【プレスコードとは】GHQの行なった言論統制!!背景や30項目・影響について

 

敗戦後の日本を統治したGHQによって行われた言論統制である「プレスコード」。

 

新聞などの報道機関は勿論のこと、個人の手紙に至るまで検閲が行われました。

 

これにより様々な雑誌や記事が発禁処分に追い込まれました。

 

今回はこの『プレスコード』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

プレスコードとは?

(連合国軍最高司令官総司令部 出典:Wikipedia)

 

 

プレスコードとは、敗戦後の1945年(昭和20年)、GHQ(連合国軍最高司令官司令部)によって行われた言論統制のことを言います。

 

敗戦国となった日本に対して定められた規則で、正式名称は「日本に与うる新聞遵則」と呼ばれます。主な検閲対象は統治者であるGHQ批判や原爆に関する記事が該当しました。

 

また一般的な記事だけではなく、占領後期になると個人の手紙などに対しても検閲を行うようになります。

 

GHQ統治下の日本では、日本国憲法が制定され、第21条によって表現の自由が認められましたが、言論の自由は実質的に制限された状態となっていました。

 

この体制は1952年のサンフランシスコ平和条約批准まで続くこととなりました。

 

プレスコードが行われた背景

 

 

プレスコードのが行われた背景には、戦勝国の中心であったアメリカが、日本統治にあたって日本国民が反米にシフトしないようにする必要性があったためです。

 

①第二次世界大戦開戦と日米関係の変化

元々日本とアメリカの関係性は悪くありませんでした。

 

むしろ満州事変までの日本の行動に対して、アメリカは宥和政策を行っていました。

 

日本は拡大路線を進め、大東亜共栄圏の建設宣言が行われ、それを機に中国での権益が脅かされかねないアメリカは経済制裁などを実施します。

 

日米関係が崩れる中で交渉を続けましたが、戦争体制に進んでいく日本に対してアメリカ側の要求は厳しくなります。

 

そして最後通牒とされるハルノートを受けて、日本はアメリカへの先制攻撃である真珠湾攻撃を行い、関係の悪化は決定的となります。

 

 

戦時下の日本では鬼畜米英と呼ぶだけでなく、愛国心の醸成を目的とした外国語の禁止令を行いました。

 

これにより日本では第二次世界大戦中、米英に対する感情が悪化しました。

 

②太平洋戦争時の米国による虐殺

戦争後半になり、より反米感情が高まっていく事となります。

 

戦争末期の1944年、マリアナ諸島がアメリカに攻略されたことでアメリカによる日本への本土爆撃が行われるようになり、各都市に大規模な損害を与えます。

 

19453月の東京・大阪・名古屋・神戸への大規模な空襲、3月から6月に起きた沖縄戦、そして8月に投下された広島・長崎への原子爆弾投下など、一般市民を殺害する戦闘・爆撃を行いました。

 

 

その他にも米軍の残虐行為は各戦地で散見されましたが、一方で日本軍も米軍兵への残虐行為を行っていました。

 

日米双方が国際戦時法で定められた行為の違反をしており、戦争が人の判断を大きく狂わせるものである事は明らかといえます。

 

このような背景から日米の市民感情などはとても良好とは言えず、仮に戦勝国として米国が統治を行ったとしてもすんなりと受け入れられるようなものではありませんでした。

 

そのためウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムと呼ばれる、戦争の罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画が開始され、日本とアメリカの戦争から日本国民と軍国主義者の争いに変遷させていこうとしていました。

 

プレスコードの内容詳細

 

プレスコードは太平洋戦争終了後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が発した規則です。

 

占領下の日本において行われた報道規制・言論統制を行うための規則で、正式名称はSCAPIN-33「日本に与うる新聞準則」と呼ばれていたものとなります。

 

なおSCAPIN-33が出される前に、SCAPIN-16と呼ばれる「新聞報道取締方針」と呼ばれるものが出されていました。

 

この時点ではGHQなどへの批判を避け、太平洋戦争の被害に関する内容を除けば言論の自由が認められていました。

 

しかし、朝日新聞の記事がGHQの意に沿わなかった事もあってプレスコードが発表される事となります。

 

