国ごとの交通制度は戦国時代から整いつつありましたが、江戸時代になってそれが幕府のもとで宿駅制度として確立しました。
江戸時代の交通制度について学ぶ際に必ずと言っていいほど、宿駅・問屋場・伝馬役という名称が出てきますが、それらがどういったところを指すのか、どういう意味なのかはいまいちイメージしにくい言葉と言えます。
そこで今回はこれら『宿駅・問屋場・伝馬役の違い』について、そして江戸時代の交通制度をわかりやすく解説していきます。
目次
宿駅・問屋場・伝馬役の違い
それぞれの違い
✔「宿駅」
それぞれの街道の拠点として宿泊や休憩のための施設が置かれたり、荷物を運ぶための人馬を集めた場所のことを言います。
宿場、宿とも呼ばれます。
✔「問屋場」
宿駅に置かれた、特に幕府公用の交通や流通事務を管理するための施設のことを言います。
「とんやば」「といやば」と読みます。
✔「伝馬役」
道の宿駅で公用の伝馬や人足を提供する労役のことです。この課役は街道沿いに土地を持つ村が担う役割でした。
「てんまやく」と読みます。
つまり宿駅・問屋場・伝馬役の三つの言葉は・・・
- 街道の拠点地を指す「宿駅」
- その宿駅の中にあって公用の事務を管理する施設を指す「問屋場」
- 問屋場の管理下で実際に幕府や大名のために人馬を提供する課役を指す「伝馬役」
という意味の違いがあるのです。
宿駅・問屋場・伝馬役が置かれた背景
(幕末の東海道 出典:Wikipedia)
①江戸時代の交通事情
江戸時代は江戸を起点として五街道と脇街道と呼ばれる主要な道路が伸びて、多くの人や荷物が行き交っていました。
江戸時代の陸上移動手段は馬や駕籠、徒歩での移動でした。
さらに街灯で照らされている現代とは違って夜に移動することは危険かつ困難。そのため一日で移動できる距離は限られています。
すると当然途中で休憩をしたり宿泊する施設が必要となります。そういった宿泊のための施設が置かれたところが宿駅なのです。
(宿場「中山道妻籠宿」 出典:Wikipedia)
なお歌川広重の浮世絵で有名な「東海道五十三次」と呼ばれるのは宿駅の数。東海道には江戸から京都まで53の宿駅が設置され、中山道はさらに多く67の宿が設置されていました。
②宿駅伝馬制度
大切な公用の荷物や書状ですから、少しでも早く、確実に運ばなくてはいけません。
一人の人、一頭の馬だけで最後まで運ぶと労力の負担がかかり、時間もかかってしまいます。往復の距離を考えても効率的ではありません。
そこで宿駅ごとに人や馬を交代して、リレー形式で運びました。その交代地点となったのが宿駅で書状や荷物を届けたのが宿駅にいた伝馬や人足だったのです。
つまり宿駅は宿泊施設が置かれただけではなく、物流の中継地点としての機能もりました。
こういった宿駅ごとに伝馬を置いて荷物を運ぶ制度を「宿駅伝馬制度」と呼びます。
宿駅・問屋場・伝馬役の役割
①宿駅の役割
宿駅には言葉通りの宿泊施設としての役割があります。
大名や公家・幕府の役人が宿泊したのは本陣と、本陣の予備施設として置かれた脇本陣でした。
一方一般庶民は食事が出される旅籠と、ただ素泊まりをするための簡素な木賃宿に宿泊することができました。こうして大名や庶民はハッキリと宿泊するところが区別されました。
その他の重要な役割として、公用の荷物や文書を取り次ぐという業務がありました。
②問屋場の役割
問屋場には大きく分けて二つの重要な仕事がありました。
一つは馬や人の継立業務と呼ばれる仕事です。幕府や大名が移動する際に必要な人馬を用意しておいて、彼らの荷物を次の宿駅まで運ぶのが継立業務です。
もう一つは幕府公用の書状などを前の宿場から受け取って、次の宿場まで届ける仕事です。
公用の荷物や文書は宿駅ごとにリレー形式で運ばれることによって効率とスピードがアップします。
しかし、交代の際に手違いがあってはいけません。
そこで引継ぎ業務を行うために宿駅に置かれた施設が問屋場です。
