やっぱり、何かに成功して驕っている人を見ると将来のことが心配になるかもしれません。
実際問題、この時代の平氏などは権力を持って驕ってしまったがために都落ちをしてしまうこともありました。
しかし、驕っていた人は何も平氏だけではありません。源氏にも驕ってしまったがために没落してしまった武将がいたのです。
今回はそんな驕りが招いた悲劇『宇治川の戦い(うじがわのたたかい)』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
宇治川の戦いとは?
(宇治川先陣の碑 出典:Wikipedia)
宇治川の戦いとは、1184年に起こった木曽義仲と源義経との間で起こった戦いのことです。
この当時木曽義仲は京都を手に入れ実質的な天下人でしたが、この戦に負けた事によって木曽義仲は失脚。
その後近江で討ち死にする結果となってしまいました。
宇治川の戦いまでのあらすじ
(源義仲(木曾義仲)像 出典:Wikipedia)
①木曽義仲の上洛
治承・寿永の乱も佳境を迎えた1183年。
この年木曽義仲は以仁王の手紙を元に挙兵を起こし、出身地である信濃から北陸道を通り、京都に向かっていました。
もちろん平氏としてもこの動きをなんとかして止めなければなりません。
そして追討しにやってきた平氏と義仲の軍は富山と石川の県境にある倶利伽羅峠にて対決。
この戦いにて義仲は家臣による奇襲攻撃や卓越した山岳戦により平氏に大勝。平氏の勢いを潰し6月には破竹の勢いで京都の入り口である比叡山に陣を構えるまでとなりました。
ここまでくれば平氏としてももはやどうしようもなく、平氏は安徳天皇と三種の神器を持ち出して京都から脱出。
義仲はそれに入れ替わるかのように京都に上洛し、平治の乱以降虐げれられていた源氏の旗を立てる事に成功し、義仲は実質的な天下人となったのでした。
②義仲の焦り
こうして上洛し天下人となった義仲。
しかし、これによって義仲は天下人としてもおごり高ぶるようになり、徐々にその勢いをなくして行きました。
そんな義仲の最大の失敗が朝廷に対する対応でした。平氏の時代は天皇を擁立して平氏はその影の支配者として君臨していましたが、義仲の方といったら元々木曽谷出身だったためそんな朝廷に対する対応には慣れていません。
さらに京都におけるマナーも慣れていなかったため徐々に朝廷から嫌われていくようになりお払い箱に。
さらにトドメと言わんばかりに9月には源氏の棟梁の息子である源頼朝が上洛する噂が流れ朝廷はそれに持ちきりとなってしまいます。
(源頼朝 出典:Wikipedia)
源頼朝といえば元々幼少期は京にいたため義仲とは違い都におけるマナーもなっていますし、さらに頼朝は当時飢饉に見舞われていた平安京に対して食糧の供給を行うとなると期待の目はどんどん義仲から頼朝に変わっていく事になりました。
③義仲最大の失敗法善寺合戦
義仲の対応がどんどん粗雑になっていき義仲はどんどん焦っていくようになります。
さらにいえば京都では飢饉が起こっていたため義仲軍の兵士たちによる略奪が横行。朝廷だけではなく民衆からも見放されてしまいます。
絶体絶命の義仲。もしも頼朝が上洛すれば義仲の立つ瀬がありません。
さらに後白河法皇は寿永二年十月宣旨を発令し頼朝の朝敵認定を取り消しある程度の権力を与えたのもあり、義仲は史上稀に見る大暴挙に打って出てしまいます。
それこそが当時一応院政を行って朝廷のトップ出会った後白河法皇を脅して幽閉した事でした。
義仲からすれば法皇を幽閉する事によって朝廷を意のままに操れるようになると思ったはずですが、法皇に対して幽閉を行うといのは前代未聞。
この幽閉のことを法住寺合戦というのですが、この戦争によって目論見通り義仲は後白河法皇を幽閉。自らは征夷大将軍に就任して源頼朝の追討命令を無理矢理後白河法皇から引き出したのでした。
しかし、この横暴な振る舞いによって義仲の人望は失墜。離脱兵も続出してしまい上洛した時とは打って変わって劣勢と追い込まれてしまいました。
