「平家物語」で知られる平氏の滅亡を決定づける戦いが壇ノ浦の戦いでした。
その壇ノ浦の戦いのきっかけを作ったのが、屋島の戦いです。
今回は、そんな『屋島の戦い(やしまのたたかい)』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
屋島の戦いとは?
(扇の的『平家物語絵巻』 出典:Wikipedia)
屋島の戦いとは、平安時代末期に讃岐国屋島(現在の香川県高松市)で行われた戦いことです。
治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)という6年間に渡る大規模な内乱である、治承・寿永の乱の戦いの一つとして知られています。
この戦いで平氏は天皇との関係を断絶され、勢力を失いました。そして、その後平氏の滅亡を象徴する壇ノ浦の戦いへとつながります。
また、この戦いでは「平家物語」の名場面で知られる那須与一の扇の的を射るというエピソードが有名ですね。
さらに源義経が奇襲をかけたり、義経軍の武士たちが力を振るったことが伝えられており、義経のリーダーシップぶりが語られています。
屋島の戦いの背景
(屋島古戦場 出典:Wikipedia)
屋島の戦いの背景には、何があったのでしょうか。
①治承・寿永の乱
治承・寿永の乱は、後白河法皇の第三皇子である以仁王が挙兵したことをきっかけに各地で平氏政権に反対する乱のことです。
反乱勢力同士の戦いもありましたが、結局は平氏の崩壊につながり、源頼朝が率いる関東政権(鎌倉幕府)の樹立に至りました。
この乱の中で平氏政権を築いた平清盛は死亡。また、平氏と対立した源氏側も源頼朝と源義仲の争い(宇治川の戦い)があり、義仲が滅亡します。
その後、一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと続き、平氏の滅亡と源氏政権の確立へとつながります。
そして、この戦いは「平家物語」「吾妻鏡」「源平盛衰記」といった本の中で、今でも語りづかれていきます。
②宇治川の戦い
治承・寿永の乱の中で、多くの戦いがありました。宇治川の戦いもその一つ。
宇治川の戦いは、平氏と対抗していた源氏内部の争いでした。
1184年1月、京都の宇治(現在の宇治市)で源頼朝・範頼・義経側と源義仲(木曽義仲)軍との戦いが行われました。
頼朝と義仲が、平氏と対立する後白河法皇との関係を築く中で、最後には頼朝が後白河法皇の信頼を得て義仲を討つという結果で終わりました。
③一の谷の戦い
宇治川の戦いで源氏内部が争い、その間平氏は勢力を立て直します。
平氏は瀬戸内海を制圧し、中国と四国と九州を支配しました。そして、摂津国福原(現在の兵庫県神戸市)に拠点を置きます。
そこへ、後白河法皇が平氏から三種の神器を奪うべく源頼朝に命令を下します。
(三種の神器の予想図 出典:Wikipedia)
そして、1184年3月に摂津国福原と須磨(現在の兵庫県神戸市)で、平氏と源氏が戦ったのが一の谷の戦いです。
この戦いで平氏の主要な武将が討たれ、源氏の勝利に終わりますが、肝心の三種の神器はまだ平氏側が持っていました。
そのため、戦いが続くことになります。
屋島の戦いの内容
(屋島の戦い関係図 出典:Wikipedia)
一の谷の戦いの後、平氏は讃岐屋島に拠点を置き、そこで屋島の戦いが起こりました。
どのような戦いだったのか、見ていきましょう。
①義経軍、屋島へ進軍
(源 義経 出典:Wikipedia)
1185年2月、源義経は後白河法皇の許可を得て、摂津の渡邊津(わたなべのつ 現在の大阪市中心で瀬戸内海沿岸で最大の港湾)に兵を集めます。
わずか5艘150騎で出航し、阿波国勝浦(現在の徳島県勝浦町)に上陸。義経は地元の武士を味方につけてます。
その頃、平氏は伊予国(現在の香川県)に兵を出しており、屋島は手薄となっていました。
それを知った義経は好機と考えて軍を進めます。
まずは地元の平氏方豪族の屋敷を襲い破って、屋島へと進軍しました。
②那須与一「扇の的」
義経は兵が少ないことを悟られないために、民家に火をつけて平氏に大軍と思わせます。
海からの襲撃を予想していた平氏は慌てて拠点を捨て、壇ノ浦浜付近の海上に逃げます。
