2018年の大河ドラマの主役である西郷隆盛。
この人は幕末の頃に活躍してのちに維新の三傑とも呼ばれるようになりました。
しかし、西郷隆盛は明治六年に意見の違いから明治政府を辞めてしまいます。
今回は西郷隆盛が明治政府を辞める原因となった『征韓論(せいかんろん)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
征韓論とは?
(征韓議論図。西郷隆盛は中央に着席している 出典:Wikipedia)
征韓論とは明治初期ごろに武力によって無理矢理、李氏朝鮮という国を開国させようという考え方です。
この考え方は板垣退助、西郷隆盛が支持してのちに明治六年の政変と呼ばれる大事件が起きる原因となりました。
なんで征韓論が起こったのか?『原因や目的』
①日本と朝鮮の関係
そもそも日本と朝鮮は豊臣秀吉の朝鮮出兵によってあまり良い仲ではありませんでした。
しかし、江戸時代になると徐々に関係もよくなっていき朝鮮通信使などの使節も多くられるようになりました。
しかし、江戸時代が終わり明治時代に入ると朝鮮と日本の関係はまた悪くなります。
その原因は当時朝鮮の政治を行なっていた大院君という人が原因でした。
(興宣大院君 出典:Wikipedia)
江戸幕府から明治政府にリニューアルした日本はお隣である朝鮮に対して、『日本はこれから徳川家ではなく天皇家が中心になってやっていきますのでこれからもよろしくお願いします』ということを伝える使節を度々送っていました。
しかし、大院君は日本の使節を追い返して日本と関係を結びませんでした。
朝鮮側からしたら欧米の真似をしている日本のことは気に入らず、さらにその当時の朝鮮の親玉である清と同じ感じの手紙を送ってきたことが気に入らなかったのです。
そのため、日本では『こんな無礼な国は武力を使ってボコボコにしなければいけない!』と思う人も出てきました。
②ロシアとの関係
征韓論が起きた理由の一つにロシアの関係というものもありました。
ロシアは1850年代以降これまで清が持っていたウラジオストクなどのシベリアの地域を手に入れます。
ロシアは北にあって冬になると港が凍って貿易ができないというデメリットがあったため、冬になっても凍らない港をどうしても欲しかったのです。
そのためロシアは朝鮮を狙っていました。
日本は『朝鮮が支配されたら次は日本が狙われる!』と思い、今のうちに朝鮮を手に入れロシアと対抗しなければいけないという意識が現れました。
岩倉使節団との対立
(岩倉使節団 出典:Wikipedia)
こうして出来上がった征韓論ですが、これらの意見は当時近代化を進めていた日本のことを後回しにした考え方でした。
さらに征韓論の考え方でも江藤新平や板垣退助のように本当に戦争も辞さないほどボコボコにするべきのような考え方から、西郷隆盛みたいなあくまでも交渉で解決しましょうのような考え方に分かれていました。
そんなときにちょうど欧米諸国から帰った岩倉使節団は、これの真反対の考え方で『今は日本を近代化する方が先で、朝鮮に武力を使うのは後回しにしてほしい』という思いがありました。
さらに仮に西郷隆盛が交渉してもうまく行くことはほどんどなく、逆に西郷隆盛が暗殺されてしまう可能性もあると予想していました。
こうして意見が割れた政府ではいろんないざこざがあり、最終的には西郷隆盛や板垣退助を始め600人もの政府の官僚が辞める大事態となりました。
これを明治六年の政変と呼びます。
江華島事件と日朝関係のその後
(城を攻撃する雲揚の兵士ら 出典:Wikipedia)
①江華島事件の発生
明治維新の混乱も収まり、なんとか日本は近代化していったことで「なんとか朝鮮の問題に関わることができるようになった」。そう思った明治政府はついに朝鮮に武力を使うようになります。
その事件が江華島事件です。
その頃、朝鮮でも政変が起こって大院君が失脚したところを狙った明治政府は動きます。
軍艦である雲揚を使って朝鮮の首都ソウル近くにあった島『江華島』と呼ばれる場所の測量を行なった、ちょっと朝鮮のことを挑発するなどしていました。
