今でも人気がある源平合戦。
しかし、この戦いの裏側には平氏の油断の数々や、源氏の奇策などが行われていたのです。
今回はそんな源平合戦のことである「治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)」についてわかりやすく解説していきます。
目次
治承寿永の乱とは?
(治承・寿永の乱(源平合戦)地図 出典:Wikipedia)
治承寿永の乱とは、1180年の以仁王の乱から1185年の壇ノ浦の戦いまでの5年間の争いのことを指します。
この争いによって平氏は滅亡してしまいました。
ちなみに、源氏と平氏が争ったことから源平合戦と呼ぶこともあります。
治承寿永の乱までの流れ
①勢いに乗る平氏
時代は平安時代末期の1160年。
この年、源氏の棟梁源義朝が平治の乱と呼ばれるクーデターを起こし朝廷の権力を握りますが失敗します。
源氏は没落してしまい、逆に平治の乱を鎮圧した平清盛率いる平氏が朝廷内で権力を持つようになります。
(平清盛 出典:Wikipedia)
清盛は当時の天皇であった後白河天皇と協力して朝廷を運営。五摂家のトップであった近衛家とも婚約関係を結び、平氏の地位を上げていき知行国を増やしていきます。
こうして躍進を果たした清盛は1167年には朝廷のトップである太政大臣に就任し、平氏は権力を確立させたのです。
しかし、その急速な権力拡大が平氏のおごりに繋がっていき、平氏の要人平時忠は「平家にあらずんば人にあらず」と平氏以外は虫けら以下とさげすむほどだったとか。
でもこんな慢心な状態の平氏に不満を持つ人は少なくありませんでした。
②治承三年の政変
こうして不満を持たれながらもどんどん躍進していく平氏。そしてついに清盛はとんでもないところまで手を出してしまうのです。
1177年、後白河上皇がなんと側近と一緒に平氏の転覆計画を立てていた所をバラされてしまうという鹿ケ谷の陰謀と呼ばれる一大事件が起きます。
これに対して清盛は激怒。
1179年には後白河上皇による院政を停止させ、翌年には当時の天皇である高倉天皇が平氏との繋がりが強かった安徳天皇に譲位します。
さらに平氏の知行国を17ヶ国から32ヶ国に増大させるなど、どさくさに紛れて日本の半分の領地を平氏のものにしました。
しかし、このクーデターが治承寿永の乱の直接的な原因になるのは誰も気付くことはありませんでした。
治承寿永の乱の経過【前編】
(治承寿永の乱 出典:Wikipedia)
①以仁王の乱と源氏の挙兵
こうして安徳天皇に譲位されましたが、これに対してブチ切れた人が1人いました。
それが治承寿永の乱を引き起こることになる以仁王(もちひとおう)だったのです。
(以仁王 出典:Wikipedia)
以仁王は本来だったら自分に天皇の座が渡るはずだったのに安徳天皇に譲位したことに激怒。平氏の討伐を決意して全国に平氏追討の命令の文書を発します。
その結果以仁王自身は結局平氏によって倒されてしまい宇治にて戦死してしまうのですが、大義名分を得た各地の源氏たちは一斉に挙兵。
当時伊豆に流されていた義朝の息子である源頼朝も挙兵して石橋山の戦いで敗北するものの、関東地方における権力を確立させて平氏と対抗していきました。
②富士川の戦いと清盛の死
以仁王を倒したものの、東国にて頼朝が挙兵したことを聞いた清盛はすぐさま息子であった平維衡を大将とした大軍を東国に派遣します。
しかし、この時平氏は京都での生活にどっぷり浸かっており、戦というものを知りません。
また、平維衡という人物は大変臆病だったこともあり富士川の戦いと呼ばれる合戦はまさかの水鳥が飛ぶ音に驚いて退散するというあっけない幕引きに終わってしまい、東国の討伐は失敗に終わります。
「なんでこんなに軟弱なんだ!」もうヤケになった清盛の勢いは止まりません。
清盛は平重衡に対して平氏に対して反逆的な態度を見せていた奈良の興福寺と東大寺を焼き討ちにするように命令。畿内の反平氏勢力を滅ぼしていきます。
しかし、こんな罰当たりなことをしたのからでしようか?清盛は熱病にかかってしまいこの世を去ってしまいます。
そして偉大な指導者であった清盛の死によって平氏は一気に凋落していくのでした。
③木曾義仲の挙兵と都落ち
清盛の死後、平氏は源氏の討伐に明け暮れることになるのですが、1181年に信濃にて木曾義仲が挙兵。越後を通過して北陸方面から一気に攻めにかかります。
(木曾義仲 出典:Wikipedia)
平氏としては信濃と越後の軍勢を率いていた義仲は脅威しかありません。
清盛の跡を継いだ平宗盛は1183年に平維盛に7万の軍勢を与えて義仲を討伐するように命令します。