船を岸に寄せて、平氏軍は矢戦をしかけてきます。
夕刻になり、休戦状態となった時に平氏側から美女を乗せた一艘の船がやってきます。
竿の先に立てた扇の的を射よという挑発をし、義経の命により下野国(現在の栃木県)の武士那須与一が的を射る役となります。
(那須与一 出典:Wikipedia)
与一は見事に扇の柄を射抜き、扇は空に舞い上がって春風にしばらく揺られて、さっと海に落ちます。これが「平家物語」の名場面「扇の的」です。
③平氏が彦島へ退く
その後、平氏軍は上陸を試みますが、義経が80騎を率いて撃退します。
この際に、わずか15騎を率いた義経軍の武士が平氏軍の3000騎を破ったという話が残っています。
しばらくすると、渡邊津から出航した源氏側の武士梶原景時が率いる大軍が迫り、平氏は山口県にある彦島に退くことになりました。
(梶原景時 出典:Wikipedia)
こうして平氏の四国における拠点はなくなりました。
源氏の源範頼は九州を制覇しており、平氏は彦島に孤立状態となります。
屋島の戦いのその後
(壇ノ浦の戦い 出典:Wikipedia)
屋島の戦いで彦島に閉じ込められた状態の平氏ですが、その後どうなったのでしょうか。
①壇ノ浦の戦い
屋島の戦いの後、治承・寿永の乱最後の戦いが壇ノ浦の戦いです。
戦いは1185年4月に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われました。
当初、潮の流れが激しい壇ノ浦での戦いは水軍の扱いに慣れている平氏が優勢でしたが、その後、潮の流れが変わり、それが義経軍に有利に働きました。
猛攻撃をかける義経軍に、平氏軍は壊滅状態。戦況を見て取った武士たちが次々と海に身を投げ始めました。
幼い安徳天皇も母である建礼門院(けんれいもんいん)と祖母の二位尼(にいのあま)とともに、海に身を投げた話は有名です。
(壇ノ浦で沈んだ平氏の亡霊を描いた浮世絵 出典:Wikipedia)
②平氏の滅亡
壇ノ浦の戦いで平氏の多くは海に身を投げてなくなりましたが、源氏の捕虜となったものもいました。
安徳天皇の母である建礼門院も海に身を投げましたが、源氏側に捉えられてしまいます。
その際に、三種の神器のうちの二つ八咫鏡(やたかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は回収されました。
三種の神器の残り一つである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、安徳天皇とともに海に沈みました。
こうして、平氏は滅亡します。
「平家物語」にも語られているように、天皇とも関係を結び天下を取った平氏があっという間に滅びるという話は今でも教訓的に語られます。
現代では小説やドラマ、漫画などにもなるほど語り継がれている有名な物語なのです。
③源氏 頼朝と義経の争い
こうした平氏と源氏との戦いの中で、源頼朝は後白河法皇との関係を深めて、支配力を増して行きました。
一方、弟の義経は平氏に対して勇敢に戦ったのですが、その傲慢で独断的な態度が頼朝の怒りに触れてしまいました。
義経は壇ノ浦の戦いの後、捕虜を連れて京都に戻ります。
そこで後白河法皇が義経の戦いを賞して、義経とその配下の御家人たちを任官させました。
しかし、これに頼朝は激怒。任官された者は関東に帰ることを許しませんでした。
義経はそれに反して鎌倉へ帰ろうとしますが、京都へ戻され、その後、後白河法皇の後ろ盾をなくした義経は奥州平泉(現在の岩手県)に逃げ、そこで殺されてしまいます。
そして、1192年、頼朝は鎌倉幕府を開き、武家政権を確立させることになりました。
まとめ
✔ 屋島の戦いは、1185年2月に讃岐屋島で平氏と源氏が争った戦いである。
✔ 屋島の戦いは、1180年から1185年に渡った治承・寿永の乱の戦いの一つである。
✔ 戦いの中で、源氏の武士那須与一が平氏側の扇の的を射る有名なエピソードがある。
✔ 屋島の戦いにより、平氏は彦島に孤立し、壇ノ浦の戦いにつながる。
✔ 壇ノ浦の戦いで平氏は完全に滅亡する。
✔ こうした源平の戦いの後、源頼朝は義経を殺害し、1192年に鎌倉幕府を開く。