【戦国時代の馬について】種類や値段・大きさ・速さなど徹底解説!!

 

戦国時代といえば、人物だけでなく、馬も戦場では大活躍していた時代でもあります。

 

特に、戦国時代は「武田騎馬隊」や前田慶次が乗っていたとされる「松風」の勢い、そして豊臣(羽柴)秀吉が行った「中国大返し」などというように、馬が活躍している場面が、時代劇やマンガなどで描かれていますよね。

 

時代劇やマンガを見ていて私たちが思い浮かべるのは、サラブレッドのような競走馬のような馬による、スピード感や迫力などではないでしょうか?

 

ですが、実際のところどうなのか、気になりますよね。

 

そこで今回は『戦国時代の馬について』、その種類や値段、大きさや速さを徹底解説していきたいと思います。

 

戦国時代の馬は実際どうだったのか?

 

戦国時代にいたとされる馬ですが、実は私たちが思い浮かべているような、サラブレッドではないことがわかっています。

 

では、どんな馬に乗っていたかというと、これまた諸説あります。

 

何故かというと、戦国時代の馬に関する情報はほとんどなく、あくまで推測や調査中という段階であるからなのです。

 

戦国時代の馬はポニーだった説

なんと、現在のポニーのような馬だったのではないかという説があります。

 

ポニーといえば、今ではふれあい牧場や移動遊園地などといった場所で、子供たちを背中に乗せてくれる、小型の馬です。

 

ポニー種は、古くは古墳時代、農耕用として飼われた馬で、早く走るための馬ではありません。

 

私たちの想像するような素早い動きをすることはなく、むしろ大砲などを運んでいたとされています。

 

①日本在来種の代表はポニーに似ている

戦国時代に親しまれていた当時の馬に近い馬体を持った馬がいます。

 

木曽馬という種類で、長野県の木曽地方に産地があります。この木曽馬が、戦国時代ではポピュラーだったとされています。

 

木曽馬の体高(肩までの高さ)は、125135CMの小柄なもの。

 

これが、ポニーに近い馬種のため、戦国時代の馬はポニーに近かったと言われているゆえんです。

 

②木曽馬の産地は武田の領地だった

ここでお気づきのあなたは戦国マニアです!

 

戦国武将・武田信玄の領地は、信濃(今の長野県)も含まれています。

 

このことから、武田領であった甲斐(現在の山梨県)・信濃は、なんと木曽馬の産地!

 

このことから、武田騎馬隊が産まれたというのも納得いきませんか?

 

③武田騎馬隊もポニーだった説

戦国時代の馬はポニー説を裏付ける証拠が出たようです。

 

なんと、戦国時代の馬の骨がすでに出土されていて、その骨の大きさから、やはり戦国時代の馬がポニーと同じ位の体型だったということがわかっています。

 

そのため、武田騎馬隊は私たちが想像するようなサラブレッド種のような騎馬隊ではなく、ほぼ木曽馬と同じような種類の馬、あるいは木曽馬に乗っていたと考えられているのです。

 

④木曽馬は決してしょぼくない!

木曽馬がポニーと似ているということから、武田騎馬隊もしょぼい!というような情報がありますが、そんなことはありません。

 

まず、当時の日本人は160cm以下で、背丈も現代人より低かったとされています。

 

そのため、ポニーくらいの大きさの馬に乗っても、差し支えなかったとされています。

 

それに馬のない戦いなんて、現代でいえば車のない生活とおなじです。

 

速さはサラブレッドに劣るものの、しっかりと鎧をまとった武将たちを運んでいました。

 

また、戦国時代では、実際に馬に乗っていたのは大将だけだった、という説もあるので、私たちの考えるような馬上の決闘は、ほぼなかったと考えられています。

 

木曽馬の速さは自転車くらいだった?

「ac イラスト 自転車」の画像検索結果

この、戦国時代の馬が木曽馬だった説だった場合、その速さはどのくらいだったかというと、およそ時速40㎞以下とされています。

 

しかし、この時速40㎞というのは、あくまで何もない状態。人を乗せたら大体30㎞にまで下がるんだとか。

 

これは、自転車と同じくらいの速度とされています。

 

更には、全力疾走できる時間も距離も相当短かったと考えられていて、走り始めて10分で限界に来ていたという、NHKの番組『歴史への招待』で実証実験データも残っています。

 

戦国時代の日本種の馬は外国馬より大型説

 

戦国時代の馬が、木曽馬のようにポニー種だった説とは打って変わって、実は戦国時代の馬は大きかったのでは?という説もあります。

 

確かに木曽馬は小型でポニー種であることは間違いないのですが、実は戦国時代にサイズが記録されていた馬種があるのです。

 

①戦国武将の馬のサイズ記録が存在?!サイズ記録からわかる名馬の大きさ

実は、戦国時代にサイズを記載されている馬が何頭か存在しており、この記録から、戦国武将は大型の馬に乗っていたということも考えられています。

 

例えば、大傾奇者と呼ばれていた前田慶次が乗っていた愛馬・松風(まつかぜ)

 

この馬のサイズは47と記録されていますが、メートルへ変換すると、なんと体高約142cm

 

更に、徳川家康に仕えていた本田忠勝が乗っていたとされる三国黒(みくにぐろ)という名馬。こちらは49なんです!

 

また、武田信虎の鬼鹿毛(おにかげ)48寸、織田信長や上杉謙信など有名武将の馬は47寸から5尺以上といわれているので、相当大きかったのが分かりますよね。

 

現在の競走馬であるサラブレッド種は外来種なのですが、こちらはおよそ160cmであることが多いため、サラブレッドよりは小柄であるものの、ポニー種よりは大きかったことが分かります。

 

②速さの記録がない?!

残念ながら、名馬の速さの記録というものは、はっきりしたものが残っていないのもまた事実。

 

”並外れた”などといった大まかな記録でしか残っていないものも数知れず。

 

実際どうだったのかというのも、気になるところですよね。

 

戦国時代の馬の値段

 

さて、気になるのは馬の値段ですよね。

 

こちらも実は、値段の詳細な記録というものが残っていないのです。

 

しかし、ここで良い例があります。

 

大河ドラマ「功名が辻」でスポットが当たった、山内一豊のために、妻である千代が購入した馬の代金です。

 

山内一豊の名馬とは?東国一の名馬は金十両!

山内一豊の愛馬は鏡栗毛(かがみくりげ)といいます。

 

こちらは、一豊の妻である千代が蓄えていた嫁入りの持参金で購入した馬です。

 

鏡栗毛はあまりにも高い東国一の名馬とされていて、その金額は金十両。当時の天正大判の価値にすると、200400万円ほどとされています。車とほぼ同じくらいですね。

 

まとめ

 戦国時代の馬は、ポニー種のような小型の物から、体高140cm前後のものまでいた。

 ポニー種の場合、人を乗せ、甲冑の重さを付けた場合の実証実験があり、その際は時速約30㎞程。10分前後でばててしまうとの記録がある。

 有名武将の名馬は詳細な記録はないが、ポニー種よりもはるかに持久力などがあったとされている。

 戦国時代の馬の値段に関する詳細記録は残っていないが、戦国武将・山内一豊の愛馬鏡栗毛は、金十両(現代の紙幣価値でおよそ200~400万円)であると記録されている。