【徳政令とは】簡単にわかりやすく解説!!目的や内容・影響・その後など

 

日本の歴史の中で時々でてくる“徳政令”という言葉ですが、一言でいえば、「借りたお金を返さなくてもよいですよ」という借金帳消しの法令になります。

 

聞いたことがある!という人も多いと思いのではないでしょうか?最近では大河ドラマの中でも出てきましたね。

 

ただし、この徳政令は時代などにより内容が変わってきます

 

今回はこの『徳政令』について、時代背景とともに簡単にわかりやすく解説していきます。

 

徳政と徳政令

 

まず注意したいのは、【徳政】≠【徳政令】で、本来はまったく同じ意味(イコール)ではないということです。

 

「徳政」というのは、元々「徳のある政治」を表す言葉です。

 

政治を行う人:為政者(日本でいえば古代~中世までは主に天皇)の代替わり、または災害などを期に元号を変えたりする際に行う貧民救済活動などの、特別な社会政策を行うことを指していました。

 

昔の元号変更は君主交代時、吉事の理由や凶事の影響を分断する為など色々あったようです。

 

それが、鎌倉期以降くらいからは「徳政令」などの救済処置を行う政治改革自体のことを指すようになっていきます。

 

古代~中世の徳政

 

 

この段階では、異常な自然現象。

 

例えば、大地震などからひきおこされる災害、天候不良からの凶作から起こる飢饉など際に、農民への税を免除したり、刑罰を緩和するなどの特別な仁政(為政者が人々をいたわり慈しむ政治)を行うことを「徳政」として表していました。

 

鎌倉時代の徳政令

(北条貞時像 出典:Wikipedia

 

 

この時代に「徳政令」として最初に出されたのが、有名な「永仁の徳政令」(1297年)となります。

 

 

時の為政者である鎌倉幕府9代執権 北条貞時が出したのですが、これは、幕府が御家人を救うために出した法令でした。

 

①徳政令の背景

元寇(1274年:文永の役/1281年:弘安の役)による戦をなんとかしのぎ、戦った御家人たちですが、この戦いでは他国から攻めてきた相手を退けたにすぎず、相手から土地等何も奪うことは出来ませんでした。

 

 

幕府のために身をつくし奉公をした御家人に対して、御恩として与えるべき恩賞が何もなかったのです。

 

戦いに赴くために土地を質入れしたりし費用を捻出していた中小の御家人たちは生活が苦しくなっていきます。

 

封建制度の基盤であった御恩と奉公の関係が揺らいでいったのです。

 

また、鎌倉初期からの分割相続により、領地はどんどん細分化され、世代が下がるにつれて一人当たりの領地も小さくなっていました。

 

兄弟で平等に分けていったのですから、当然といえば当然ですが…こうした事態を何とかしようと幕府が出したのが「徳政令」でした。

 

②徳政令の内容と効果

徳政令の内容は以下の通りです。

 

徳政令の内容

 御家人が、20年以内に質入れや売却した所領(土地)は元の持ち主に無償で返却しなさい

 御家人の関係する所領についての訴訟は受け付けません

 

上記の内容を命じ、同時に御家人にも所領の質入れなどを禁じました。

 

お金を貸した側からすればとんでもない命令でした。

 

完全に借金を踏み倒されたのですが、商人は武力で武士には勝てませんから、逆らうことも出来なかったのです。

 

しかし、その効果は一時的なものでしかありませんでした。

 

当然のことながら、その後金融業者(借上など)は徳政令を恐れてお金を貸さなくなってしまい、土地の質入れも出来なくなった御家人の生活はさらに苦しくなっていったのです。

 

このことが、鎌倉幕府滅亡へと繋がる一因となってしまったとも言われていますが、御家人を助けるために出した法令が、幕府全体の信用を失墜させてしまった結果ということになります。

 

鎌倉末期には建武の徳政令というものが出されますが、これは御家人だけに適用されるものではなかったようです。

 

(幕府滅亡後1334年なので)後醍醐天皇が新政の一環として、借用の帳消しもちゃっかり入れたような内容みたいですが、これもやはり金融業者が損をするものだったのです。

 

室町時代の徳政令

 

 

室町期に入ると、「徳政令」は民衆から権力者(幕府など)に要求して出してもらうものになってきました。

 

当時農民などは金融業者から多額のお金を借りていたそうですが、貨幣経済の発達により、モノを購入するために商人から借りたお金の利子が半端ではなかったり、天災や飢饉などで翌年の種籾を購入する必要があったりなど、様々な理由があったようです。

 

また、この頃は農民らの自治連携意識が非常に高まり、惣(農民の自治組織)が発達していきます。

 

その上、当時は不動産などの所有権は売買が行われたとしても、本来は元の所有者が持っているものであるという観念が存在していたので、あるべき姿(元の所有者が所有)に戻すことは正しい行い(徳政)だとした結果、「徳政令」を要求することは当然の権利であると考えていくようになるのです。

 

そこで、「一揆:民衆の連帯組織」を形成し、権力者に政治的要求を行う土一揆(どいっき/つちいっき)が行われるようになってゆくのですが、ほとんどが徳政実施の要求だったため、徳政一揆と呼ばれることもあります。

 

ちなみに「土」とは、当時の農民のことを「土民」と称したことからとなります。

 

各地で色々発生したのですが、特に代表的なものを2つ簡単に紹介します。

 

