【末期養子の禁止とは】わかりやすく解説!!背景や内容その後の緩和した目的など

 

“末期養子”という文字をみて「まつごようし」と正しく読める人は少ないかもしれません。

 

「まっきようし」と読んだ人もいるのではないでしょうか。

 

通常ほとんど聞かれない言葉ですが、今回はこの『末期養子』について言葉の意味と禁止した理由、さらに禁止を緩和することになった歴史の情勢をわかりやすく解説していきます。

 

末期養子の禁止とは?

 

 

末期養子(まつごようし)とは、主に江戸時代、嫡子(ちゃくし)の跡継ぎがいない武家が、一家断絶することを避けるため当主危篤の際に急に願い出る養子縁組のことを言います。

(※急養子とも呼ばれています)

 

江戸幕府では初期はこの養子縁組を一切禁止していたのですが、これは大名の勢力を抑制し、幕藩体制を確立させる為だったといわれています。

 

末期養子の禁止が出された背景・理由

 

 

上記で末期養子の禁止理由を一言で「大名の勢力抑制」としましたが、この養子縁組禁止がどのようにして勢力抑制につながるのでしょうか。また、何故その必要があったのでしょうか。

 

①武家の跡継ぎ

江戸幕府では、武家の家督を継ぐ際に主家である徳川将軍家に跡継ぎとして認めてもらっておく必要がありました。

 

特に御目見(おめみえ)といって将軍に直接会えるくらいの格が高い大名は跡継ぎが将軍に謁見(えっけん)しておくことも必要だったそうです。

 

つまり、事前に跡継ぎを決めておかないと、当主の急死や危篤の際にはこれが出来ないことになります。

 

よってその家は跡継ぎがいない為にお取り潰し(お家断絶)となってしまったのです。

 

②大名削減

江戸初期は徳川家に匹敵するくらいの力を持ち得る大名もまだ多く、幕府としては出来る限り強力な大名の力は削っておきたかったのです。

 

しかしながら戦乱の終わった時代に戦いで倒すことは勿論出来ません。

 

当時は急病や事故などで急死する人も多かったそうですので、その機会を上手く活かしたのだと考えられます。

 

③幕府支配への従順

また末期の養子縁組は当主の真意でない場合もありました。

 

当主亡き後に家臣や周囲の親族が口裏合わせする可能性も十分考えられたのです。

 

当主が幕府に忠誠を誓ったといっても、周辺の家臣や幕府に叛意のあるものの意を組んだ跡継ぎをたてられては幕府としても都合がよくなかったのでしょう。

 

武家の当主たるもの跡継ぎを決めておいて当然とばかりに、虚偽の可能性が出る末期養子を禁じたとも言われています。

 

末期養子の禁止の大きな誤算

 

 

末期養子の禁止は、ある程度幕府の目論見通り“支配体制の確立”には有益な方針だったといえます。

 

しかし、その副作用ともいうべき誤算が生まれたのです。

 

①牢人と浪人

牢人(ろうにん)と同音で浪人ですが、どちらの文字を使うのが正しいのでしょうか。

 

意味としてはどちらもほぼ同意で使用されていますが、古代には『本籍から外れて他国で浮浪人(浪人)として暮らす人』を、中世以後は『主人から自ら離れたり、また主人を失ったりした武士』をさしているようです。

 

鎌倉から室町時代にかけては、仕事につかないこと、落ちぶれること、困窮することなどの意「牢籠(ろうろう)から、「牢籠人」「牢人」などと表していたようですが、江戸後期から幕末にかけてはその音から「浪人」が多く使用されているようです。

 

ここではややこしくなるので「牢人」で統一させて頂きます。

 

ちなみに現代でも『主家を離れてしまった』という意味の「浪人」が“会社を辞めた人、大学などの上級学校に進学できなかった人”を指す言葉として使われていますね。

 

②牢人の増加

末期養子の禁止のため、数多くの大名はお取り潰しになってしまい、その結果として主家を失った多くの武士たちが牢人となっていきました。

 

特に初代将軍家康から三代家光までの徹底した諸政策によりお取り潰しになった大名は131にものぼり、全国では五十万人近くの牢人があふれていたともいわれます。

 

また、戦いのない時代に牢人は地方では再就職もままならず、徐々に大都市に集まるようになっていったため、社会不安が増すことになっていくのです。

 

③島原・天草の乱と慶安事件

社会不安が現実のものとなったのが、1637年「島原・天草の乱」1651(慶安4)「由井正雪の乱(慶安事件)」になります。

 

