明治時代、政府に反乱を起こした人はたくさんいます。
その中でも特に明治の初めには江戸時代では高い身分だった武士が政府に反乱を起こします。
今回はその武士が起こした反乱の中でも特に有名な『佐賀の乱』についてわかりやすく解説していきます。
目次
佐賀の乱について
(佐賀の乱 出典:Wikipedia)
佐賀の乱は1874年(明治7年)に佐賀県で起こった武士たちの反乱です。
この乱から西南戦争まで士族の反乱が続いていくことになります。
明治時代の武士たち
江戸時代が終わり鎌倉時代から続いた武士の時代は終わりを迎えました。
政府は江戸時代に存在していた士農工商と呼ばれる身分制度をなくして、日本国民が全員が平等になるようにしました。
さらにこれまで差別されてきたえた・ひにんも身分解放令によって一般の人と同じ身分になりました。
これが面白くないのがこれまで一番ランクが高かった武士たち。
武士たちは一応農民とは違う士族となりましたが、武士がこれまで持っていた特権がどんどんなくなってきました。
例えば、明治時代になるとこれまで武士や一部の農民しか認められなかった名字が全員名乗れるようになったり、これまでのスタイルであったちょんまげも切らなければいけなくなりました。
さらに士族が衝撃を受けたのは廃刀令と呼ばれる命令でした。
これは武士がこれまで持っていた刀を捨てなさいという命令でした。
『刀を捨てるぐらいでなんで衝撃を受けたの?』と思う人もいるといると思いますが、刀は武士の魂と呼ばれるもので武士はこれを持つことがステータスみたいなものでした。
これを捨てることは武士とっては屈辱的なことでした。
佐賀の乱の勃発
明治政府はこれまでいた武士とは違う軍隊を徴兵令によって作ろうとします。
明治政府はこれまで武士が全てやってきた軍事のことを日本全体がやる『国民皆兵』を目指そうとしました。
もちろん武士たちは大ブーイング。これ以上明治政府の好き勝手にさせるわけにはいけません。
武士たちは不満が溜まっていきついには反乱を起こそうと決意しますが、士族だけじゃどうしようもできません。
その時ある一人の有力者が故郷に帰ってきたのです。
佐賀の乱の主導者「江藤新平」と「島義勇」
①江藤新平について
(江藤新平 出典:Wikipedia)
江藤新平は肥前藩(今の佐賀県)に生まれます。
江藤新平はとても優秀な人でのちに佐賀の七賢人の一人に選ばれるほど活躍しました。
そして時代は流れて明治時代に入ると江藤新平は明治時代に新しく作られた司法省のトップである司法卿(現在の法務大臣)になります。
江藤新平は日本を近代化させるために学制の基礎を固めたり、裁判所の設置や民法の制定など日本に司法制度の導入を進めます。
さらにこの頃横行していた汚職事件も追及して山縣有朋や井上馨を政府から追放するなどしました。ちなみに江戸を東京に名前を変えたのはこの人です。
しかし、この江藤新平。当時同じぐらい偉かった大久保利通とすごく仲が悪かったのです。
そしてその仲の悪さは明治六年の政変にも現れます。
江藤新平は韓国をぶっ潰す考え方の征韓論を主張していましたが大久保利通はまず内政から整えようという考え方の内政充実論を主張しました。
結局江藤新平の考えは通らず、江藤新平は明治政府に絶望して故郷の佐賀に帰りました。
②島義勇について
(島義勇 出典:Wikipedia)
島義勇は江藤新平と同じく肥前藩に生まれてこの人ものちに佐賀の七賢人の一人になります。
この人は明治時代に入ると当時何もなかった蝦夷地(北海道)を育てていく開拓使のリーダーになります。
島義勇は早速北海道の開拓を進めていきます。
島義勇はこれまで蝦夷地の中心であった函館から離れたある湿地帯を蝦夷地の中心しようとします。
その湿地帯こそがのちの北海道の道庁所在地である札幌なのです。
島義勇は札幌を世界一の街にするために京都っぽく碁盤の目のように街を作っていきます。
現在でも札幌は碁盤の目のようになっていますよね。あれはこの人が作ったのです。
しかし、島義勇は政府との金銭的なトラブルもあって開拓使をやめさせられます。
そしてこの人は秋田県の長官になって八郎潟と呼ばれる沼地を整備する計画を作りますが、それもうまくいきませんでした。
そしてついには明治政府を辞めてしまい故郷の佐賀に戻りました。
佐賀の乱の勃発。乱の内容
江藤新平と島義勇が佐賀に帰ってきた知らせはすぐに武士の耳にも届きます。
そして武士はこの二人を大将にして反乱を起こし、ついに士族の大反乱である佐賀の乱が起こりました。
佐賀で反乱が起こったことはすぐに江藤新平のライバルである大久保利通の耳に入ります。
大久保利通は直ちに反乱を潰すため徴兵令によって作られた軍隊を佐賀に向かわせます。
反乱軍は佐賀城を制圧してそこを拠点にどんどん反乱を拡大していきます。
しかし、東京からやってきた本体にはかなわず反乱軍はどんどん劣勢になっていきます。
そしてついに政府は反乱軍に総攻撃して反乱軍を壊滅させました。
佐賀の乱のその後
(江藤の捕縛を報じた東京日日新聞 出典:Wikipedia)
反乱軍の大将である江藤新平と島義勇は、大久保利通によって打ち首となってしまいます。
しかし、この判決は江藤新平が力を注いで無くした刑罰を復活させる判決でした。
さらに同じく内乱を起こした榎本武揚は許されて江藤新平が許されなかったことに外国からは大ブーイング。
イギリスのパークスは『佐賀の乱が鎮圧されてもこれじゃ政府の信頼は上がらないよね。』とコメントしました。
当時日本にあった領事裁判権がなかなか無くならなかったのはこの判決が原因の一つになったかも知れません。
その後、大久保利通も紀尾井坂で士族によって暗殺されてしまいます。そして江藤新平と島義勇は明治天皇から許されました。
まとめ
・武士たちは明治時代に入ると農民と同じ身分となってさまざまな特権を失った。
・武士たちは佐賀に帰ってきた江藤新平と島義勇を大将として反乱を起こした。
・江藤新平は司法制度や学制のを行なってさらに江戸を東京と改名した。
・島義勇は札幌の基礎を作り上げた。
・佐賀の乱で一時は佐賀城を占領したけど新政府によって鎮圧された。
・反乱の後江藤新平と島義勇は処刑されたがのちに明治天皇によって許されることになった。