(旧醒井宿問屋場 出典:Wikipedia)
荷物や文書を運ぶ馬のことを伝馬と呼びました。また走って書状などを届ける人たちは飛脚と言います。
飛脚は幕府のための継飛脚、大名のための大名飛脚、町人のための町飛脚というように役割が分かれていました。伝馬や飛脚を管理する問屋場は宿駅の中でも大変重要な施設だったのです。
③伝馬役の役割
伝馬役は公用で使われる伝馬や人足を提供する労役で、主に街道沿いに土地をもつ村単位で課せられた義務です。
伝馬役は原則として一宿ごとに継ぎ送りつまりリレー形式で人馬を提供しなければいけませんでした。
伝馬を馬役、人足を歩行(かち)役と呼びました。
各街道ではいつ何時書状や荷物を届けることになってもいいように、常に人馬を用意しておく必要がありました。
東海道では1638(寛永15)年以降、宿駅ごとに100人100匹の人馬を置くように定められ、中山道では50人50匹、他の街道では25人25匹ごと常備することが原則として定められていました。
宿駅・問屋場・伝馬役が与えた影響
①宿駅の発展
宿駅が開かれて交通量が増えるとともに流通する物量も増えます。
すると宿駅の近くには商人や職人が住むようになり、それに伴う商売が発展するなどして宿駅の周辺は文化が生まれ、都市化が進むこととなりました。
そういった宿駅を利用する際、一般人は現代と同じように宿泊等に費用がかかりましたが、幕府や大名たちが通行する際にはほとんど費用が掛かりませんでした。
一般人の半額ないしは無料で利用することができました。
②問屋場という組織
問屋場は職務の重要さから、組織的に役割が分担されていました。
宿駅の最高責任者である問屋とその補佐を務める年寄といった宿役人や、賃銭の出納や人馬の出入りを記録するといった事務を担う帳付がいました。
さらに人足や馬に荷物を振り分ける人馬指と呼ばれる役職が置かれたり、参勤交代で通行する大名行列を出迎える迎役という役職が置かれた宿駅もありました。
なお問屋場は宿駅に一つずつと決まっているわけではなく、複数の問屋場を有した宿駅もありました。
そういった宿駅では問屋場ごとに交替で業務を行いましたが、繁忙時は総出で対応することもありました。
数百匹数千人にも及ぶ人馬を用意することもあって、その時は大変な騒ぎになっていたと言われます。
③伝馬役の影響
伝馬役の負担は大変過酷なものでした。
まず何といっても伝馬役の仕事は無賃で行わないといけないといけません。つまり伝馬役にかかる経費はすべてその村単位で負担しなければならないのです。
街道の交通量は年を追うごとに増え、それに伴い伝馬の世話にかかる費用や人足に対する負担も増えていきました。
それでも幕府の流通の一端を担う伝馬役は大変名誉な仕事。伝馬役の仕事に支障をきたさなければ、「駄賃継立」と呼ばれる公用でない一般の物流業務を行ったり、一般旅人の宿泊で収入を得ることも認められていたので、うまくやりくりした者もいました。
その他町屋敷地にかかる年貢が免除されたり、商業上の特権が付与されるような伝馬役の利点もありましたが、器用にやりくりできる者ばかりではなく、逆に多額の借金を抱えた挙句失踪してしまった者もいました。
このように伝馬役の負担が賄いきれなくなった場合は近隣の農村に負担が及ぶこともありました。これを「助郷」と言います。
こうして見ると、宿駅伝馬制度によって幕府の陸上交通は支えられていたことが分かります。
宿駅というと宿泊場所のイメージが強いですが、伝馬役という労役によって宿駅の人々は大変な苦労をしており、それをまとめるために問屋場は大変重要なものだったのです。
まとめ
✔ 宿駅は、宿泊や休憩のための施設が置かれたり荷物を運ぶための人馬を集めた街道の拠点。
✔ 問屋場は、人馬の継立業務や公用の書状を次の宿場まで届ける仕事を管理するための施設。
✔ 伝馬役は、街道の宿駅で幕府や大名のために人馬を提供する労役のこと。