討幕や明治新政府の中心勢力となった「薩摩藩と長州藩」。
じつは両藩は最初から協力関係にあったわけではなく、敵対していました。
今回はこの2つの藩がなぜ仲が悪く、どうして力を合わせることができたのか『関係や歴史・和解まで』詳しく解説していきたいと思います。
目次
薩摩藩と長州藩はなぜ仲が悪かったのか?
薩摩藩と長州藩の仲が悪かったのは、幕末の政治混乱の中で主導権争いが起こり対立したからです。
薩摩藩が公武合体派として朝廷と幕府を結び付けることで幕末の国難に対処しようとしたのに対し、長州藩は尊王攘夷派として天皇を中心にまとまり外国を追い払おうと考えたからです。
どちらも天皇を尊ぶ勤王派で、国政に対して自分たちの発言力を高めたいというところは同じですが、幕府の扱いが違っています。
幕府を支える薩摩藩と幕府と敵対する長州藩という構図ができつつありました。
八月十八日の政変、禁門の変、第一次長州征伐と薩摩と長州は武力衝突し、その全てで敗れた長州藩は滅亡の危機まで陥りました。
同じ勤王思想でありながら、幕府に力を貸す薩摩藩を長州藩は薩賊として憎しむようになります。
ではなぜそもそも二藩は考え方が違ったのでしょうか。次はその点を見ていきます。
江戸幕府と薩摩藩・長州藩の関係
江戸幕府と薩摩藩・長州藩の関係が微妙に違うのは、両藩の成立過程が違うからです。
いずれの藩も関ケ原の戦いでは西軍に属し、徳川家とは対立しましたが戦後の扱いが違いました。
①薩摩藩
薩摩藩は関ケ原の戦いに島津義弘が参戦するものの本戦にはほとんど参加しませんでした。
勝敗がほぼ東軍優位に決まった段階でようやく軍を動かし撤退戦を行いますが、彼が取ったのは正面突破という決死の作戦でした。
義弘を逃げ延びさせるために奮戦した兵たちのおかげもあり、義弘は薩摩に帰ることができました。
また退却戦の中、東軍の井伊直政や松平忠吉を負傷させるなどの島津軍の勇戦ぶりを見た徳川家は薩摩藩の実力を評価し敵対することを避けようとします。
島津家は負けた西軍に属していたにも関わらず本領が安堵されたのです。
江戸時代を通して、琉球王国を通した貿易の権限を認められ、篤姫など将軍の正室を輩出するなど薩摩藩と江戸幕府は比較的良好な関係を結んでいます。
これが幕末の混乱期に薩摩藩が江戸幕府の体制内で勢力伸ばそうとした要因です。
②長州藩
一方、長州藩は関ケ原の戦いにおいて毛利輝元が西軍の総大将毛利輝元を務めていました。
毛利家は関ケ原の戦いにおいて戦闘には参加せず退却したこともあり、島津家と違ってその実力を徳川家に見せつける機会もありませんでした。
戦後、改易の可能性もありましたが、結局8ヶ国から2ヶ国への減封と輝元の隠居という形で毛利家は存続しました。
しかし、父祖伝来の地や多くの家臣を失うことなり毛利家は徳川家に対して恨みをもつようになりました。
幕末の混乱と薩摩藩・長州藩
①ペリー来航と対応に苦慮する幕府
1856年、アメリカの艦隊を率いてペリーが日本にやってきます。開国を迫るためです。
対応に困った江戸幕府はこれまで国政に参加することのできなかった外様の藩も含めて意見を求めました。
この結果、欧米列強と条約を結ぼうとする開国派と外国を追い払いこれまでの状態を維持しようとする攘夷派の二つに国論が二分されてしまったのです。
いずれの考え方も方法は違いますが日本の独立をいかに守るか、ということが目的でした。
開国派は貿易を盛んにし経済的な発展を目指すとともに、外国の進んだ技術を取り入れることで対等に渡り合える国を作っていくことを目指しています。
一方、攘夷派は武力に訴えて外国を排除しようとするものでした。
これまで国政を預かって来た幕府はある程度自分の実力がわかっていたと言えるでしょう。
そのため、武力による攘夷が不可能なことを感じており、やむを得ず条約を結び開国する方向に進めていきます。
しかしながら、反対する攘夷派を抑えつけるだけの力が幕府になかったので、混乱は全く解決しませんでした。
②幕府改革を目指す薩摩と朝廷に接近する長州
さてこうした日本の状況の中、薩摩藩は幕府に接近します。
幕府は薩摩の軍事力や経済力に期待し、薩摩は幕政改革を通して国政に対する自らの政治的発言力を高めていこうと画策しました。
一方、長州藩は攘夷派が主導権を握りました。
朝廷を動かし、幕府に攘夷をさせるため献金などを通して朝廷に接近します。朝廷の実権を握った長州藩は京都を中心とする攘夷派のリーダーになったのです。
二つの藩の考え方は正反対のものでした。だから仲が悪かったのです。
