士族や華族たちに功労として秩禄(ちつろく)というお金やお米を支給し続けておりました。
この秩禄が国の支出の3割を占めており、明治政府にとってはとても大きな負担となっておりました。
これから近代化していくためにより多くのお金が必要だった明治政府はこの制度を1873年(明治6)に秩禄奉還の法で廃止します。これを秩禄処分といいます。
これにより、士族たちは今まで政府からもらっていたお給料がなくなってしまったのです。
このような事をすると士族から反感を買うのは目に見えていたので、反乱を抑えるために廃刀令で士族達の武器である刀を取り上げることも大きな目的の一つでした。
廃刀令・秩禄処分による士族への影響
①士族授産
秩禄処分により収入が無くなってしまった士族達は新たに職を探さなければなりませんでした。
政府もただリストラして放置というわけにはいかないので士族授産といって新しく仕事をする為にまとまったお金を貸したり、ロシアからの攻撃に備えるために北海道へ屯田兵として派遣したり、農業や工業への転職を斡旋したりと転職の支援をしました。
あるものは商業で、あるものは農業といったように新しく仕事を始めますが、今まで商売などやることのない身分だったので多くのものが失敗し、また失業してしまったそうです。
②明治6年の政変
西郷隆盛や板垣退助という人物はこのような士族達に仕事を作り出そうと征韓論を唱えます。
この征韓論とは将来、朝鮮半島に攻め込もうという計画です。
この計画に必要な軍人を失業している士族に任せる事によって士族の政府に対する不満を抑えようとしたのですが大久保利通や岩倉具視らに反対されてしまいます。
そして結局西郷隆盛と板垣退助はこれをきっかけに政府を辞職します。これを明治6年の政変といいます。
③募る士族の不満
仕事が無くなり、給料がもらえない経済的に苦しい状況に加えて、追い討ちをかけるように士族たちは廃刀令により命と同じくらい大切な刀という精神的な支えも取り上げられてしまいます。
新時代の流れによって不当な扱いを受ける士族達は明治政府へ不満を募らせていきます。
そして、不満が爆発し全国各地で反乱が起きるようになってしまいました。
元々反乱を抑えるために取り上げた刀でしたが明治政府の思惑とは反対の結果となってしまったのです。
廃刀令・秩禄処分がだされた結果『士族たちの反乱がおこる』
①各地での反乱
秩禄処分や廃刀令によって不満が爆発した士族達は各地で反乱を起こします。
どのような反乱が起こったのでしょうか?
佐賀の乱
西郷隆盛の征韓論が反対されたことによって江藤新平が1874年(明治7)に起こした反乱です。
大久保利通が率いる政府軍によって鎮圧されます。
神風連の乱
明治政府の西洋化への動きと廃刀令に反対して熊本県にある敬神党が1876年10月に起こした反乱です。
相手方の指令長官の殺害に成功しますが結局鎮静化されました。
秋月の乱
1876年10月、熊本の敬神党に同調して福岡の旧秋月藩士達が起こした反乱。
敵から奇襲を受けてしまい、11月には政府軍によって鎮静化されてしまいます。
荻の乱
神風連・秋月の乱と同じく1876年10月に山口で起こった反乱です。
前原一成という人が中心人物で神風連の乱に同調し、旧長州藩士を率いて政府軍と争いました。
政府軍が最終的に鎮圧したのですが、時間が掛かり、77名もの死者がでました。
②西南戦争の勃発
上述のように各地で反乱が続いたのですが、いずれも政府軍によって鎮圧されてしまいました。最後に士族たちが期待したのが辞職後、鹿児島で過ごしていた西郷隆盛でした。
西郷隆盛は鹿児島で私学校を設立し、行き場がなく不満がたまった士族達に漢文や兵法など教養を教えていました。
士族達にこうして力をつけてもらうことで新政府の中でも活躍できる人材を育てあげようとしていたのです。その為、当初は政府に対して歯向かう姿勢などありませんでした。
しかし、政府側からスパイが送られていること等が発覚し、さらに政府に不信感をもった士族を抑えることができず、総大将となって日本最後の内乱西南戦争を起こします。1877年(明治10)1月の事です。
西郷軍VS政府軍
当初、西郷軍は3万で政府軍は6万という倍の差があったのですが私学校で士族達を鍛えてきたことや西郷の統率力もあり、戦争は長期化しました。
しかし、やはり数の上で優位にあった政府軍は熊本城、田原坂での戦いを経て、次第に西郷軍を追い詰めていき最終的には西郷が自決をし、戦争は終結しました。
これだけ人望や実力のある西郷でさえ政府には敵わなかったのですから西南戦争以降は反乱を起こす士族は起こらなかったといわれています。
こうして士族という身分は時代の流れによって次第に消えていきました。
まとめ
・秩禄処分によって士族は失業してしまい、次の職探しをするも上手くいかなかった。
・西郷隆盛は征韓論を唱えるも、反対され辞職してしまう。
・経済的にも苦しい中、廃刀令が出され魂である刀も士族は奪われてしまう。
・新政府の政策に不平を持った士族は各地で反乱を起こす。
(佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、荻の乱)
・最後に西郷隆盛が西南戦争を起こすが政府軍に敗れる。