約260年続いた江戸幕府が滅び、鎖国状態であった日本に海外の文化が流れてきて時代は明治へと流れていきました。
その明治の中で人々の服装や食事などが大きく変わっていく中、あるものも海外の影響を受け大きく変化していきます。それは『思想』です。
明治期になって新たな思想である啓蒙思想が日本に流れてきました。
今回は啓蒙思想と大きく関わりのあった団体である明六社について、わかりやすく解説していきます。
目次
明六社とは
明六社とは、明治時代に設立された日本で最初の啓蒙思想団体のことです。
明六社は明六雑誌を世に出し、当時の政治体制を批判していきました。
明六社の設立と目的
(明六社の発起人の一人『森有礼』 出典:Wikipedia)
①設立日
明治6年(1873年)に結成されました。
明治6年に結成されたから『明六社』と名付けられています。
※ちなみにこの年に西郷隆盛が征韓論に敗れて官職を辞めて一般人に戻る事件である明治六年の政変も同時に起こっています。
②設立者
初代文部大臣の森有礼(ありのり)を中心に結成されました。
森有礼は日本の教育制度に大きく貢献し、現在の学校の形態(小学校、中学校、高等学校まで)の基礎を作り上げた人物でもあります。
③設立の目的
日本政府が欧米と並び立つために掲げていた富国強兵。
それをものにするためにアメリカから帰国し、海外の影響を受けていた森有礼は人材育成が一番不可欠だと最も必要だと感じていました。
なので、国民一人一人が知的に向上するために学会を日本で初めて創立しよう!と考えたことが目的です。
明六社は日本初の学術雑誌である明六雑誌を刊行しました。その雑誌は日本に大きな影響を与えていきました。
④明六社のメンバーたち
明治維新は様々な制度の導入をして国力強化に努めることだけでなく、ものの見方や考え方を変えることも大切だと考えていました。
これが後述する啓蒙思想と繋がります。
そんな考え方を持った森有礼を始め、同じ考え方を持つ以下のメンバーが集まりました。
明六社メンバー
そんな彼らには共通点がありました。
それは幕末か明治期に海外事情について何らかの形で情報収集していたことでした。
明六社の刊行物『明六雑誌』
(1874年発行 明六雑誌 第十号 出典:Wikipedia)
明六雑誌は1874年(明治7年)4月2日~1875年(明治8年)11月14日まで刊行され、43号まで出ています。
発刊の目的は、明六社のメンバーが演説した内容を基に筆記し、いつでも見れるように形として残すためです。
明六雑誌の内容
①制度的改革
明六雑誌は海外事情に詳しい人たちが書いた雑誌なので、形式的に欧米の諸制度や思想を紹介して、それらを文明国基準とする中で、日本の制度や考え方に批判を加えています。
その実例として、明治期になっても犯人を取り調べするには拷問を使用していました。
しかし、文明国では犯人ではない人が罪を認めしまう可能性があるので、これを認めていませんでした。
そのことで拷問に対して批評しています。
②民心の一新
明六雑誌には日本国民の考え方や気風を変えることの必要性も論じられています。
明治期になっても日本人の気風は専制政治(権力者が思うままに政治を行う政治体制)で根付かれた奴隷の精神が見られています。
そして、幕末では美徳とされていた心根が真っ直ぐなことは明治期では無用の精神とも論じています。
明六雑誌には日本人の主体性や個性がないことを問題意識として見ておりました。
欧米諸国に並び立つ文明国になるためには主体性や個性などを個々に出せるように国民一人一人の知識獲得や文化の向上に努めなければいけないことも論じています。
③人間性の転換
江戸時代の教育の基本として挙げられていた朱子学は人の欲望に関して厳しい規制を持っていました。
しかし、明六雑誌では迷信に囚われない自由な精神をモットーとし、欲望に忠実な人間像こそが素晴らしいと論じています。
そして、欲望は明六社からすれば、健康と知識と並んで富であるとも言っています。
明六雑誌が与えた影響
①読者層
明六雑誌の読者は非常に幅広く官吏や学生、旧士族などに読まれていました。
そして、明六雑誌は東京だけではなく地方新聞にも内容が転載され、全国でも読まれました。
明六雑誌を読んだ読者たちは自由民権問題と明六雑誌を結び付けて同じ問題意識を共有していました。
②和製漢語
文明開化に伴い多くの概念が存在することがわかり、それらにネーミングする必要性が出てきまました。それに伴い人気を誇っていた明六雑誌はそれらを提供する一役を行っていました。
現代まで残った和製漢語は科学、保険、広告など多くの言葉が残りました。
明六雑誌の停刊&明六社の解散
順調なスタートを切っていた明六雑誌でしたが、自由民権運動の気風が高まってきてくるとそれをよく思わない薩長の藩閥政治はメディア統制を行いました。
明六雑誌は非政治的な雑誌であるとしてメディア統制の影響を受けませんでした。
しかし、自由民権運動について論じたことや各新聞社へ大きな影響を与えたことは明六雑誌を政治的な性格にさせていきました。
そのことで明六社ではメンバー同士の温度差を生んでしまいました。
そして、1875年の9月を持って停刊となり、明六社は事実上の解散となりました。
明六社と関わりの深い『啓蒙思想』
啓蒙思想とは人が生活していく上でおかしいことを正しい見解で考え直すことです。
おかしいこととは身分制や封建制(主従関係)で人に社会抑圧をかけ、身動きを取れなくしてしまう制度のことです。
明治期の日本も藩閥政治を行い、政治の中枢に立てるのは薩摩と長州だけにしてしまう政治体制なので、啓蒙思想はこれを批判していきます。
明六社もメンバー全員が啓蒙家なので、明六雑誌を用いて日本の在り方を批判していきます。
その中で福沢諭吉の天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずは啓蒙思想を表現したもので有名な一文ですね。
明六社は四民平等で全員が平等になったからこそ学問による社会を作ろうとしていました。
学問は誰にでも与えられたものであり、知識を得て出世できることを理想としていました。
その明六社に影響を受けたのが板垣退助で有名な自由民権運動でした。
明六社の覚え方!語呂合わせ
森の中。西にあまい、しげき。腹痛だ…痛みに、勝とう!
まとめ
・明六社は明治6年(1873年)に結成された啓蒙家の団体です。創始者は森有礼です。
・明六社は明六雑誌を刊行し、当時の政治体制を批判していきました。
・明六雑誌は各新聞社にも影響を与え、政治色を出してしまいました。
・政治色を出してしまったことで明六社内で対立が起き、1875年に解散しました。
・明六社は啓蒙思想と結びつきが深い団体でもありました。
・啓蒙思想は今まで変だと思ったことを考え直すし思想です。
・考え直すには学問が必要なので、明六社は学問で知識を得ることを重要視していました