そして両藩の対立は武力を伴ったものになっていきます。
③朝廷を巡る薩摩と長州の対立
この時代、幕府の支配力は低下しつつありました。そこで幕府が頼ったのは天皇・朝廷です。
将軍家茂と孝明天皇の妹和宮を結婚させることで、幕府権力の回復を狙っていきます。これを公武合体と言います。
薩摩藩もこの政策を進めていきました。
しかし、それには邪魔な存在が一つあります。朝廷をコントロールしている長州藩です。
そこで薩摩藩は親藩でもある会津藩を誘って京都から長州藩勢力を追い出すことにしました。
ついに薩摩と長州が武力衝突することになったのです。こうして行われた軍事クーデターが八月一八日の政変と呼ばれるものです。
薩摩藩の狙いは達成され、長州藩は京都からいなくなります。
④巻き返しをはかる長州
長州藩は京都での勢力を回復するべく軍隊を派遣しますが、御所を守る薩摩藩・会津藩と戦闘に陥ります。(禁門の変)
長州藩はこの戦闘でも敗れただけではなく、天皇に対して弓をひく形になったので朝敵にまでなってしまいました。
朝敵を征伐せよ、ということで幕府は長州征伐の軍を出します。
総大将は尾張藩主でしたが、実質的な大将は参謀であった薩摩藩の西郷隆盛でした。
西郷は実質的な戦闘は避け、話し合いで長州を降伏させます。こうして薩摩と長州は三度衝突し、その全てで長州は敗れ藩自体が存亡の危機に陥ります。
長州は薩摩に対して大きな恨みを持つようになりました。
⑤幕府から排除される薩摩
幕府側の勢力として活躍していた薩摩ですが、外様である薩摩藩の台頭をよく思わない人物がいました。
のちに15代将軍になる一橋慶喜です。
慶喜は薩摩藩を含めた雄藩諸侯が参加していた参与会議を解体するとともに、朝廷の信頼を得て会津藩・桑名藩とともに一会桑政権を樹立します。
こうして薩摩藩は幕府から排除されてしまいました。
朝廷や幕府の改革を通して政治的発言力を高めようと思っていた薩摩藩でしたが慶喜の政治力の前にそれが頓挫します。
困った薩摩藩が幕府と対抗するために目指したのが長州との連携でした。
薩摩藩と長州藩の和解「薩長同盟の成立」
①同盟成立まで
とは言っても事は簡単には進みません。長州からすると窮地に追い込んだのは幕府と薩摩藩・会津藩です。
ですから感情的に薩摩と手を結ぶことに躊躇してしまいます。
しかし、軍事的成果を上げて幕府の権威を回復しようと、二度目の長州征伐が計画されるようになりました。
意地をはって滅亡するか、プライドを捨てて薩摩と近づくのか長州も悩みます。
そもそも薩摩が信頼できるのか長州は確信が持てませんでした。
両藩の間に入ったのが坂本龍馬です。
薩長同盟こそが日本を救う道と考えていた龍馬は両者を説きます。
その甲斐もあってようやく交渉の席についた薩摩藩代表の西郷隆盛と長州藩代表の桂小五郎。
しかしお互い武士のプライドがあり、同盟の話はなかなか切り出せませんでした。
先に話題に出した方がお願いする形になるため、同盟成立後に立場が弱くなるかもしれない、そんな考えもあったからでした。
龍馬は西郷に訴えます。
桂がどんな思いでここに来ているのか。長州は同盟が成立しなければ滅ぶ覚悟でいる。例え、滅んでも薩摩がいれば後は幕府に対抗しくれるだろう、そんな思いでいる。戦争で敗れ、さらに同盟まで自ら依頼することが長州にできるだろうか。桂や長州の覚悟と思いをくみ取って欲しい、と。
これを聞いた西郷が薩摩藩から同盟を申し入れる形で薩長同盟が成立したのでした。
②明治維新の達成
薩摩が買い入れた武器を長州に渡すことで、長州は第二次長州征伐で幕府に勝つことができました。
長州も薩摩に米を援助し、両者の信頼関係は深まっていきます。
幕府という共通の敵ができた薩摩と長州は、力を合わせて幕府と戦っていきます。
このあとの戊辰戦争でも薩摩と長州が新政府側の主力となって戦い、幕府方勢力に連戦連勝、ついに明治維新が成ったのでした。
まとめ
✔ 薩摩藩と長州藩の仲が悪かったのは幕末混乱期に主導権争いをしていたから。
✔ 薩摩は幕府を支持し幕政改革と公武合体を通して日本を強くしようとした。
✔ 長州は朝廷に接近し攘夷を実施することで日本を守ろうとした。
✔ 考え方の対立は武力対立へと発展し両者の関係は決定的に悪化した。
✔ 薩摩は軍事的にも勝利したが、その後幕府との関係も悪化。
✔ 幕府と対抗するために坂本龍馬の仲介のもと薩摩が申し入れる形で薩長同盟が成立。
✔ 幕府という共通の敵を持った薩摩と長州は和解し、幕府を倒し明治維新が達成された。