それに激怒した朝鮮はその軍艦めがけて大砲を打ち込みます。
これにニヤリとした日本側は軍艦から大量の攻撃を仕掛けて江華島と永宗城島を占領。
朝鮮に対して領事裁判権と関税自主権を認めないことをしるした日朝修好条規というもの結ばせます。
この構図、完全に下関戦争における長州藩みたいですが、これよって朝鮮は日本に対して不平等条約を結ばされることになりました。
②壬午事変の発生
もちろん朝鮮側は日朝修好条規みたいな不平等条約を認めるはずはありません。
さらに朝鮮では大院君の失脚の後日本のことが好きな閔紀と呼ばれる人が政治をしていましたが、これに不満をもった大院君がまたクーデターを起こしました。
これを壬午事変と呼びます。
この政変によって日本嫌いの大院君がまた政治をやるようになり、江華島事件から溜まっていた日本に対する不満がついに爆発して朝鮮にいた日本人が大量に虐殺されました。
このことに大激怒した日本は明治六年の政変から徐々になくなっていった征韓論の思想が復活して直ちに軍艦を朝鮮に送り・・・
- 朝鮮政府の公式謝罪
- 被害者遺族への扶助料支給
- 犯人および責任者の処罰
- 損害賠償の支払い
- 朝鮮軍による公使館警備
- または巨済島と鬱陵島の割譲
の朝鮮に激しい処罰を求めました。
さらにそれを朝鮮を無視したら、ソウル近くの仁川を占領して無理矢理ソウルに攻め込むこと。という命令も受けました。
もちろん朝鮮はこの要求を無視して日本は言った通り仁川を占領してソウルに着きました。
さすがにまずいと思った朝鮮は日本と仲直りして済物浦条約を結ぶことになりました。
この条約は・・・
- 日本人を殺した犯人を捕まえること
- 朝鮮で殺された日本人の遺族に5万円の賠償金を支払って謝罪すること
- 日本の軍隊が日本にいる費用を50万円を朝鮮側が支払うこと
が決められました。
その後、日本と朝鮮の間では事件が多発しますが、1910年韓国併合条約の締結により朝鮮は日本の領土となりました。
まとめ
✔ 征韓論とは、朝鮮を武力によって無理矢理開国させる思想のことで、西郷隆盛や板垣退助が支持した。
✔ 征韓論は岩倉使節団との意見の対立によって明治六年の政変の原因となった。
✔ 日本は明治六年の政変の二年後に朝鮮の江華島を占領して朝鮮と無理矢理日朝修好条規を結んだ。
✔ 江華島事件の後朝鮮は壬午事変が起こり日本は朝鮮と済物浦条約を結んだ。
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西郷「征韓論」の真相 歴史家の虚構をただす [ 川道麟太郎 ]
本書は、建築論・建築計画学専攻の工学博士が、明治六年に西郷が朝鮮に行こうと運動した動機を巡って、「史料に語らせる」と称する歴史家たちがいかにいい加減な史料の批判・操作・解釈をしているかを冷静かつ丁寧に論証している。
そして著者は征韓説(武力で征服しに行こうとした)と交渉説(平和的に説得して開国させようとした)のどちらにもくみせず、死処説(朝鮮に死に場所を求めた)に同意するのだが、その際、歴史家たちは何故この死処説ではなく征韓説や交渉説を選ぶのだろうと問い、原因の一つとして、歴史家の「国史的傾向」(330頁)をあげている。著者の部外者の目が利いていて、最も感心した箇所なので、少し引用しておく。
つまり、「歴史家は歴史を国家や公(おおやけ)を中心にして捉える習性を身につけている。そのために彼らは、国家を離れた、より大きな国際的ないしは地球的コミュニティに立つ歴史を捉えるのが得意でないのと同時に、それとは反対に、一個の人間や個人の私的な事象に関連付けて歴史を捉えるのも得意ではない。」このような国史的傾向のもとでは、「西郷が明治六年に取った朝鮮遣使の言動についても、国家や国政にかかわる征韓説や交渉説としては捉えられても、西郷個人の信条や私情あるいは個人的な事情のからむ死処説としては捉えられないことになる。後者は、歴史学というよりは、文学の領域に属するものと見ているのかもしれない。」(330頁)
(引用:amazonレビュー)