このプレスコードに基づいて、様々な内容に関する言論統制が行われていきました。

 

なお、プレスコードについて当時の市民は知らず、占領国統治が終わった後に知る事となります。

 

①プレスコードの制限範囲

プレスコードで行われた言論・報道規制はGHQに対する批判と原爆に関した記事が主となりました。

 

共に反米感情の出現を抑え込むために行われたものです。

 

全国紙を出していた新聞社である朝日・毎日・読売・日経・東京新聞などはもちろん、大手出版社に限らず地方紙や学術論文、文学作品、ラジオ放送、手紙、電話などほぼすべての媒体に対してへの検閲を行いました。

 

この検閲を行ったのは主に日本人スタッフで5000人はその任を勤めていたといわれています。

 

なお、それにかかる経費は日本政府がすべてを負担する事となりました。

 

②プレスコードの30項目

プレスコードの検閲内容として、30項目あったとされています。

 

要約すると以下の内容となります。

 

連合国軍最高司令官、総司令部に対する批判

・占領軍に対する批判

極東国際軍事裁判の批判

GHQが日本国憲法を起草した事に対する批判

・検閲制度に対する言及

米国、ソ連、英国および連合国の批判

・中国、朝鮮への批判

満州での日本人への処遇に関する批判

・戦前に行われた連合国の政策への批判

第三次世界大戦や冷戦に関する言及

・戦争擁護、神国日本、軍国主義の宣伝

ナショナリズムや大東亜共栄圏の宣伝

・戦争犯罪人の正当化、擁護報道

・闇市に関する報道と、飢餓の誇張

・占領軍兵士と日本人女性の関係に関する報道

 

具体的な内容として戦時下の連合国軍による虐待行為や空襲・原爆投下に関わる内容、占領軍による犯罪や売春、有色人差別やアジアにおける欧米諸国の植民地統治、沖縄に関する情報、戦災に関した文学作品などが含まれました。

 

また、戦争後の連合国軍のイメージを変えるため占領軍ではなく進駐軍という名で呼ばせたり、さらに旧日本国が行っていた検閲を批判し、言論の自由を認めていくというイメージづくりを徹底していました。

 

プレスコードの影響

 

プレスコードにより、GHQは反連合国思想を植え付けることなく当地を完了します。

 

そして、戦後の日本を見てもわかるとおり、日本を親米保守国とする事に成功しました。

 

①当時のメディアの検閲逃れ

当時のメディアは様々な方法で検閲を逃れようとしました。

 

GHQの指示に基づいて作成された日本国憲法に関しては「変な日本語」と表す事で検閲から逃れました。

 

また進駐軍による犯罪は非常に多くありましたが、犯罪の報道もプレスコードにより制限されました。殺人や暴行に加え、強姦などの婦女暴行があったとされます。

 

これに対しメディアは「大きな男」による犯行として、報道する形となりました。

 

余談ではありますが、進駐軍による性的犯罪のリスクから慰安所がつくられるようになりました。

 

そのような背景から日本とアメリカ、イギリスのハーフであるGIベビーが数多く誕生する事となります。

 

②発禁処分

非常に多くの書物が発禁処分となりました。文学作品、研究書等を合わせて8000冊近くが没収されたとも言われています。

 

この中でも、特に多かったのは原爆関連の作品です。

 

栗原貞子の「生ましめん哉」や、峠三吉の「にんげんをかえせ」といった詩は発禁処分となりました。

 

また、永井隆の随筆「長崎の鐘」は単独での出版は認められず、GHQよりマニラ大虐殺の記録集をセットとして発汗することを命じられるなどの事が行われました。

 

まとめ

 プレスコードとは、GHQによって行われた言論統制の施策である。

 プレスコードはサンフランシスコ平和条約批准まで存在した。

 プレスコードにより進駐軍の批判や原爆などの記事はすべて禁止とされ、発禁処分になったものも数多く存在した。

 進駐軍による犯罪行為は報道されなかった。

 プレスコードによって反米的な言論は少なくなり、日本は戦後親米保守の国としての歩みを始める事となった。