①正長(しょうちょう)の土一揆

1428年 近江の馬借(馬を使った輸送業者みたいなもの)たちを中心とした「馬借一揆」をきっかけに近畿一円の農民が徳政令を求めたものです。農民からの初の一揆だったということです。

 

凶作や流行病の上、当時将軍の代替(義持から義教)があり、代替わり徳政を出してほしいという要求でもありました。

 

この時幕府は「徳政令」は出さなかったようですが、一部の権力者(大和国:興福寺)はその所有国に限り「徳政令」を出したと記録に残っています。

 

②嘉吉(かきつ)の徳政一揆

1441年 嘉吉の乱で将軍義教が暗殺された政治混乱から、代替わりの徳政を求めて京都や近江の周辺で発生した土一揆のことです。

 

 

支配者側の対応の悪さから事態がますます混乱した為、幕府はその要求を受けざるを得なくなります。

 

いずれの時代も何かコトが起きた際には、為政者の初期対応が大変重要になるということですね。

 

正長では正式に「徳政令」を出さなかった幕府が、この一揆ではその要求に応じたことにより、室町幕府自体の権威は大きく傷ついてしまいます。

 

戦国時代の徳政令

 

 

この時代では、徳政令は戦国大名がそれぞれ領内を収めるための政治的手段の一つという色合いが強くなっていきます。

 

例えば・・・

相模:北条氏康…領国で飢饉が発生した際に、息子に家督をゆずり代替わりのお祝いとして出す。

甲斐:武田信虎…土一揆は発生してなかったが、領国内の自然災害が重なったため、独自に出す。

など、金融業者泣かせではありますが領国の民の救済などのために各為政者の政策として活用されていたようです。

 

そのような中で、2017年の大河ドラマでもありました、井伊直虎も徳政令に関係していたようです。

 

当時、井伊家領内の農民も他国同様苦しい生活をしており、領主である直虎に「徳政令」を出すよう懇願します。

 

上記の相模や甲斐のように、簡単に出せれば良かったのですが、当時井伊家は非常に貧しく、農民同様に金融業者から多額の借金をしておりました。

 

徳政令を出すことは、農民の助けにはなるかもしれませんが、金融業者が困ります。

 

金融業者が困ると井伊家にお金を貸せなくなり井伊家が潰れることにもなりかねません。よって農民の要求をのむことが出来なかったのです。

 

農民は徳政令を出してくれない井伊家に頼るのをやめ、さらに上の今川家を頼ります。

 

その結果、今川家から「徳政令」を出すように要求された井伊家は、命令を聞かねば主家である今川家と争いになる、また命令を聞けばお家が潰れるかもしれない…と窮地に立たされるのでした。

 

大河ドラマを見た人は結末を知っていると思いますが、「徳政令」について詳しく知ってから内容を聞くとまた理解度が違うのではないでしょうか?

 

結論からいうと、今川家の要求をうまくかわしながら、2年後に「徳政令」を出しますが、その間に金融業者といろいろ策を講じて、井伊家は潰れずに済んだのです。

 

このように各大名が領国を統治する手段の一つとして「徳政令」をうまく使ってきたようです。どんな手段でもそれを使う為政者の力量が必要だったのは言うまでもないようですね。

 

徳政令のその後

「徳政令」を調べると鎌倉時代~室町時代と出てくることが多いのですが、ではその後はどうでしょうか?

 

実は似たような法令はその後も出てくるのです。

 

①棄捐令(きえんれい)

江戸時代に入ると、「棄捐令」と呼ばれる法令がでています。

 

 

これは寛政の改革の一環として松平定信がだした法令になります。

 

 

幕府直属の家臣になる旗本や御家人は札差に借金をしていました。

 

そこでその借金を、5年以内のものは帳消しにまた5年以上のものは利子を下げるようにと札差に命令したものです。

 

こちらも一時的には楽になったようですが、後に旗本も御家人もお金が借りられなくなり、生活にさらに困窮してしまったようです。

 

内容は少し異なりますが、直属の家臣を救うために…という点では鎌倉期の「永仁の徳政令」に一番似ていますね。

 

「棄捐令」は後の江戸期の諸改革の中では佐賀藩など諸藩にも出されていたようです。

 

②現代の徳政令

現代における似た法令といえば、個人のレベルでは「自己破産」や「過払い金」などの法令が考えられますが、いずれもその後の信用問題にかかわるので、避けるに越したことないでしょう。

 

国レベルでいえば、韓国では「徳政令」が行われています。国単位での借金棒引き制度となり、政権交代時に過去3回くらい実施されているようです。

 

またデフォルト(債務不履行)は国が外国から借りた借金を返済しない、というものになりますがこれも似ているかもしれません。

 

近年では2015年ギリシャが有名ですが、いずれも国家レベルで信用が失われる危険な状態になります。

 

まとめ

 鎌倉時代の「永仁の徳政令」は御家人救済の借金帳消しの法令でした。

※1297年(いいにくいなあ~借金帳消し)永仁の徳政令 で覚えるとよいでしょう。

 室町時代は民衆からの「徳政令」発布の要求で「土一揆」「徳政一揆」が多発しました。

 戦国時代は領国支配の政策の一環として「徳政令」は利用されました。

 「徳政令」と「棄捐令」は直属の家来救済という面では似ている法令です。

 現代社会でも同様の法令は発行される可能性大ですが、いずれも信用失墜につながります。

 “借りたものは返す”が一番の基本、ご利用は計画的に…です。