上野戦争は、東京の上野で行われた旧幕府軍と新政府軍の間の戦闘です。
戊辰戦争の中の一つで、この戦闘では新政府軍は大勝をおさめ江戸付近を完全に掌握した一方、旧政府軍は東北へと追われることとなります。
今回はそのような『上野戦争』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
上野戦争とは?
(上野戦争 出典:Wikipedia)
上野戦争とは、1868年(慶応4年)の7月に起きた戊辰戦争の中の戦いのことです。
なお戊辰戦争とは、1868年から1869年にかけて生じた旧幕府の主戦派一派と奥羽越列藩同盟らによって形成された旧幕府軍と薩摩・長州・土佐藩が軸となって形成された新政府軍による戦争です。
結果から言うと新政府軍が勝利し、明治政府が作られる事となります。
新政府軍1万人と彰義隊4千人によって戦いが行われましたが、新政府軍側の攻撃により彰義隊は一日で壊滅。
これにより、旧幕府軍は関東を追われる事となります。
そして戊辰戦争の舞台は奥羽越列藩同盟との間で起きた東北戦争や最終局面となった函館戦争へと移っていく事となります。
上野戦争が起こった背景
上野戦争の背景には、旧幕府が新政府軍との間で生じた戊辰戦争の局地戦に次々と敗れていった事があります。
①旧幕府軍の度重なる敗戦
1868年に鳥羽・伏見の戦いによって火ぶたが切られましたが、人数で上回っていたはずの旧幕府軍は混乱の中であっけなく敗れてしまいます。
総大将であった徳川慶喜は大阪城から撤退し、旧幕府軍が戦への大義名分を失い規模が縮小していきました。
新政府軍側により旧幕府軍は朝敵とみなされ、各藩が新政府軍の傘下に収められていきます。
そして新政府軍側によって江戸への総攻撃が計画されました。
幕府側は主戦派の榎本武揚らの意見を抑え、幕府側代表の勝海舟と政府側の総司令官であった西郷隆盛によって会談が行われ、結果的に江戸城無血開城が決定します。
これにより江戸での戦火は避けられる事となりましたが、旧幕府側とすれば無抵抗で本城を明け渡してしまったために各藩への影響力は格段に低下し、その後の戦闘内で圧倒的な劣勢を強いられる事となります。
また、徳川慶喜は上野にて軟禁される事となりました。
勿論、無血開城だけで戦争が終わったわけではありませんでしたが甲州勝沼の戦い・船橋の戦い、宇都宮城の戦いで新政府軍は旧幕府軍を打ち破っていきます。
②彰義隊の結成
数々の戦に敗れていた旧幕府側でしたが、依然として抗戦派の幕臣は多くいました。
そのような中で渋沢成一郎や天野八郎といった一橋家の家臣団により彰義隊が結成されます。
彰義隊は旧幕府側からも無血開城後の江戸市内の治安維持・警護を行う事を命じられていました。
しかし、結成時の主要幹部であった渋沢は徳川慶喜の謹慎場所が水戸に変わったことを機に上野からの撤退を考えますが、強硬派であった天野と意見が反目し渋沢が離脱します。
以後、天野が彰義隊の中心となり新政府への明確な反抗的姿勢を示すようになります。
元々徳川慶喜が軟禁されていた場所である上野の寛永寺に終結し、輪王寺公現入道親王を擁立して抗戦の意を表明しました。
それだけではなく実際に新政府軍の兵士への殺傷事件などを引き起こします。
江戸城無血開城の立役者であった大総督府司令官であった西郷隆盛は、彰義隊の懐柔を試みましたが達成できず、むしろ対応が宥和的になってしまった事もあって司令官の任を解任されます。
そして薩摩出身の西郷隆盛から変わって長州出身の大村益次郎が新たに新司令官となります。
(大村益次郎 出典:Wikipedia)
上野戦争の内容詳細
(上野戦跡 出典:Wikipedia)
新政府軍側として彰義隊の動きは見逃せるものではなく、大総督府(新政府軍により組織された倒幕軍の臨時司令部)により各藩に対して旧幕府軍の討伐を命じる事となります。
新たに司令官として着任した大村益次郎は、慎重派であった海江田信義らの意見を制して上野で彰義隊を壊滅させることを計画します。
大村益次郎は上野を封鎖して、包囲戦を行う形としました。
彰義隊の退路が一つになるように中山道などの交通網を遮断するだけでなく、三方に兵を配備する形としました。
これは大村が立案した彰義隊壊滅を確実に行うための戦術だったとされています。
旧暦の5月15日、新政府軍は宣戦布告を行い正門である黒門口などで旧幕府軍との軍事衝突が生じます。
佐賀藩所有のアームストロング砲を借り受けていた新政府側は砲撃を行うとともに、正門である黒門から攻め入ります。
(アームストロング砲 出典:Wikipedia)
攻め込む中で彰義隊の背後を新政府軍がとる形で挟撃する形となり、結果彰義隊を殲滅させることに成功します。
午前7時に開始し、午後5時にはほぼ終結するなど新政府軍が圧倒した戦いとなりました。
上野戦争のその後
(上野公園内にある彰義隊の墓 出典:Wikipedia)
①新政府軍と幕府のその後
上野戦争の結果、彰義隊はほぼ壊滅します。
そして、関東において旧政府軍の力は著しく低下し、新政府軍は江戸から西までを掌握する事となります。
旧幕府軍は奥羽越列藩同盟を中心として結成された旧幕府軍によって東北戦争が生じますが東北戦線においても新政府軍の勢いを止める事は出来ず、最終的には函館五稜郭にて函館戦争が起きます。
結果、旧幕府軍は敗れ戊辰戦争は終結する事となります。
②彰義隊のその後
彰義隊はほぼ壊滅しましたが、残党の一部は北陸や会津などに逃れてその後も新政府軍と戦闘を繰り返していきます。
戊辰戦争の最中、残党は厳しく処罰される事となります。
彰義隊を率いた天野八郎は投獄され、肺炎によりすぐに死去。また新政府軍の追及により家族へ迷惑がかからないようにするために上野にて戦死したことにした武士もいたとされています。
なお戊辰戦争後には隊士の身分が自由となり、中には明治政府の役人として登用された人物もいたとされています。
実際、彰義隊の創設者であった渋沢成一郎は従弟である渋沢栄一のツテで大蔵省に入省するなどしています。
亡くなった隊士ははじめ賊軍とされていたため、目立つような供養はされていませんでした。
1870年代になり元隊士らによって墓が建立され今に至ります。
まとめ
✔ 上野戦争は戊辰戦争の中で行われた局地戦の一つであり、旧幕府軍と新政府軍によって戦闘が行われた。
✔ 旧幕府軍の中心は彰義隊と呼ばれる組織であった。
✔ 大村益次郎が新政府軍の司令官を務め、彰義隊をほぼ壊滅させた。
✔ 上野戦争後、旧幕府軍は東北や函館にて戦闘する事となった。
✔ 上野戦争後、彰義隊の隊士は厳罰に処されたが、戦争後に明治政府の役人になるケースもみられた。