④宇治川の戦いの始まり
こうして法皇を幽閉してある程度の権威を保った義仲でしたが、このことは余計に頼朝にとってはチャンスとなってしまい、頼朝はこの機を逃すことなく自身の弟である源義経と源範頼の大軍を京都に派遣しました。
(源義経 出典:Wikipedia)
義仲はこれに対して恐れおののきなんとかして京都から脱出し、是が非でも故郷木曽路に帰らなければなりません。
義仲は最後の賭けとして平氏と講和して頼朝と対抗しようとしますが失敗。
さらには法住寺合戦の時によりにもよって比叡山延暦寺のトップを殺すという大失態を犯したこともあって北陸道を通るのであれば必ず通過しなければならない比叡山を通ることができなくなってしまいました。
こんな危機的状況になってしまった義仲でしたが、義経の軍は刻一刻と京都に向かって来ています。
義仲はこんな状況でもなんとか付き添ってくれた1000人の兵士とともに最後の戦いに挑む事になったのです。
宇治川の戦いの全容
(宇治川の戦い 出典:Wikipedia)
①宇治川の戦いの始まり
義仲はどうにかして義経の軍に対応しなければならななくなってしまいましたが、当時京都には2つの防衛ラインが存在していました。
それが比叡山と宇治川です。
比叡山といえば山であり、平安京を守護している重要な拠点の一つですが、上にも書いた通り義仲はここを使うことはできません。
そこでもう一つの防衛ラインである宇治川が活躍する事になるのですが、もちろんそのことは義経もよくわかっています。
義経は軍を二つに分けて義仲軍を包囲する形に打って出ます。
義仲軍はいかんぜん少なくその兵力差は圧倒的だったためこの戦いはもはや出来レースとなってしまいました。
②宇治川の先陣争い
(宇治川先陣争図 出典:Wikipedia)
宇治川の戦いの戦いを語る上で欠かせないのが佐々木高綱と梶原景季による先陣争いです。
先陣争いというのは簡単に言えば一番槍を上げることであり武士としては名誉ある行為でした。
さらに佐々木高綱と梶原景季の間には馬を巡るちょっとしたトラブルもあり、両者の仲はあまり良くありませんでした。
そして始まった宇治川の戦い。この戦いにおける先陣は宇治川を渡りきることでしたため、両者とも宇治川に入りなんとか泳ぎ切る事に必死でした。
両者一歩も譲らないデットヒート。そんな中佐々木高綱は梶原景季に対して「帯が少し緩んでいるから直したら?」と助言。
しかし、この助言は実は嘘。この助言によって少し油断した隙に佐々木高綱が一気に宇治川を渡りきり見事に先陣を奪い取りました。
こんなこすいことをやっているうちに宇治川の戦いは一気に義経優勢となり、宇治川の戦いは義経軍の圧倒的な勝利にて終結しました。
宇治川の戦いのその後
(現在の宇治川 出典:Wikipedia)
宇治川の戦いの後義仲は最後の賭けとして後白河法皇を拉致しようとしましたがこれも失敗。義仲は失意のうちに近江から自身の故郷である木曽谷に退却します。
その後、義経によって保護された後白河法皇は正式に義仲追討を命令。大軍をもって義仲を追撃します。
こうなったらもうどうしようもない義仲。
義仲は近江の粟津という場所で自害しようとしますが、その時に放たれた矢が義仲の額に命中してしまい義仲は討死してしまいます。
義仲軍の今井兼平始め有力な武将も次々に討死してしまい、義仲の戦いは終わりを迎えました。
義仲が上洛したのが1183年の7月。そして宇治川の戦いが起こったのが1184年の1月。
つまり義仲の天下は僅か5カ月というまさしく三日天下とも呼べるものだったのです。
まとめ
✔ 宇治川の戦いは1184年に起こった源義仲と源義経との間に起こった戦のこと。
✔ 宇治川の戦いが起こる直前、義仲は法住寺合戦を行い法皇を幽閉したことによって人望を失っていた。
✔ 宇治川の戦いでは梶原景季と佐々木高綱による先陣争いが行われた。
✔ 戦いの後義仲は近江の粟津にて討死した。