 

「島原・天草の乱」は歴史上最大の一揆であり、キリスト教信者が起こしたとして宗教的な側面もみられますが、この一揆が幕府軍でもなかなか鎮圧できなかったのは、多くの牢人が一揆に参加していたことが原因だったといわれています。

 

また、「由井正雪の乱(慶安事件)」3代家光亡き後、4代家綱が幼少で将軍職を継ぐ時期に起こりました。

 

軍学者でもあった由井正雪(ゆいしょうせつ)が、当時大都市にあつまってきていた牢人たちを使い、幕府に対してクーデターを起こそうとしたのです。

 

幸いにも事前に事件が発覚したため、未遂に終わったのでした。

 

いずれも、牢人増加による社会問題を鮮明に浮き彫りにしたので、幕府の政治体制も大きな転換を余儀なくされていったのです。

 

末期養子の禁止の緩和

①武断政治から文治政治へ

3代将軍家光までの時代は、武力を背景に厳しく大名たちを統制していくという武断政が行われ、幕府の基礎を固めていきます。

 

しかし、4代将軍家綱の時代からは保科正之らの補佐を受けながら、法律によって統制していく文治政治へと切り替わっていくことになります。

 

 

Hoshina Masayuki.jpg

(保科正之 出典:Wikipedia

 

 

その中の1つが「末期養子の禁止の緩和」となります。

 

 

②末期養子の禁止の緩和

慶安事件の4か月後、165112月末期養子の禁止が緩和されることになりました。

 

これによって牢人の発生を抑えようとしたのですが、この緩和にはある一定の条件が設けられました。

 

それは「当主が生存していること」「その意思を幕府の役人が確認していること」「当主の年齢が17歳から50歳以下までであること」の3つとなります。

 

③緩和の条件

末期養子をとる際に、幕府の役人が派遣されて判元見届(はんもとみとどけ)にいきます。

 

これにより、当主が生存した状態であることと、その養子縁組の意思が本当であることを確認したのです。

 

また、対象年齢を当初17歳以上にしたのは、それ以下の年齢の場合はまだまだ当主としての年月が浅いという点と、50歳以下までにしたのはそれ以前に嫡子がないのに養子縁組してないのはおかしいという考えからです。

 

のちに年齢制限も徐々に緩和されていくことになります。

 

末期養子の例

(忠臣蔵十一段目夜討之図 出典:Wikipedia)

 

 

末期養子が認められた例を一つあげますと、あの忠臣蔵で有名な吉良家と上杉家の間の養子縁組があります。

 

米沢藩上杉家30万石の当主上杉綱勝が27歳で病死した際に、綱勝には嗣子がなくお取り潰しになりそうでしたが、急遽吉良上野介義央の子三之助を末期養子として家督相続をお願いしました。

 

上杉綱勝の正室が保科正之の娘でもあったため、30万石から15万石に石高は減らされたものの、上杉家は存続することができたそうです。

 

その後の養子縁組

養子縁組の制度は時代がたつほど緩くなっていき、江戸期後半には商人等が持参金付きで武士の身分を得るような持参金養子などが盛んになったり、庶民の間では証文のやり取りだけで簡単に養子縁組が出来たりしたようです。

 

明治期になると、「戸主」を中心とした「家制度」の元で養子縁組が行われるようになり、さらに戦後の民法改正により、現代では「普通養子縁組」「特別養子縁組」の二つの養子縁組がありますが、いずれも法律にのっとり実施することが可能となっています。

 

まとめ

✔ 末期養子とは、江戸時代跡継ぎのない武家が危篤の際に急に願い出る養子縁組のこと。

✔ 江戸初期には末期養子は禁止していたが、それは幕府の大名統制の一つだった。

✔ 末期養子の禁止の為にお取り潰しになった大名は3代将軍までが非常に多かった。

✔ お取り潰しの影響で、各地に牢人が増加し、社会情勢の悪化を招いた。

✔ 牢人の多数参加が「島原・天草の乱」を鎮圧困難にした原因のひとつでもあった。

✔ 「慶安事件」は由井正雪が多くの牢人を使い、幕府にクーデターを起こす企みであった。

✔ 4代将軍の時代には牢人増加を抑える為に【末期養子の禁止の緩和】が行われた。

✔ 禁止の緩和も当初は条件付きで、時代を経て徐々に緩くなっていった。