しかし、相変わらず平氏は戦が下手な模様で義仲の作戦に大苦戦。
さらには倶利伽羅峠において松明をつけた牛による戦法によって平氏軍は壊滅的な被害を折ってしまい敗北。もはや誰も義仲の勢いを止めることはできずに7月には京都のすぐそばにある比叡山延暦寺に布陣します。
平氏としては京都を離れることは出来ないことだったとは思いますが、状況が状況なので宗盛は京都からの脱出を決意し、ついに京都から退去。
平氏が都落ちをするまでに落ちぶれた瞬間でした。
源平合戦における四連戦【後編】
(宇治川の戦い 出典:Wikipedia)
①宇治川の戦い
平氏が都落ちした後京都では義仲が支配することになったのですが、なんで信濃の山奥出身だったため礼儀作法というものを知りません。
また、義仲軍による乱暴な行為も相まって義仲の人気は急降下。これを見かねた頼朝は弟である義経と範頼に軍を渡し義仲追討に動き出します。
そして始まった宇治川の戦い。
しかし、たとえ義仲といえども源氏の棟梁による追討軍には勝つことが出来ず義仲は戦死。
代わりにこの戦いに勝利した義経と範頼が京都に上洛し、今後はこの2人によって源平合戦は動いていくことになるのです。
②一ノ谷の戦い
宇治川の戦いの最中平氏は源氏のゴタゴタもあり一気に勢力を回復し、1184年には今の神戸あたりまで勢力を盛り返していました。
さらに例え平氏が都落ちしても安徳天皇と天皇の証である三種の神器は平氏の手にあります。
これに危機感を抱いていた後白河天皇は直ちに義経と範頼に対して平氏の追討と三種の神器の奪還を命令し、一ノ谷と呼ばれる場所に布陣。一ノ谷の戦いが始まりました。
義経は平氏を確実に潰すためにとある奇策を思いつきます。
それこそが崖から馬に乗って平氏が布陣しているところに一気に降るという鵯越の逆落としと呼ばれる戦法です。
この戦法によって平氏軍は大混乱。重要な武士が戦死してしまい、平氏は屋島に敗走しました。
③屋島の戦い
こうして一ノ谷の戦いは平氏の敗北で終わりましたが、天皇と三種の神器がある平氏はまだめげません。
平氏は今の香川県にある屋島に本陣を置いて源氏の軍に対して水軍による妨害行為を行っていきます。
これを見かねた義経は再び出陣。本来なら水軍によって攻めるはずのところを平氏の水軍には勝てないと判断して逆に阿波(徳島県)に上陸して陸から攻めるという戦法を取ります。
平氏は水軍には強かったものの、陸戦においては富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いから見れるようにヘッポコでした。
そのためこの屋島においても平氏が勝てるはずもなく敗北。平氏は長門(山口県)の方に敗走することになりました。
④壇ノ浦の戦い
こうして一ノ谷と屋島で負けた平氏。
さらに、この頃になると範頼が平氏の本拠地の一つであった九州を完全に制圧してしまい、平氏の本陣は長門の彦島と呼ばれるところで孤立してしまう結果となります。
後に引けなくなった平氏軍はとどめを刺そうとしてくる義経水軍と壇ノ浦にて最終決戦を挑みます。
平氏といえば水軍。最初の頃は平氏率いる水軍に苦戦を強いられていましたが、義経が禁じ手の船の漕ぎ手に矢を撃つという行為をしたことと、潮の流れが源氏有利になったことが決め手となり源氏の勝利は決定的なものになってしまいました。
「もはやこれまで」そう感じた平氏の武将たちは次々と海に飛び込んで死んでいきます。
さらに安徳天皇も母の二位尼に抱えられ三種の神器と一緒に入水し、ついに平清盛によって繁栄した平氏は以仁王が反乱を起こしてから5年目にしてこの壇ノ浦の戦いによって滅んだのでした。
治承寿永の乱のその後
治承寿永の乱が終結しててからすぐの日本では源頼朝が各地に守護と地頭を設置して関東地方を統治していきます。
これがいわゆる日本初の武家社会である鎌倉幕府の成立と言われています。
しかし、実際戦った義経・範頼とあまり戦っていない頼朝との間でどんどん溝が深まっていき、義経が頼朝に無断で検非違使という役職に就くと頼朝は大激怒。義経を鎌倉に入れず、実質的に追放しました。
こうして時代は源氏と平氏の争いから兄の頼朝と弟の義経との争いに変わっていくことになっていくのでした。
まとめ
✔ 治承寿永の乱は以仁王の乱から壇ノ浦の戦いまでの間に起こった源氏と平氏の争いのこと。
✔ 最初の頃は平氏が以仁王を討伐するなど平氏が優勢だったのだが、時代が経つと源義仲によって都落ちをしなければ行けなくなった。
✔ 陸戦に弱いということが仇となってしまい、最終的に平氏は壇ノ浦の戦いで滅んだ。
✔ その後日本では主に平氏と戦った義経と頼朝の間で戦争が起こった。