明治時代の初め、政府は江戸幕府のやり方にならって、華族や士族に対して秩禄(年金のようなもの)を支給していました。
ところが、財政負担が大きかったため、政府は秩禄の廃止を決めます。その代わりに発行したのが、金禄公債証書と呼ばれるものです。
今回は、この『金禄公債証書』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
金禄公債証書とは?
(金禄公債証書 画像引用元)
明治政府は1876年、華族や士族に対して毎年支給していた秩禄を廃止する代わりに、秩禄数年分の公債(金禄公債)を発行し、華族や士族に与えました。
この公債の証書を金禄公債証書と言います。
金禄公債を発行した背景には、秩禄の支給が政府の財政難を招いていたという事情がありました。
金禄公債の発行により、この財政難が解消されるとともに、一部の華族や士族は公債を投資することで事業の立ち上げに成功しました。
ですが、大多数の士族はそのチャンスを生かせず、雇われ労働者(プロレタリア)になりました。
金禄公債証書が発行された背景
発足したばかりの明治政府は当初、江戸幕府のやり方にならって、華族や士族に対して毎年秩禄(家禄と賞典禄)を支給していました。
①家禄
このうち、家禄とはもともと主君が家臣に対して支給していた給与のことで、その額は家柄や役職に応じて決まっていました。
家禄は幕府や藩から家臣の武士に支給されていましたが、公家や寺社に支給されるケースもありました。
大政奉還によって幕藩体制が終わり、従来の主従関係が解体されたので、本来ならば家禄はなくなるはずです。
しかし、いきなり家禄を打ち切ってしまうと、収入がなくなった士族が反発するのは、目に見えて明らかです。
そこで、明治政府は初めのうちだけ、江戸幕府から家禄の支給を引き継ぐことにしました。
②賞典禄
他方、もう一つの賞典禄とは、明治政府が維新のときに貢献した華族や士族に支給した給与のことです。
財源は政府が没収した領地からの年貢によってまかなわれました。
③秩禄処分
しかし、明治政府が負担していた華族や士族への秩禄の支出額は、当時の政府歳入の4分の1~3分の1を占めていました。
ただでさえ財政基盤が固まっていない明治政府にとって、秩禄の支給はきわめて深刻な財政問題を招いていました。
そのため、明治政府は秩禄の廃止に向けて、徐々に制度を変更していきました。これを秩禄処分と言います。
この秩禄処分の最終段階として行われたのが、秩禄公債と金禄公債の発行でした。
④秩禄公債
金禄公債に先立って、1874年から秩禄公債が発行されました。
これは、自主的に秩禄を放棄した華族や士族に対して発行された公債です。
公債の利率は8分(8%)で、発行から2年間は据え置き期間とされ、それ以降に償還(返済)されました。
秩禄公債の総額は約1656万円と、それほど大きな規模ではありませんでした。
秩禄公債への自主的な移行がうまく進まなかったため、明治政府は残りのすべての秩禄を強制的に金禄公債へ置き換える処置をとることになりました。
金禄公債証書の内容
①金禄公債の仕組み
明治政府は1876年8月5日、太政官布告108号で、これまで華族や士族に毎年支給していた秩禄(家禄と賞典禄)を廃止し、その代わりに秩禄数年分の金禄公債を発行することを布告しました。
これにより、秩禄公債への切り替えをしていなかった人も全員強制的に金禄公債への切り替えをしなければならなくなりました。
金禄公債証書の額面は、5円、10円、25円、50円、100円、300円、500円、1000円、5000円の9種類があり、利率は5分(5%)、6分(6%)、7分(7%)、1割(10%)の4種類がありました。ただし、実際には5円の証書は発行されませんでした。
これらの組み合わせで一人一人の金禄公債が発行されましたが、その額や利率はそれまで支給されていた秩禄の額、種類、年限などによって決められました。
また、金禄公債証書の発行と同時に、現金を支給する場合もありました。
②金禄公債の規模
実際に発行された金禄公債の総額は1億7384万4595円で、証書が支給された人数は31万3517人でした。
また、現金支給は73万5315円でした。
こうして支給された金禄公債と現金の総額は、当時の政府の年間財政支出の3倍に上るほど巨額でした。
しかし、支給された人数も多かったため、1人あたりの支給額はそれほど大きくありませんでした。
実際、最も人数が多かった7分の利率の公債を受け取った人たちの平均発行額は、現金支給分も含めて1人あたり約415円、年間の利子収入は29円弱というわずかなものでした。
その点で、これまでの秩禄の代わりになるものではありませんでした。
あくまで華族や士族が自立するまでのつなぎとして考えられていたのです。
③金禄公債の償還
金禄公債は政府が発行する公債ですから、当然決められた年限が来たら、政府が償還(返済)をしなければいけません。
しかし、当時の政府には、発行した金禄公債を一斉に償還するほどの財政的な余力がありませんでした。
そこで、金禄公債では、公債発行から5年間は据え置き期間として、6年目以降に抽選で償還を始め、通算30年間で償還を終えるという仕組みを採用しました。
これにより、政府は無理なく順次金禄公債の償還を行おうとしました。
金禄公債証書の影響
①政府の財政難の解消
金禄公債証書の発行により、政府はこれ以上秩禄を支給する必要がなくなったため、財政支出を大幅にカットすることができました。
もちろん金禄公債の利子を支払わなければなりませんでしたが、これまでの秩禄の総額に比べれば、大した負担ではありません。
明治政府はその後、金禄公債の償還を順調に進めました。これにより、政府の財政は正常化していきました。
②華族や士族による事業の立ち上げ
華族や士族の中には、金禄公債を投資することで、会社を設立して事業家に転身する者たちがいました。
その代表例が、士族による国立銀行の設立です。
国立銀行は明治の初めに設立された政府公認の銀行で、政府が明治初年に大量に発行した政府紙幣を整理するとともに、殖産興業のために資金を供給する役割を与えられていました。
政府が1876年8月、国立銀行条例を改正して、国立銀行設立の時に抵当に入れる公債として金禄公債を使えるようにすると、士族たちは次々と国立銀行を設立しました。
1879年12月に国立銀行設立の免許が停止されるまでの間に、各地に153もの国立銀行が誕生しました。
他にも、鉄道会社や工業メーカーを設立するケースがありました。
③大多数の士族のプロレタリア化
しかし、大多数の士族は窮乏していたため、金禄公債を有効に投資することができませんでした。
金禄公債は初め売却が禁止されていましたが、1878年9月にそれが解禁されると、そうした士族は金禄公債証書を商人に売り払い、雇われ労働者(プロレタリア)に転じました。
まとめ
✔ 金禄公債証書とは、明治政府は1876年に華族や士族に対して発行した公債の証書のこと。
✔ 毎年支給していた秩禄を廃止する代わりに、華族や士族に与えられた。
✔ その背景には、秩禄の支給が政府の財政難を招いていたという事情があった。
✔ 金禄公債の発行により、政府の財政難は解消された。
✔ 一部の華族や士族は公債を投資することで、国立銀行の設立など、事業の立ち上げに成功して自立した。
✔ 他方、大多数の士族は、そのチャンスを生かせず、公債を商人に売り払って、雇われ労働者(プロレタリア)になっていった。