【老中とは】簡単にわかりやすく解説!!意味や仕事・人数は?歴代老中についても!

 

江戸幕府で将軍を支えた重要ポスト“老中”。

 

江戸幕府の政治全般を取り仕切り、将軍の右腕となって働きました。

 

今回は意外と知らない老中の仕事やなるための条件など、『老中』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

老中とは

 

 

老中とは、江戸幕府という組織の中のひとつの役職。将軍のもと、江戸幕府の政治全般を取り仕切る最高責任者です。

 

組織図でみると、トップはもちろん将軍、ナンバー2は大老、そして、ナンバー3が老中です。

 

ナンバー2大老は臨時職で、どの将軍の時代にもいたわけではなく、幕府の緊急事態に登場する役職。

 

そのため、大老が置かれていない体制では、老中が最高位となります。

 

江戸幕府の組織が完成したのは、3代将軍徳川家光の時代。当初、老中は“年寄”と呼ばれていました。

 

老中になる条件と人数

①老中になる条件

老中には誰でもなれたわけではなく、条件がありました。

 

その条件は、25千石以上の譜代大名であることです。

 

譜代大名とは、天下分け目の関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた大名のこと。

徳川家の辛い時期も支えてきた信頼できる家臣であるため、江戸幕府の重要な職を任せたわけです。

ちなみに、関ヶ原の戦い後に家臣となった大名外様大名と呼ばれています。

 

しかし、25千石以上といっても、歴代老中は平均して5万石から多くても15万石程度の小規模、中規模の大名でした。

 

これは室町幕府のナンバー2だった管領(かんれい)に権力だけでなく大きな領地も与えた結果、将軍の力も及ばないほどの存在になってしまったため、江戸幕府では老中に権力は与えても多くの領地を与えることはありませんでした。

 

②老中の人数

老中は1人と思いがちですが、実は45人選ばれました

 

1か月ごとに交代で勤務する“月番制”となっていました。

老中の中のリーダーを老中首座といい、老中経験者や特別な家柄の人がなりました。

 

老中を1人にせず月番制にしたのも、権力の独占を防ぐためです。

例えば鎌倉幕府では、途中からナンバー2執権(しっけん)が実権をもち、将軍は“お飾り”になってしまいました。

江戸幕府では、老中を45人選び、大切なことはみんなで話し合って決めていました。

 

老中の仕事

 

 

老中は、江戸幕府の政治全般を取り仕切るのが仕事

 

老中の下には・・・

大目付(大名や朝廷の監視)

町奉行(江戸の行政・警察・司法)

勘定奉行(幕府の財政)

大番頭(江戸城などの警備)

城代(二条城、駿府城などの管理)

遠国奉行(京都、大阪など幕領内重要都市の行政や司法)

といった重要部署が置かれました。

 

老中は、この多岐にわたるこれらの部署を指揮および管理したわけです。

 

老中と大老の違い 

老中と混同しやすく、間違いやすい大老についても押さえておきましょう。

 

大老は臨時職で、幕府の立て直しが必要な窮地の時など設けられました。

 

仕事の内容は将軍のアドバイザー的役割。10万石以上の譜代大名から選ばれ、徳川家と特に結びつきの強い、土井・酒井・井伊・堀田の4家からしか選ばれませんでした

 

260年間の江戸時代の中でも大老になった人は10人前後しかいません。

 

歴代の主な老中 

①田沼意次(たぬま おきつぐ)

(田沼意次 出典:Wikipedia)

 

 

10代将軍家治の時代の老中。

 

商工業者に同業者グループ株仲間を結成させ、営業を独占できる特権を与える代わりに営業税を幕府に納めさせました。

 

商人との癒着を批判され、賄賂政治で不人気。

 

在任中の1782年に天明のききんが起こり、各地で百姓一揆や打ちこわしが多発しました。社会が不安定中、将軍家治の死をきっかけに失脚しました。

 

 

②松平定信(まつだいら さだのぶ)

(松平定信 出典:Wikipedia)

 

 

11代将軍家斉の時代の老中。8代将軍吉宗の孫で白河藩主。

 

祖父吉宗の政治を理想とする質素・倹約の寛政の改革を推し進めました。

 

天明のききんで荒れ果てた農村を復興させるため、江戸に出稼ぎにきていた農民を故郷に返し、今後のききん対策として米をたくわえさせました。

 

また、幕府の学校である昌平坂学問所では朱子学以外の学問を禁止しました。さらに、出版の内容を厳しく統制し、政治を批判することを禁じたため、人々の反感を買うようになりました。

 

 

③水野忠成(みずの ただあきら)

(水野忠成 出典:Wikipedia)

 

 

11代将軍家斉の時代の老中。

 

この頃、家斉の贅沢生活に拍車がかかり、大奥の生活も一層派手になりました。

 

さらに賄賂政治が横行し、『水の出てもとの田沼になりにける』と、評判の悪かった田沼意次の政治を引き合いに出され、揶揄されました。

 

④水野忠邦(みずの ただくに)

(水水野忠邦 出典:Wikipedia)

 

 

12代将軍家慶の時代の老中。

 

幕府の財政を立て直すため、8代将軍吉宗の享保の改革、老中松平定信の寛政の改革にならい、質素倹約を奨励する天保の改革を推し進めました。

 

政治批判や風紀をみだす書物の出版を禁止、町人の派手な服装を禁止、また田沼意次の始めた株仲間を解散させました。

 

また、1843年に上知令を発令。

 

幕府の支配を強化するため、江戸や大阪周辺の大名や旗本の領地を幕府が直接支配する直轄地にしようとしました。

 

しかし、大名や旗本、その領地に住む農民たちの強い反対にあい失敗しました。 

 

 

⑤阿部正弘(あべ まさひろ)

(阿部正弘 出典:Wikipedia)

 

 

12代将軍家慶、13代将軍家定の時代の老中。弱冠25歳で老中首座になった人物です。

 

1851年に株仲間を復活させました。

 

1854年ペリーの来航をうけ、アメリカとの間で日米和親条約を取りまとめ、締結しました。39歳の時、志半ばで急死しました。

 

⑥堀田正睦(ほった まさよし)

(堀田正睦 出典:Wikipedia)

 

 

12代将軍家慶、13代将軍家定の時代の老中。

 

1857年にアメリカ総領事ハリスと日米修好通商条約を協議しました。

 

しかし、翌1858年、条約について孝明天皇の許可を求めましたが天皇や徳川氏の一族一橋派の反対にあい、失脚することになりました。

 

 

⑦間部詮勝(まなべ あきかつ)

(堀田正睦 出典:Wikipedia)

 

 

12代将軍家慶、14代将軍家茂の時代の老中。1858年大老の井伊直弼に起用され老中に再任。

 

直弼とともに、孝明天皇の許可がないままハリスと日米修好通商条約を結び、さらに幕府に反対する吉田松陰や橋本佐内らを処刑する安政の大獄を行いました。

 

 

まとめ

・老中は、江戸幕府の政治全般を取り仕切る最高責任者。

・大老は老中より地位は高いが、臨時職であり、いつも置かれたわけではなかった。

・老中の条件は、2万5千石以上の譜代大名であること。

・老中は4~5人選ばれ、1か月ごとに交代して業務を行う当番制だった。

・歴代の老中には、田沼意次、松平定信、水野忠邦、阿部正弘、間部詮勝などがいる。